第23話 カネの色
久保が泣き崩れる前に、機動分析係と合流しなければならない。
今頃、樽谷の指示で、機動分析係は、全てのパソコンとスマートフォンを回収しようとしているかもしれない。樽谷さんの指示を食い止めなければならない。
恐らく杉浦と思われるが、フィッシング・メールの送付元を確かめなければならない。フィッシング・メールのリンク先を確認する必要がある。
「私は、機動分析係と合流します。では、失礼します」
元来た道に足を向けようとした。
頭の隅に、何かが引っ掛かった。私の専門分野ではない。だが、
「加賀さん、私は捜査二課に所属していませんので、捜査二課の普段の業務に詳しくありません。ですが、二年分の会計データを持ち帰る必要は、あるんですか」
「二年分の会計データとは、何の話をしているんですか」
晴れやかだった加賀の顔が、色をなくし、透き通っていった。ポメラニオンは、
「私は、これから、機動分析係と共に、過去にも、同様のフィッシング・メールが届いていないか、確認します。ですが、どうしても、樽谷さんが膨大なデータを持って帰った事実が気になります。二年間に
「樽谷さんは、二年分の会計データを押収したんですか!」
「会話の流れを聞いていた限りですと、樽谷さんが、最後に、小桜動物園を監査した時期は、二年前のようです。つまり、樽谷さんは、自分が把握していない二年分の情報を持ち帰ったようですね」
加賀が、顔を両手で覆いながら、崩れるように、しゃがみ込んだ。加賀の両手の指の隙間から、断末魔の声が聞こえた。
「樽谷さんの悪癖が出た。財務捜査官による捜査と言うよりも、公認会計士監査をしようとしている。樽谷さん、今、貴方は刑事なんですよ!」
夜空に向かって、加賀が絶叫した。空に
「樽谷さんは、捜査二課室に戻ったら、二年分の会計データを多角面から見て、不正を
「
地面に体育図りしようとした加賀を立たせた。加賀は、よろめきながら、既に見えなくなった、樽谷さんの後を追った。
私はライオンのケージの横の脇道に戻って行った。事務室に戻ると、久保が床に座り込み、号泣していた。幼子のように手放しで泣きじゃくる久保を、機動分析係の面々は、呆然と見ていた。
私は、久保に近付くと、背を
「樽谷が状況を
杉浦が病院に運ばれ、小桜動物園の社員たちが、事務室に戻って来た。事務室内の異常事態に気付くと、社員たちは、入口の手前で止まり、恐々と事務室内を
なんとか正気を取り戻した久保の指示の下、フィッシング・メールが届いていないか、社員たちが、メール・フォルダを確認し始めた。フィッシング・メールのターゲットとなっていた人物は、園長と経理部員のみだった。運が良いのか悪いのか、リンク先に資金を振り込んだ人物は、久保のみだった。
久保のパソコンに届いたフィッシング・メールの送付元は、杉浦の社用メールアドレスだった。《パンダ》と《コアラ》の契約情報に使用されていた、社用メールアドレスと一致していた。
何故、杉浦は、社用メールアドレスを利用したのだろうか。フリー・メールアドレスから送信したほうが、杉浦に辿り着くまで、時間が掛かっただろう。
手分けをしながら、届いたフィッシング・メールに付いたリンク先を突き留める作業を続けた。だが、疑問が頭を支配した。
リンク先のソースを確認した。バンク・オブ・ホライゾンの日本支店へ振込を誘導していた、と判明した。
振込先を突き止めると、事務室を出た。周囲に人がいないか、注意深く、確認した。樽谷さんに電話を架けた。私から樽谷さんに電話を架けたが、永遠に電話が繋がらないように、祈る自分がいた。
三秒を待たずに、樽谷さんの声が、スマートフォンから吐き出された。
「現在、小桜動物園の財務分析を行っております。集中力が途切れるようなお話をされるようでしたら、
「加賀さんの言い分によると、現在、本分を忘れて、公認会計士監査をされているようですね。小桜動物園に振り込まれた怪しい資金について、心当たりは、ありますか」
「失礼な。私は、財務捜査官として、適切な行いをしていますよ」
白々しい。今回ばかりは、加賀の言葉を信じるぞ。
「その調子ですと、警視庁にお戻りのようですね。ネット・フィッシングで誘導された振込先は、バンク・オブ・ホライゾンの日本支店でした。捜査二課の捜査結果と整合していますか」
「合っていますね。証拠が揃い次第、ネット・フィッシングに使用されたバンク・オブ・ホライゾンの日本支店の口座を凍結します。情報を頂き、ありがとうございます」
「私の質問にも、答えて下さい。凍結した小桜動物園の帝星フィナンシャル銀行の口座には、複数の個人からの振り込みが、ありましたよね?」
「ありましたが、それが、どうかしましたか」
スマートフォンを握り締める力が強くなった。
「先ほど、憶測で判断する行為は、不適切だ、と
「小桜動物園が、不正な資金送金の中間地点だった、という貴女の推理ですか」
喉の奥で笑っているような、小さな笑い声が、スマートフォンから漏れ出した。笑い声は、徐々に、大きくなっていった。
「貴女の
樽谷さんの笑い声に、否が応でも、緊張が高まった。
風の囁き。事務室の中から漏れ聞こえる話し声。遠くから聞こえる、動物たちの鳴き声。
全てが遠ざかっていく。
「カネに色はありません。複数の個人から帝星フィナンシャル銀行に振り込まれたカネが、バンク・オブ・ホライゾンの口座に移動されたかどうか、現時点では、分かりません。同じ色が付いたカネかどうか、区別できませんから」
言葉に詰まった。樽谷さんの冷徹な言葉は、正鵠を突いていた。
帝星フィナンシャル銀行の口座内のどの金が、バンク・オブ・ホライゾンの口座に移動したか、証明は困難だ。
スマートフォンを握り直し、語調を強めた。
「小桜動物園の帝星フィナンシャル銀行の口座は、現在、凍結されています。小桜動物園が、犯罪関係者でなければ、口座凍結を解除する必要があります」
「小桜動物園が、犯罪関係者か否か、捜査しなければ、分かりません。ですから、情報を洗い出し、事実に基づき、犯罪関係者か否か、判断します。小桜動物園は、資金に困窮していましたし、杉浦と手を組んだかもしれませんね」
「杉浦の言動と、一致しません。杉浦は、スキャンダルをばら
「動機・機会、プレッシャー、正当化」
突然、突き付けられた言葉に、口の動きが止まった。
「警察学校で習う内容でしたっけ?」
「公認会計士の専門用語です。会社が不正を行う手法を考える際に、使用する三つの要素です。動機・機会」
樽谷さんは、厳かに、言葉を紡ぎ出した。
「利益を享受したいと思い、その機会に恵まれる。プレッシャー。ある行為に追い込まれる。最後に、正当化」
樽谷さんの言葉が、途切れた。沈黙に耐え切れず、私は唾を飲み込んだ。
樽谷さんが、言葉を投げ捨てた。
「自分の行いは正しい、と自分自身に信じ込ませる。罪の意識が軽くなる。人は、罪を犯す感覚を失う。善人が、清い道を歩いている気でいながら、いつしか悪人になる」
樽谷さんが、軽やかに笑った。
「杉浦は、どうだったんでしょうね。久保は、どうでしょう。人は、幾らでも、罪を犯せるんですよ」
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