泡沫の雨こむぎ その2

 翌朝、いつもより早く「こむぎ日和」へ入った凛子は山積みの紅白クロワッサンに目を剝いた。

 「ど、どうしたんですか? 大丈夫なんですか、こんなに焼いちゃって?」

 思わず声が出た凛子に、マスミさんがスマホを見せる。

 「なんかこれが原因だったみたいなのよ」

 そこには「こむぎ日和」の紅白クロワッサンが大々的に取り上げられており、かなりの数のハートマークが付いている。俗に言うSNSでバズった状態であった。

 「私、こういうのはよく見ないんですが…… どうしてこんなに? きっかけがあったんですか?」

 そう尋ねる凛子にマスミさんは肩をすくめて、

 「それがさっぱり。なんか凄い人が最初に宣伝してくれたみたいで……」

 世の中はわからないものだ。ほんの些細なひとことでも影響力のある人物が呟けば、あっという間に拡散し、訳の分からない人気が生まれる。しかしそれは裏を返せば……

 そこまで考えた時には、すでに店の前の行列が通りの往来を妨げようとするほどに伸びていた。これは近所の迷惑になる、と考えた佐藤さんが、開店を早めると決断した。

 急いで店のカーテンを開け、凛子はエプロンをつけるとバンダナの代わりに赤いサンタ帽を被った。そして頑張って変身し、にっこり笑った。


 昨日より遥かに忙しかった。目が回る、という表現を実際に体感することになろうとは夢にも思わなかった。午後3時頃、凛子は眩暈でふらついてしまった。

 「凛子ちゃん、15分だけ休憩しなさい。なにか口に入れなさい!」

 マスミさんが大きな声で言ってくれた。お言葉に甘えることにした凛子は、隙を見てバックヤードへ飛び込んだ。

 ひと先ず座って、バスケットの中の紅白クロワッサンが目に入った瞬間、思わず怖気を振るう。

 バターロールはないのか? そう思い覗き込んでみるが底の方まで赤と白の模様ばかりが見える。

 まいった、昨日の晩も貰って帰った紅白クロワッサンだった。今朝もその残りを摘まんでから家を出た。つまりここでこれを食べると三食続けて紅白クロワッサンになってしまう。流石に飽きる…… だが選択の余地はない。2つばかり口に押し込むとポットの温くなった紅茶で流し込む。そしてすぐに立ち上がった。マスミさんも休憩していないはずだ。

 店に飛び出すと、強引にマスミさんの場所に割り込み、

 「マスミさんも、休んでください!」

 と鋭く言った。驚いた顔を一瞬だけしたマスミさんは、片手を縦に立てて「ありがとう」と小さく言ってバックヤードへ飛び込んで行った。

 凛子はそのまま爽やかな笑顔を顔に貼り付けたまま、ひたすら接客を繰り返し続けた。


 精も根も尽き果てた、という体だった。売るものが無くなって初めて客足が引いた。

 こんなことがあるのか、と凛子は呆然と見事になにも無くなった商品棚を見つめていた。今夜はなにを食べれば良いんだ?

 ぼんやりしていた凛子に、

 「今日は本当にありがとうね、遅くまで手伝ってもらってごめんね」

 マスミさんがそう言って手を握ってくれた。

 夕方5時までが凛子のアルバイト時間だったが、昨日は6時まで、今日はさらに遅く、8時の閉店時間近くまで自発的に残ったのだ。素の顔に戻らない、笑顔が張り付いてしまった顔のまま、凛子は片手だけをあげて応えた。

 もう喋りたくない。

 その時、店の扉をノックする音が聞こえ、マスミさんが扉の方へ向かって行った。

 「すみません、今日はもう商品が無くなってしまって、少し早くに閉めたんです」

 そんな声を聞きながら、凛子はエプロンを外そうとバックヤードへ入ったのだが、そこで急に男の大きな怒鳴り声が聞こえ、思わず振り向いた。

 扉をどんどん叩きながら男が意味の分からないことを叫んでいる。まだ時間前だ、時間までは売る義務がある! などと。凛子は慌てて扉の方へ向かいかけたが、すぐに奥から飛び出してきた佐藤さんに止められ、代わりに佐藤さんがマスミさんのもとへ走って行った。

 少しの間、佐藤さんの鋭い声と男の怒鳴り声が聞こえていたがやがて静かになった。やれやれという顔で佐藤さんが戻って来る。

 カーテンの隙間から見えた男の姿に凛子はぞっとするものを感じた。30過ぎくらいのまだ若い男だったが、凛子の目は別のものを捉えていたからだ。店を睨みつける男の透ける姿が、去っていく若い男に覆いかぶさっていた。

 凛子の持つ特異な能力、それは霊感であり、人には見えないものが凛子には見えてしまうのだ。


 最後に思いがけなく迷惑な客が来てしまったと、苦笑いしながら佐藤さんが、改めて奥の部屋からビニール袋をぶら下げて戻ってきた。その袋の中身が握り寿司のパックだと知った時、凛子の心は浮き立ち、先ほど見てしまった嫌なものの事はすっかり忘れて、思わず営業用のスマイルではない、本心からの笑顔になった。

 「流石にパンはもう見たくないだろ? 明日からは『紅白』は焼かないから通常に戻るよ、きっと」

 佐藤さんが微笑みながら、それでも目の下のクマが目立つ顔でそう言ってくれた。今年の営業はあと3日だ。佐藤さんはこれからまだもうひと頑張りするのだろう。

 (私ももうちょっと付き合わなくちゃ)

 そう思いながら、凛子は礼を言って店を後にした。

 

 翌朝、昨夜に食べた握り寿司が入っていたプラスチックの容器を洗いながら、凛子は久しぶりだった寿司の味を反芻していた。あの店でバイトして良かった、と心から思いながら、また今日から頑張ろうと思ってしまう。

 昨夜は警察車両のサイレンがけたたましく鳴っていたので、疲れ切っていたにもかかわらず、凛子も思わず目が覚めてしまった。なにがあったのだろう? とは思うが、自分に関係の無いことに首を突っ込むのは良くないことだと思っている。

 野次馬は嫌いだった。

 それは人の不幸を興味本位で覗く行為だと考える凛子にとっては、極力避けたいことだった。

 (ただでさえ、人の不幸や無念を覗かせられてしまうのに)

 部屋の鍵をかけながら、なにが嬉しくて自分からわざわざ、などと考える。

 物好きな事だ、と思いながら凛子は商店街へ向かった。


 商店街の入り口には、朝から大勢の人が屯していた。雰囲気が明らかに物々しい。

 昨日のサイレンはここだったのか? 火事でもあったのだろうか?

 そんなことを考えながら、人波を掻き分けながら「こむぎ日和」へ向かう。

 だが、店の前まで来た時に凛子の足は凍り付いた。

 黄色いテープが張られたその店はガラス窓が粉々に割れ、その内側はブルーシートで覆われていた。

 背筋にひやりとしたものが走る。佐藤夫婦の気配が感じられない。凛子だけに感じられる無念の気配以外には……

 それだから、ふらっと足が前に出た。

 「バイトなんです。今日もいつものように……」

 制止する警察官に凛子はうわ言のように言った。

 「佐藤さんに聞かなくちゃ、マスミさんはどこですか?」

 凛子の肩を誰かが掴んで抱きしめた。パン屋の隣に住んでいるおばあさんだった。

 「大丈夫だからね、大丈夫だからね」

 そう凛子に繰り返し言いながら、それでもおばあさんは泣いていた。


 おばあさんの家の玄関先で、凛子は警察官から簡単な事情聴取を受けた。ここ数日で不審なことはなかったかと。

 うまく回らない頭で、それでも凛子は紅白クロワッサンが急にバズったこと、閉店間際にクレームを入れてきた男が居たこと、などを話した。

 クレームを入れた男の話は警察官の興味を引いたらしく、詳しく人相などを聞かれ、結局事情聴取が終わったのは昼前頃になっていた。

 その頃にはうすうす感じてしまっていた。

 あの二人はもう居なくなってしまったのだろうということに。

 呆然としていた凛子に、おばあさんが昼ご飯を用意してくれた。白いご飯と卵焼き、そして味噌汁だった。

 「みそ汁は今朝の残りで悪いんだけどねえ」

 と、言いながら食卓に向かい合い、おばあさんは優しく微笑んでくれた。時折、パンを買いに来てくれて、その度に優しく声をかけてくれていたおばあさんだった。

 みそ汁を一口すすった時、はじめて凛子の目に大粒の涙が零れた。

 あの人の良いパン屋の主人夫婦がもう居ない、という事が信じられなかった。

 しゃくりあげ始めた凛子の背をおばあさんがそっと撫でてくれていた。

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