泡沫の雨こむぎ その3

 警察に通報したのはおばあさんだったそうだ。昨夜、大きなガラスの割れる音がして悲鳴と怒声、そしてなにかが暴れる、そんな音がしたそうだ。おばあさんは布団から飛び起き、すぐに警察へ電話をかけたのだが、恐ろしくて外の様子は窺えなかったという。

 それから後は、警察官が大勢やって来て、朝まではあっという間だったそうだ。そんななか、窓からそっと覗いたおばあさんの目に映ったのは、シートをかけられた二つの担架が運ばれて行く光景だったという。

 やがて泣き出したおばあさんは、自分が勇気を出して外へ出ていたらと言うが、決してそうではなかっただろう。警察に電話してくださったじゃないですか、おばあさんは出来る限りのことをなさったのだと思います、と、今度は凛子がおばあさんを慰めていた。

 あの夫婦がここに店を構えたのは5年くらい前になるのよ。と、おばあさんは語り出した。最初の頃はお客さんが来なくってねえ。私くらいだったわ、毎日通ってたのは。

 そう言って少し笑った。

 「ご主人のね、弟さんが居てね。この近所に住んでいたのよ。……お母さんと一緒にね」

 少し言い淀んだようだったが、凛子が黙って静かに聞いていたせいか、話を続けた。

 「いろいろとあったみたいなんだけどね、ご主人がよその土地からここへ移ってきたのも、お母さんが心配だったからみたいでね、なにせ乱暴な弟だったから……」

 パンを買いに来る人が居たら怖い顔で追い返していたのよ、と続けたおばあさんは、そこで話をやめて、

 「あら、ごめんなさいね、変な話を聞かせちゃって ……気にしないでね」

 と、言って笑った。

 お礼を言って家を出ようとした凛子は、表は人が多いからと勝手口を勧められた。それで靴を持って勝手口へまわったのだが、そこはパン屋の裏庭に面していた。そちらを見た時、凛子の足が止まった。

 そこにマスミさんが立っていたのだ。お店のエプロンを身に着けたマスミさんが。


 はっきりと目が合った。

 凛子の周りが色を失い、やがて世界が回っていく。


 闇の中激しくガラスの割れる音がした。隣で主人が飛び起きたのが分かった。

 「おまえはここにいろ!」

 主人が鋭くそう言って階下へ降りて行く。怒声が聞こえた。聞き覚えのある声だ。激しく何かが壊れる音と主人の怒鳴り声が聞こえる。

 私は恐る恐る階段を降りて行く。店で誰かが暴れている。主人はどうしたんだろう、大丈夫だろうか? 壁沿いに指に触れたスイッチを入れると店の中が明るくなった。

 私の目に映ったのはぐちゃぐちゃになった店内と、倒れている主人だった。名前を叫びながら我を忘れて駆け寄った途端に、頭に強い衝撃が起こった。目の前が真っ赤になって、赤い靴と赤いバットの先っぽが見えた。血に塗れた靴とバットが…… もう一度強い衝撃があって、何も考えられなくなった……


 眩暈がした。つい今しがたの強い衝撃は凛子の頭にもはっきりと残り、思わず蹲ってしまった凛子を、驚いたおばあさんが介抱してくれる。

 「大丈夫です、少し立ち眩みが……」

 そう言って笑ってごまかしたが心配そうなおばあさんは、救急車を呼びましょうか? と聞いてくれた。

 「本当に大丈夫です、よくあるんですよ」

 凛子は丁重にお礼を言いながら、勝手口から路地を抜け商店街の外へ出た。路地を振り返ってみたが、もうマスミさんは見えなくなっていた。

 たまたまあそこに居ただけで偶然だったのか、それとも私に会おうとしていたのか…… どちらともとれる状況で、凛子は少し迷ったが、結局深入りはしないことに決めた。

 なぜならその翌日に犯人が逮捕されたからだった。

 動機は当日の夕方に店でトラブルがあり、それを恨んでの犯行だった、と報道されていた。

 逆恨みだと凛子は思ったが、この報道ではどちらが原因かわかったものではない、とも思い、少し腹立たしくなった。警察からもう一度詳しく話を聞かせてくれと連絡があったので、凛子は警察署へ出向き、また同じことを説明した。ただ、自分がマスミさんと重なって経験した内容は、話しても無駄なので話さなかった。いずれにしても逮捕されたのならそれで事件は終わりだろう。

 優しい人たちであったと思い、そして楽しい時間でもあったと思い出し、凛子はまた悲しくなった。

 そしてゴミ出しの日、寿司の入っていたプラ容器を見た時に、自分でも訳の分からない感情が溢れてぼろぼろと泣いてしまった。

 他人のために泣くことが出来るなんて、と不思議に思いながら蹲って泣いた。


 SNSでは事件の事が大きく取り上げられているようだった。興味はなかったがなんとはなく流れてくるコメントのいくつかに目を向けると、直前までバズっていた店だっただけに、新たな燃料投下というのだろうか、さらに大きくバズっていた。そしてまことしやかに夕方に起こった犯人とのトラブルが、店側の横柄な態度に起因していたというストーリーに変化していることに気がついた。

 店員の愛想が悪かった、釣銭を投げ返された、客を待たせて平気で飯を食いに行って1時間以上帰って来なかった、など言いたい放題だった。

 腹立たしかったが、それよりも悲しかった。故人の尊厳をこうも簡単に汚していく人々の気持ちが悲しかった。それは悪意ではないのだろう、もちろん善意などではないのは明らかだが、実際はただ「便乗」ということを行っているだけなのだろう。

 凛子は、スマホの画面に並ぶ文字の塊を眺めながら、いったいこの中に実際あの場でパンを買って帰った者たちがどれほどいたのだろうか、と冷ややかに考える。だがそういった意味のない動機で書かれたコメントを信じ込んでしまう者も多いのだろうと思うと、少し怖くも感じる。

 凛子はスマホの画面を消した。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る