第三話 泡沫(うたかた)の雨こむぎ

泡沫の雨こむぎ その1

 12月中旬、2学期末の試験も終わり試験休みに入った。

 結城凛子は長期休みごとに働いている商店街のパン屋へ向かっていた。

 年が明ければ大学入試のための試験が始まる。まっとうな受験生であればアルバイトなどやっている場合ではない。今はできれば受験勉強に集中すべきだという事はわかっている。だが、背に腹は代えられない、という言葉があるように、凛子にとって、そのバイトは生活に直結する行為なのだ。

 このパン屋では売れ残ったパンを貰って帰ることが出来る。独り暮らしの凛子にとって、これは貴重な食料である。日々の光熱費や家賃、学費などは両親の残してくれた遺産を切り崩しながら、なんとかやっていけてはいるが、それでも無限にお金が続くわけでもなく、長期休みの帰還などは積極的にアルバイトを行うようにしている。その中でも、ここ数年はこのパン屋でのアルバイトが常態化しているのは、ひとえに売れ残りのパンにあった。

 パンは嫌いではない。もちろん米の方が好みだとは言えるが、さまざまなバリエーションに富む小麦粉を焼いたこの食べ物は、なかなか飽きない。

 今日からまた、食費が「浮く」。

 そう考えると、凛子の足は軽くなり、開店時間に合わせて商店街へ向かって歩いていた。


 クリスマス商戦真っただ中のはずなのに、皆、そのことには熱心ではないのだろうか、精々どこかピントの外れた飾り付けがちらほら見える古びた商店街の一角に、少し目立つ程度の小洒落れた外装の建物からは、すでに美味しそうなパンの焼ける匂いが漂っている。

 ベーカリー「こむぎ日和」、と書かれた店の扉を凛子は開けた。かわいい鈴の音が響く。

 「おはようございます」

 そう挨拶をする凛子に、「おはよう」と返してくれたのが店主の妻である「マスミさん」だ。夫と共にこの場所でパン屋を開店して5年ほどになるらしいが、30代半ばの若々しい奥さんだ。

 「今日からまたお願いね、凛子ちゃん」

 そう言うマスミさんの声を聞いて、奥から旦那さんである「佐藤さん」が顔を出した。

 「おはよう、今日からだね、助かるよ」

 そう言って人懐っこい笑顔を見せる。

 「うちは助かるけど、受験は大丈夫なの?」

 心配そうな顔でマスミさんが聞いてくれるが、「大丈夫でーす」と爽やかに返事をしながら、凛子はバックヤードへ入って行った。

 一人になると笑顔が消える。手際よく束ねた髪をアップにし、バンダナとお店のエプロンを纏い、そして鏡に向かって、

 「戦闘開始、変身しなさい凛子」

 と、呟き軽く頬を叩く。

 そしてまたにっこりと笑う。

 パン屋で働くことは嫌いではないが、接客中、ずっと愛想よくしていることは苦行なのだ。

 幼少期に経験した出来事をきっかけに、凛子は人との接触を極力避けている。それにより極端に不愛想な性格が定着してしまっている。加えて凛子の持つ特異な能力により、物好きにも凛子の友人になろうとする数少ない者たちも、次々と離れて行ってしまう。「気持ち悪い」と、言葉を残して。

 それゆえアルバイトなどは職種が限られるはずだったのだが、このパン屋の求人募集の貼紙に「まかない付き」の文字を見た時、反射的に扉を開いたのは高校1年の冬で、自分でも驚くほどのよそ行きの爽やかさで面接を受けたのだった。

 だからそれ以来、「こむぎ日和」店内での凛子は別人に変身する必要があったのだ。1日8時間限定の「偽凛子」である。

 しかし、その効果は絶大で、凛子目当てに来店する男性客も多く、特に高齢者には受けが良い。おかげで勤務と関係ない場所でも偶然会った時などは反射的に変身してしまう情けなさにも気づかされてしまったのだが……


 バックヤードでバスケットに入ったバターロールを、手早くふたつみっつと口にしてから、凛子は店に出た。すぐにマスミさんの手伝いを始め、焼きあがったばかりのパンを商品棚に並べる。ふと視線をあげると、客が早くも二人ばかり扉の前に並んでいる。すでに開店10分前だ。凛子はピッチを上げ、開店と同時ににこやかに、そしてかわいらしい声で言う。

 「いらっしゃいませー!」と。


 12月24日、世間はクリスマスイブで賑わっている。この商店街も賑やかな音楽をスピーカーから流し、クリスマスセールと大きく貼り紙をしているが、売っているものといえば焼鳥と唐揚げが中心で、あとはなぜか日本酒が並んでいる。そこはスパークリングワインではないかと思うのだが、よく考えると誰がここの商店街でそんなものを買うのだという事に気がつく。世の中は需要と供給で成り立っていることが良くわかる例だ。

 そんなわけで、どこか無理をしているような、そんな気配が商店街全体には漂っている。

 だが、「こむぎ日和」は別だった。

 忙しい。とにかく忙しい。ほんの少し工夫した赤と白に彩られたクロワッサンが飛ぶように売れていく。どこかで宣伝でもしたのですか、とマスミさんに聞くが「知らない」と言う。いや、宣伝もしないのにこんなに客が来るとも思えない。この商品を売り出したのは2日前で、今日になって爆発的に買いに来る客が増えたのは何故だ? 試食させてもらったがそれほどでもなかったのだが、と凛子には不思議だったのだが、とにかく店主の佐藤さんは、急遽、この紅白クロワッサンを増産することを決定し、奥でせっせと生地を捏ね続けている。その商魂のたくましさに、マスミさんは惚れたのだろうか? 凛子にはよくわからない世界だった。

 ようやく閉店時間になり店のカーテンをおろした時、凛子の表情はもう限界だった。

 「さすがに疲れたようね、凛子ちゃん。そんな顔になってるのを始めてみたわ」

 まさかこっちが素であるとは夢にも思わないマスミさんがそう言って笑った。

 「どうもです、すみません」

 もう取り繕う事も出来ずに凛子は黙々と片づけをした。途中、出てきた佐藤さんが凛子の顔を見てぎょっとして、すぐに引っこんで行った。そんな夫を見ながらマスミさんは笑っていた。

 「ごめんねえ、でも稼げそうなときに稼がないとって、うちの人はそう思う性質でねえ」

 片づけを続けながらマスミさんは言った。

 「若い頃はいろいろあったからね。客足が絶えるのが怖いのよ、人一倍」

 「いろいろ……ですか?」

 そう尋ねる凛子にマスミさんは微笑んだ。「そうよ」と言って。

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