002-第01話:最強魔王と世の果ての龍姫②

オレは、魔王城の中でも、ごくわずかな者しか辿り着けないバルコニーに立っていた。


赤い月が、魔界の空をゆっくりと満たしながら昇っていく。

乾いた光は尖塔の石肌を細くなぞり、冷たい筋となって地平へ伸びる。


風は止まり、音も止まり、闇の色だけが空間を支配している。

赤い光だけが大地に染み込み、影を長く引きのばし、夜は息を潜めたまま固まっていた。


さっきまで耳を打っていた怒号も熱も、ここには届かない。


玉座の間から幾つも扉を抜けるごとに、あれほどの騒がしさが遠ざかり、石壁に残っていた振動すら薄れていった。

気付けば、この場所だけが別の世界のように静かだった。


この場所は、城を建て直したとき偶然見つけた。


西側の回廊を抜け、さらに奥の壁をすり抜けるように進んだ先――城内の誰も気づかなかった隙間に、細い階段がつづいている。

登った先は、魔界でもっとも遠くまで見渡せる、ただ一人きりになれる場所だ。


臣下たちですら存在を知らない。

だからだろう。

ここに立つと、胸に貼りついていた何かがゆっくり浮かび上がってくる。


赤い月の下、オレは欄干に片手を置き、息をひとつ吐いた。

その吐息でさえ、夜の色に沈んでいく。


「……この力の果てに、本当に救いはあるのか」


長い年月、胸の底に沈んでいた問いだ。


忘れたふりをしてきた。

戦っている間は考える余裕などなく、魔界を統べる日々は容赦なく流れていき、立ち止まる隙なんてなかった。


だが――こうして、不意に手が空いてしまう瞬間が来ると。

赤い月を眺めるだけの時間ができると。


否応なく思い出してしまう。


沈黙した魔界の夜は、オレの心をまっすぐ映し返してくる。

荒れ果てた大地は闇に沈み、ところどころ漂う魔素の火だけがゆらりと揺れていた。


かつて何千と踏みしめてきた戦場も、いまはただの黒い広野だ。

その静けさは、勝利の余韻にも、栄光の影にも見えなかった。


――この力で守れるものは、本当にあるのか。

――この手で救おうとした道は、どこへつながっているのか。


赤い月は、何ひとつ答えてくれない。

それでも、オレはその光を見つづけた。



***



「……この力の果てに、本当に救いはあるのか」


また……

思わず声が漏れた。


その直後、背後で足音が止まる。

振り返らずとも、誰かはわかる。


「兄者。答えは、まだ遠うございますか」


抑えがきいた、落ち着きのある声――次弟ジオファルクだ。

そして、すぐに軽い足取りが横へ並ぶ。


「長兄よお、また月を相手に考え込んでんのか。そんなに悩むと髪に悪いぜ?」


三弟ギルヴァドスの言い草は、今日も平常運転だ。


「……ギルヴァドス。おまえというやつは……」


ジオファルクが眉をひそめる。


「長兄を思う場だ。言葉を慎め」


「おいおい、ジオ兄ィは真面目すぎんだよ。

 長兄なら、このくらい笑ってくれるだろ?」


ジオファルクが叱りつけるより先に、オレは口を開いた。


「いいさ。ギルヴァドスの思いはちゃんと伝わっている」


「兄者は、甘さが過ぎます」


ジオファルクがため息をつく。


「なあ、ジオ兄ィ。長兄はこういうとこがいいんだよ。話が早ぇ」


ギルヴァドスは腹の底から豪快に笑い声を放った。

その空気に、オレもつい息を吐いた。


「……ふたりとも……よく来てくれた。助かる」


「兄者が苦しまれる時に、儂らがかたわらにおらぬ道理はありません」


ジオファルクの声はまっすぐだ。


「そりゃそうだ。長兄の悩みは、兄弟みんなの問題だからな」


ギルヴァドスは胸を張る。


「大げさだぞ」


オレが返すと、三人の口元に同時に笑みが浮かんだ。

短く、だが芯のある笑いが、赤い月の下にやわらかく響く。


その声を聞きながら、胸の奥に重く沈んでいたものが、少しだけ軽くなるのを感じた。


「……答えはまだ遠い。だが……おまえたちがいれば、先へ行ける気がする」


「兄者が歩む道を護り、整えるのは、儂らの務めです」


ジオファルクは強い意志をこめて言う。


「悩み事ならよ、もっと俺を使えよ。兄弟だろ?」


ギルヴァドスも腕を組んで笑った。


赤い月の光が、三人をくっきり照らす。

オレはゆっくりとうなずいた。


「……ああ。おまえたちがいてくれるのは、心強い。感謝する、弟たち」


三人の笑い声が、澄んだ夜にもう一度広がっていった。



*** つづく。

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