第3話 さざ波の教室

三日目の朝。

新しいクラスにも、少しだけ「いつもの顔ぶれ」の空気が混ざり始める頃。


教室の温度は、初日の緊張より、さざ波に近いざわめきで満ちていた。

「ねえねえ、今日の小テストマジでやばいんだけど」

「昨日のプリント、どこやったっけ……」

そんな声を縫うようにして、湊はいつもの席に滑り込む。


窓の外には、薄い雲。


黒板には、まだ誰も何も書いていない。

前の席を見ると、もう榊千景が座っていた。


教科書を机に出しながら、ペン先で軽くページの端を叩いている。

「おはよう、湊くん」

振り返るタイミングが、自然になってきている。


それが、逆に落ち着かない。

「……おはよう」

短く返すと、千景は少しだけ目を細めた。

「ペンケース、もう大丈夫そうだね」

机の上に置かれた布のペンケースを見て、彼女は小さく笑う。


あのジュースのシミは、よく見ればうっすら残っているが、ほとんど気にならない程度だった。

「うん。……ありがとな」

「どういたしまして」

そのやり取りだけで、前の方から誰かの視線が飛んでくる。

「……マジで仲良くなってね?」

「やっぱ雨宮、ワンチャンあるんじゃね?」

囁き声が、机の間をすり抜けていく。


湊は、聞こえなかったふりをするのに忙しくなる。

千景は、そんな周囲の視線を意識しているのかいないのか、いつもの調子で前を向いた。

——ただ、その横顔のどこかに、微かな緊張の線が走ったように見えた。



一時間目が始まる前。

教室のドアが開く音と同時に、もうひとつの空気が流れ込んできた。

「お、ここで合ってる?」

明るい声。


短く整えられた茶色の髪。


着崩さない程度の制服姿に、自然な自信が滲んでいる。

クラスの何人かがざわついた。

「藤原じゃね?」「なんでここに?」

「転クラスって今日だっけ」

担任が後ろから入ってきて、簡単に紹介する。

「今日からこのクラスに移ることになった藤原だ。……自己紹介を」

「藤原彰人。前のクラスにいたやつは、よろしく。初めましての人も、よろしく」

軽い会釈。


笑った口元が、妙に人懐こい。

湊は、その名前に覚えがあった。


榊千景の会話の中で、一度だけ耳にしたことがある。

——榊家と同じ“上の方”にいる家の名字だ、と。

女子の何人かがざわめき、男子も「お、マジか」と空気を乗せていく。


藤原本人は、そういう視線に慣れているらしく、特に気にしていない様子だ。

「席は……そこだな。榊の斜め前が空いてるから、藤原、そこに」

「了解」

藤原は迷わず通路を抜け、千景の斜め前の席にカバンを置いた。


一瞬だけ、彼女と視線を交わす。

「……よ。こっちでもよろしく、千景」

「やっぱり来たんだ、彰人。……よろしく」

そのやりとりは、ごく自然なものだった。


誰から見ても、「元から知り合い」以上の距離感があるように見える。

クラスの空気が、少しだけ色を変える。

ささやき声。

「幼なじみってやつ?」「あれ絶対、昔からだろ」

「ていうかお似合いじゃね?」

湊は、ペンを握る指先に力を込めた。


ノートの端に書いた日付の数字が、少しだけ潰れる。

論理的に考えれば、何もおかしくない。


榊千景みたいな存在には、こういう「同じ高さにいる人間」がいて当然だ。

視線を上げると、千景と藤原が短く言葉を交わしている姿が見えた。


それだけのはずなのに、胸の奥がざらりとした感触を残す。

(……俺には、関係ない)

心の中でそう言い聞かせた。


けれど、ノートに記された文字の上を、妙なノイズが走る。



休み時間。

教室の前方に、小さな人だかりができていた。


中心にいるのは、もちろん榊千景と藤原彰人。

「え、じゃあ藤原くんと榊さんって、前から知り合いだったの?」

「家が近くてさ。親同士が仲良いから、まあ、幼なじみみたいなもん」

藤原は、笑いながら言う。


その笑顔には、慣れた空気と、どこか余裕があった。

「幼なじみ……いいなぁ」

「小さい頃から一緒とか、そういうやつ?」

誰かが冗談半分に言うと、藤原は「まあね」と肩をすくめる。

「でも、別にそういうんじゃないから。な、千景」

「そういうって、どういう」

千景は軽く睨むふりをして、唇の端だけで笑った。


クラスの空気がふわっと和む。

湊は、距離を置いたまま、その風景を眺めていた。

(……うるさいな)

ざわめき。

笑い声。

好奇心。

羨望。

千景の周りには、いろんな“色”の声が集まる。


その中心で、彼女は器用にバランスを取っている。

——それが、いつもの光景のはずなのに。

今日だけは、その輪の中にいる藤原という存在が、やけに目についた。

彼は、千景の肩書きも、家の事情も、全部知っている。


それでも普通にからかい、普通に隣に立っている。

(俺なんかより、よっぽど——)

考えかけたところで、前の席がふと振り返った。

「湊くん」

短く呼ばれた名前に、思考が中断される。

「……なに」

「さっきから、ちょっと顔、こわい」

千景は、いつものように涼しい顔をしていたが、目だけがじっと湊を見ていた。

「別に。普通」

「うそ。……眉、寄ってる」

指で自分の眉を軽くなぞって見せる。

言われて初めて、自分がどれだけ表情を固めていたのかに気づく。

「……気にしなくていい」

「気にするよ」

千景の声が、ほんの少しだけ低くなる。

「だって——」

一瞬、彼女は言葉を選ぶように口を閉じた。


周りのざわめきが、少しだけ遠ざかる。

「湊くんの顔が、静かじゃないの、なんか、気持ち悪い」

気持ち悪い、という言葉だけ切り取ればきついのに、


その言い方は、まるで「いつもの静けさの方がいい」と言っているみたいだった。

「……」

湊は、返す言葉を見失った。


変な苦笑いがこぼれそうになって、あわてて視線を落とす。

鉛筆の先端をノートに当てながら、胸のどこかに小さなざらつきが残っていることを認める。

(言えるわけないだろ。


 お前の横にいるやつが、気になるなんて)

そんな言葉は、どうあがいても口に出せない。

けれど——


“気になる”という感情が、自分の中に確かに存在していることだけは、認めざるを得なかった。



その日の昼休み。

湊が一人で弁当を開きかけたところに、また別の影が差した。

「隣、いい?」

顔を上げると、九重深雪がトレイを抱えて立っていた。

「……なんでわざわざここ」

「ここ、落ち着くから」

それは、どこかで聞いたことのある理由だった。


湊は小さくため息をつきながらも、「好きにしろ」とだけ答える。

深雪は満足そうに笑って、斜め前に腰を下ろした。

「ねえ」

「なに」

「今日さ、空気、ちょっと変じゃない?」

「……さあ」

とぼけるように答えると、深雪はスプーンをくるくると回しながら、教室の前方を見た。

千景と藤原を中心に、まだ人垣ができている。

「あの二人、前からあんな感じだったのかな」

「知らない」

「仲良さそうだよね。……ちょっとだけ、見てて疲れるくらい」

深雪の言葉が、妙にしっくりきた。

見ている分には華やかで、どこか眩しい。


けれど、近づきすぎると、自分の輪郭が薄れてしまいそうな気がする。

「……雨宮くんは?」

「なにが」

「気にならないの?」

真正面からそう問われて、湊は言葉に詰まった。

(気にならないと言えば嘘になる。


 気になると言えば、もっと厄介になる)

返事を選びきれない沈黙が落ちる。

深雪は、そんな湊の様子を横目で見て、ふっと笑った。

「……まあ、いいや。答えにくいこと聞いた」

「別に」

「ただね」

スプーンの先で、自分のトレイを軽く突く。

「さっき、榊さんが藤原くんと話してるとき、音がすごかった」

「……音?」

「うん。みんなの、好奇心とか、噂したい気持ちとか、ちょっとした嫉妬とか。


 ああいうのって、普通に感じるでしょ?」

湊は、少しだけ眉をひそめた。

感じる、というより、うるさい。


それくらいはわかる。

「でも、さっき榊さんが雨宮くんの方、振り返ったときね」

深雪は、湊を指さす。

「その瞬間だけ、音が消えた」

「……なにそれ」

「だから、変だなって思っただけ。私、そういうの、ちょっと敏感だから」

さらりと言って、深雪は話題を切るように弁当に向き直った。

湊は、箸を持つ手を止めたまま、視線だけで前の席を追った。

千景は、いつものように笑っている。


藤原の言葉に応じて、クラスの空気を整えるようにバランスを取っている。

——それでも。

たった一度、こちらを振り返ったときの、あのまっすぐな瞳を思い出すと、胸の奥が少しざわついた。

自分が「音を消す」なんて、冗談だ。


そんなこと、あるはずがない。

けれど、千景も深雪も、同じことを口にする。

(……もし、少しでも本当だったら)

その仮定が、静かな水面に石を投げ入れるみたいに、心の中にさざ波を立てた。



放課後。

今日は雨ではない。


帰り支度をする教室に、夕方の光が斜めに差し込む。

「千景、帰ろーぜ。例のとこ寄って——」

藤原が当然のように声をかける。


「例のとこ」という曖昧な表現にも、慣れた関係が滲んでいる。

千景は一瞬、湊の方へ視線を向けた。


ほんの一瞬。


それを湊が捉えてしまったのは、たまたまだろうか。

「ごめん、彰人。今日は寄れない」

「あ? なんで」

「用事あるから」

千景はそれ以上、説明を付け加えなかった。


藤原は一瞬だけ眉をひそめたが、すぐに笑って肩をすくめる。

「そっか。じゃあまた今度な」

「うん。また今度」

藤原が教室を出ていく後ろ姿を見送りながら、千景は席に戻ってきた。

前の席から振り返り、何でもない風を装った声で言う。

「湊くん、今日も、一緒に帰っていい?」

自然すぎて、逆に息が詰まる。

「……藤原と帰らなくていいのかよ」

自分でも驚くくらい、棘のない声でそう訊いていた。


押さえきれないものは、意外なところから顔を出す。

千景は、少しだけ目を丸くしたあと、ふっと笑った。

「彰人とは、いつでも帰れるから」

「……」

「湊くんと一緒にいる時間の方が、今は、貴重」

さらりと言いながら、その言葉の重さを測っているような目をする。

心臓が、不意に強く打った。

特別扱いされている、なんて思いたくない。


でも、その言葉は、どうあがいても「特別」の匂いを含んでいた。

「……勝手にしろ」

それが、湊にできる最大限の許容だった。

千景は、満足そうに微笑んだ。



その日の帰り道。

夕焼けに染まった空の下、二人の影が並んで伸びていた。

「なんか、今日は静かじゃない?」

千景が、ぽつりと言う。

「いつも静かだろ」

「そうなんだけど……クラスの中で、ちょっとごちゃごちゃしてたからさ」

藤原が来たせいで、周囲の好奇心や噂の音がいつもより大きかった。


千景の耳は、きっとその全部を拾っていたのだろう。

「疲れたか」

湊が何気なくそう言うと、千景は少しだけ首を傾げた。

「んー……疲れたというか。……うるさかった」

ふっと笑う。

「だから、今、楽」

そのひと言が、空気を少し柔らかくする。

「湊くんの周り、やっぱり音がしない。……彰人といるときとは、全然違う」

「……藤原といるときは、うるさいのか?」

「うるさいって言ったら怒られるだろうけど」

千景は、少しだけ申し訳なさそうに笑って続けた。

「彰人といるときは、いろんな音がする。過去の音とか、期待とか、家の音とか」

家。


その単語に、わずかに重みが乗る。

「でも、湊くんといるときは——」

立ち止まり、彼の顔を見る。

「何も、聞こえない」

夕暮れの光が、千景の瞳を淡く染める。

「怖くないのかよ」

思わず、声が漏れる。

「何も聞こえないって。気持ち悪くないのか」

「怖いよ」

千景は、あっさり認めた。

「怖いし、気持ち悪いし、落ち着く」

矛盾だらけの答えを、一切迷いなく口にする。

「でもね、たぶん——」

少し、歩幅を縮めて、彼の袖の近くまで手を寄せる。


ぎりぎり、触れない距離。

「この“何も聞こえない”っていうのが、私には、ちょっとだけ、特別なんだと思う」

特別。

その単語が、今度ははっきりと使われた。

湊の喉が、からからに乾く。

特別。


彼女にとって。


自分が。

信じていいのか、わからない。


でも、全否定するには、声が震えすぎる。

「……俺には、その音ってやつ、聞こえないけど」

「うん。聞こえない方が、いいと思う」

千景は、照れ隠しのように前を向いた。

「聞こえたら、きっと、うるさくて眠れなくなるから」

その言い方は、どこか自分自身への皮肉にも聞こえた。

湊は、その横顔を盗み見ながら、心の中に小さな変化が生まれているのを感じる。

(……俺は、こいつの“静けさ”のひとつに、なれてるのか)

そう思った瞬間、胸の奥にあったざらつきが、ほんの少しだけ溶けた。

藤原と千景が並んでいたときに感じた違和感は、まだ完全には消えていない。


それでも、自分だけが持っている何かが、確かにある——そう思えるようになった。

それは、嫉妬と安堵と、誇らしさの手前くらいの、よくわからない感情だった。

その夜。

榊家の広い屋敷の一室で、千景は机に向かっていた。


教科書を開いたまま、ペンは止まっている。

窓の外には、街の灯り。


遠くから、車の音が低く響く。

ドアがノックされる。

「千景。入るぞ」

父親の声。


千景は椅子から半分だけ振り返った。

「……なに?」

「転クラスのことは、うまくやっているか」

質問は、いつも通り、感情の温度をあまり含まない。

「まあ、普通。……彰人も同じクラスになったよ」

「そうか。なら、余計な心配はしなくてよさそうだな」

父親の視線が、机の上のノートと教科書を一瞥する。

「例の件は、どうだ」

「例のって、学校の“音”のこと?」

「そうだ。新しい環境で、何か変わったことはないか」

千景は、一瞬だけ迷ってから、ペンの先で机を軽く叩いた。

「……ひとつだけ、ある」

「ほう」

「クラスの中に、“音がしない”人がいる」

父親の目が、わずかに細くなる。

「音が……しない?」

「っていうか、無音。そこだけ、耳が塞がれたみたいになる」

千景は、言葉を選びながら続ける。

「クラスのざわめきとか、不安とか、そういうの全部、彼の周りだけ薄くなる」

「彼?」

「雨宮湊。……たぶん、同い年」

一瞬、空気が変わった。

父親は、ゆっくりと息を吐いた。

「名前は、聞き覚えがないな」

「普通の家みたいだよ。少なくとも、うちの世界の名字じゃない」

「そうか」

父親はそれ以上、詳しくは問わなかった。


その代わり、低い声でひとつだけ告げる。

「近づきすぎるなよ」

「なんで?」

「お前の耳が拾えない“何か”を持っている人間は、概して厄介だ」

厄介、という言い方の中に、理屈以上の警戒が含まれている。

「……でも」

千景は、小さく唇を噛んだ。

「静かで、楽なんだ」

その言葉に、父親はわずかに眉をひそめた。


が、すぐに表情を整える。

「感情に飲まれるな、千景。お前は榊の耳だ」

「わかってる」

「ならいい」

父親はそれだけ言い残して部屋を出ていった。


ドアが閉まる音が、やけに大きく響く。

部屋の中に静寂が戻る。

千景は、机に置いたペンをくるくると回しながら、天井を見上げた。

——近づきすぎるな、か。

(もう、少し近づいてるんだけどな)

心の中でだけ、小さく反論する。

その瞬間、今日の帰り道の風景が鮮やかに蘇った。

並んで歩く影。


何も聞こえない静けさ。

その中で、自分の心臓の音だけがやけに大きかったことを、千景ははっきりと覚えている。

「……厄介、ね」

口の中でその言葉を転がしてみる。

厄介なのは、たぶん——


彼ではなく、自分の心の方だ。

そう思うと、少しだけ笑いが込み上げた。

窓の外の夜は、まだ浅い。

クラスのざわめきと、家の重たい沈黙と、


そして“音のない静けさ”が、


それぞれ別の位相で進行しながら、少しずつ互いに干渉し始めていた。

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