第2話 白いノイズの放課後

翌朝の教室は、昨夜の雨が残していった湿気で、いつもより空気が重かった。

湊が席につくと、教室前方から、聞き慣れない声が飛んでくる。

「榊さんってさ、昨日の帰り、誰かと一緒に帰ってた?」

「見た見た。なんか……男だったよな?」

湊の手が、ノートをめくる動きを止めた。

(昨日の帰り……)

傘の下。


間近にあった体温。


雨音に溶けた千景の声。

思い返すと、胸の奥が、妙な温度で揺れる。

「榊さんの彼氏? あり得る?」「いや、さすがに早くね?」

そんな会話の中心にいる千景は、微動だにしなかった。

制服の襟元を整え、長いポニーテールを結び直しながら、いつもの調子で返す。

「彼氏はいないよ。昨日は、たまたま」

その瞬間だけ、視線が湊の方へ流れた——気がした。

湊は、ページの余白に意味もなく線を引いた。

(気のせい、だよな)

けれど、胸のざわめきは線のようにはまっすぐじゃなくて、不規則に波打っていた。



午前の授業の合間。

英語の教科書を閉じる音があちこちで響く。


湊はノートをまとめながら、ふと前の席を見た。

榊千景が、机に肘をつき、横向きに体を預けている。


疲れたわけでも退屈したわけでもない。


ただ、“何かを考えている人の姿勢”だった。

「……雨宮くん」

小さく名前を呼ばれる。


前の席から、振り返った千景の瞳がまっすぐこちらに向けられていた。

「今日、放課後って時間ある?」

「え、……なんで」

「昨日のペンケース、乾いたか気になって」

「あれはもう……」

「あとは、ちょっと話したいことがあるから」

さらりと言うくせに、声の奥が少しだけ柔らかい。

湊は返事に詰まった。


断る理由はある。


深入りすると面倒なことになるのは、わかりきっている。

なのに。

「……時間くらいなら、あるけど」

自分で言った言葉に、湊自身が驚いた。

千景は、ほんの一瞬だけ目を見開いて——


次の瞬間、静かに微笑んだ。

「よかった。じゃあ、放課後、屋上の前のベンチで」

それだけ言って、千景は振り返った。


湊の心臓は、英語のリスニングより早い速度で脈打っていた。

(何やってるんだ、俺)

譲歩する気なんてなかったはずなのに、


手綱を引く前に返事が滑り出てしまった。

胸の奥で、知らないノイズが微かに鳴る。



昼休み。


人のざわつきが渦を巻く中、湊は机に突っ伏してパンをかじっていた。

——すると。

「ねえ、雨宮」

横合いからひょこっと顔が覗く。


クラスメイトの女子、九重深雪だ。

癖のある前髪を揺らしながら、湊の机の端に手を置く。

「最近、よく話してるよね? 榊さんと」

「……別に」

「別に、って顔じゃないけど」

深雪は、にやりと笑った。


千景のような完璧さはないが、人懐こい空気を持っている。

「ひとつ聞いていい?」

「……なに」

「雨宮くんってさ、人と話してても音がしないよね」

その言葉に、湊は手を止めた。

(……音?)

昨日、千景が言った言葉と同じだ。

「なんかね、変な感じするの。雨宮くんの周りだけ、静かっていうか……空気が整ってるっていうか」

「そんなの、気のせいだろ」

「気のせいかなぁ?」

深雪は首をかしげたあと、ふと真剣な顔になる。

「でも、それって悪くないよ。私、静かな人、好きだよ」

そう言い終えると、すぐにいつもの笑顔に戻って席へ走っていった。

湊はパンを握った手に力が入る。

(……昨日だけじゃなかったのか)

千景だけじゃなく、深雪まで。

周りの人間が、自分の“静けさ”を口にする。


それがなぜか、胸の奥の不安を刺激した。

自分の中の「誰にも気づかれないはずの領域」に、指先が触れられたような感覚。



放課後。

廊下の窓から吹き抜ける風が、少しだけ湿っている。


屋上前のベンチの前に立つと、すでに千景がいた。

制服の袖を折り返し、風に揺れる髪を押さえながら、空を見上げている。

湊に気づくと、少し笑った。

「来てくれたんだ。よかった」

「……まあ、約束したし」

千景は湊の隣を軽く叩いた。

「座って」

距離を測りながら腰を下ろすと、千景は横目で湊の顔を盗み見た。

「……昨日さ」

沈黙の間が、風に混じって流れていく。

「帰り道、静かだったよね?」

湊の喉が詰まる。

「……いつも、そんなもんだよ」

「湊くんの周りだけ、音が消えるの。人の感情の音も、環境のざわめきも」

“感情の音”。


その言葉の意味を知らない湊には、形を持たない謎だった。

ただ、千景は真剣そのものの目で続ける。

「普通、誰かと一緒にいると、何かしら聞こえるんだよ。楽しい音とか、不安とか、期待とか、焦りとか」

千景は胸の前で手を合わせた。

「でも……湊くんといると、全部、消える」

風の音だけが周囲に流れる。

湊は、自分の呼吸が浅くなっていくのを感じた。

千景の目には、不安と期待が同時に揺れていた。

「変なこと言ってるってわかってる。でもね、あの静けさが……落ち着くの。すごく」

その言葉が、胸の奥に触れる。

湊は伏し目がちになり、靴先を見つめた。

「……俺は、特別なわけじゃない。たまたまだよ」

「たまたまじゃないよ」

言葉が重なるように、千景が小さく首を振る。

「だって——」

一歩、距離を縮めるように体を傾ける。

目が合う。

「湊くんと話してると、心が、息をするのをやめるくらい静かになるんだよ?」

その“告白じみた比喩”が、湊の胸に深く刺さった。

意味を測れないまま、湊は息を吸った。

「……なんで俺なんだよ。もっと他に、話しやすい人なんて——」

「いないよ」

千景は迷わず言った。

「湊くん、昨日も今日も、静けさの中にいる。そんな人、他にいない」

一瞬、湊の心が揺れた。

静けさ。


白いノイズ。


誰にも届かないはずのもの。

千景は続ける。

「……もし迷惑じゃなかったら、また帰り道、一緒に歩きたいな」

真っ直ぐで、まっすぐで——


そこに含まれる好意と興味が、怖いくらい純粋で。

湊は困惑と拒絶と渇望のどれを返せばいいのかわからなくなる。

(迷惑なんて……言えないだろ)

でも、自分が彼女にふさわしいとも思えない。

胸の中に、矛盾が二つ、三つ重なり合っていく。

湊は、深い息とともに言葉を押し出した。

「……別に、迷惑じゃない」

千景の目が揺れた。

それは、嬉しさの色と、不安の色と、独占欲の始まりの色が同時に混じった“複雑な音のない感情”だった。

「じゃあ……今日も、一緒に帰ろ?」

風が止まり、世界が一瞬だけ静まる。

湊は、ゆっくりと頷いた。

「……うん」

千景は、昨日よりもわずかに近い笑顔で微笑んだ。



帰り道。

ふたりで歩く傘の下は、昨日より狭く感じた。

雨は降っていない。


けれど、並んで歩く距離が、自然と縮まっていた。

千景は言葉少なに、時々湊の方を見た。


湊は、そのたびに目をそらす。

でも、不思議と嫌ではなかった。

(なんなんだ、この感じ……)

千景の存在が、湊の中の静けさを乱す。


乱すのに、不快じゃない。

むしろ、少しだけ——暖かい。

「……ねえ、湊くん」

千景がふと呟いた。

「音がないって、変じゃないよ。むしろ……私は好き」

言葉が、昨日と同じように胸に落ちる。

好き。

その単語の意味を測る前に、千景は小さく笑った。

「また明日。……今日も静かで、よかった」

その笑みは、昨日より甘くて、少し近い。

湊は、返事をしようとして——


言葉が喉の奥で止まった。

千景が離れていくその瞬間、湊の胸に残ったのは、

“静けさの中に、生まれた微かなざわめき”

だった。

それが何なのかはまだわからない。

ただ、消えそうで消えないその感覚だけが、湊の心に小さな火種を落としていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る