第4話 触れたら聞こえる距離
一
翌日のHR前。
教室の空気はざわついていた。
「今日さ、委員決めあるって」
「あーめんど……」
そんな雑談の中、湊はいつもの席に座り、机の端で指先を組む。
千景はすでに来ていて、前の席で静かに書類を見ていた。
藤原彰人は、教室後方で男子数人と話し込みながら、時折こちらをちらりと見ている。
(……なんだよ)
その視線には、敵意でも興味でもなく、
ただ「千景の近くにいる男」として湊を雑に分類しただけのような、軽い温度があった。
湊は、気にしないように深呼吸する。
——すると。
「湊くん、今日、帰りは?」
唐突に名前を呼ばれ、顔を上げると千景が振り返っていた。
「え……別に。予定はないけど」
「よかった。また一緒に帰ろ」
昨日までなら、胸の奥が少しだけ揺れる程度で済んだはずだ。
ただ——
今日は違った。
気配の変化があったからだ。
教室の何人かが、一瞬だけこちらを見た。
「やっぱ榊さん、雨宮のこと……」
「いやいや、さすがに……でも……」
ざわ……ざわ……
その密やかな音の渦の中心に、自分の名前がある。
湊は、思わず顔を伏せた。
頬が少し熱い。
千景は、そんな周囲の視線など意に介さないように、ふわりと笑った。
「終わったら昇降口で待ってるね」
明るい声。
普通のことのように言っているのに、その自然さが逆に距離を縮めてくる。
湊は、返事の代わりに小さく頷いた。
(……なんなんだろう)
胸の奥に、正体のわからないざらつきと温度が混ざっていく。
二
委員決めの時間。
「じゃあ、学級委員……誰か立候補——」
担任の言葉を遮るように、女子何人かが顔を上げた。
「榊さんがやればよくない?」「賛成ー」
「千景なら安心じゃね?」
教室の空気が、自然と千景に向かう。
千景は軽く息を吐いて、前を向いた。
「……じゃあ、やります」
拍手が起こる。
委員に相応しい、という空気。
湊はその様子を静かに見ていた。
彼女にとっては日常なのだろう。
どこに行っても中心に立ってしまう存在。
ただ——
(俺とは……違う)
比較するつもりはない。
けれど、比較してしまう自分がいる。
そんな湊の視線に気づいたのか、千景がちらりと後ろを見た。
目が合う。
千景は、他の誰に向けるものでもない、微かな柔らかい笑みを浮かべた。
湊の胸の鼓動が、一瞬だけ跳ねた。
(……やめろ、そういうの)
そう思うほど、心の中のノイズは強くなる。
藤原が、横目でそのやり取りを見ていた。
笑っているが、目だけはわずかに鋭い。
三
昼休み。
下駄箱近くの廊下に移動しようとした湊の肩を、誰かが軽く叩いた。
「雨宮くん、ちょっといい?」
振り返ると、九重深雪がいた。
今日の深雪は、いつもより真剣な顔をしている。
「えっと……話したいことがあって」
「なに」
「昨日も言ったでしょ。“音が消える”って」
深雪は、周囲の人間がいないことを確認しながら続けた。
「今日の朝もね、榊さんが振り返った瞬間、周りの音が少し薄くなったの」
湊の眉が寄る。
「気のせいだろ。そんな……」
「普通はそう思うよ。でも、私には感じるの」
深雪は、言葉を選ぶように一度息を吸った。
「湊くんって、さ。……なんていうか、“外に漏れる音”がないんだよ」
「……は?」
「みんな、何かしら音を出してる。楽しいとか、不安とか、焦りとか……表情や声に出てなくても、空気に微弱な波みたいに広がるの」
「……」
「でも、湊くんだけ、真っ白なの。
まるで、深いところまで静まり返ってる海みたい」
その比喩は、千景の言葉と重なる。
(……二人とも似たこと言うな)
「だから、気をつけた方がいいよ」
「……何に」
深雪は少し視線を落とし、静かに言った。
「“音がない人”って、能力者界隈だと、特別扱いされることがあるんだって」
湊の胸が冷えるような感覚に包まれた。
「なんで知ってるんだよ、そんなこと」
「……ちょっと、事情があって」
それ以上言わない深雪の目には、わずかな影。
彼女もまた、能力者世界のどこかに繋がっている。
そう思わせる何かがあった。
「とにかく、変な噂が立つ前に——」
その瞬間、ふいに強い視線が割り込んだ。
「九重さん。雨宮に何か用?」
振り返ると、榊千景が立っていた。
廊下の明るい光の中でも、その表情はいつもより少しだけ冷えている。
深雪は、あっさりと笑った。
「別に? ちょっと話してただけ」
「……そう」
千景は視線を湊に移し、いつもの柔らかさを無理に整えたような顔をして見せる。
「湊くん、お昼まだなら……一緒に食べよ?」
言葉自体は自然なのに、声の奥に微かな緊張が滲んでいた。
「べ、別に……いいけど」
「よかった」
千景は、ほっとしたような顔をした。
深雪は湊を見て小さく笑い、軽く手を振って去っていった。
去り際、廊下の向こうで
ふと千景と深雪の視線が交差する。
一瞬だけ、空気が緊張する。
感情ではなく、「立場」の匂いがした。
——二人は、おそらく相容れない。
湊はそのことを、まだ正確には理解していなかったが
空気だけで何となく察した。
四
放課後前の掃除時間。
教室の隅でほうきを動かしていると、
隣で掃除をしていた千景が、声を落として呟いた。
「……さっきの、九重さん」
湊の手が止まる。
「なに話してたの」
問いかけは静かだが、微妙に硬い。
普段の千景なら絶対に出さない温度だ。
「別に、大した話じゃ」
「“音の話”?」
湊の喉が一瞬詰まった。
千景は掃除の手を止めず、淡々と続ける。
「九重さん、ちょっと特殊な感受性あるよ。……聞こえる側の人」
「……聞こえる?」
「深層の音。Deep Tone。彼女も気づいたんだと思う。“湊くんだけ、無音”って」
湊はほうきをきつく握った。
「そんなの、気のせいだろ」
「気のせいじゃない」
千景の声は、ひどくはっきりしていた。
「湊くんの周りだけ、空気の層が変わる。
不安も、期待も、ざわめきも……他の人の“音”が薄くなる」
「……俺は、普通だよ」
必死にそう返す。
千景はほうきを止め、ゆっくりと湊の顔を見る。
真っ直ぐで、逃げ場のない瞳。
「普通じゃないよ。——気づいてるでしょ?」
湊は答えられなかった。
胸の奥がざわざわと波打つ。
千景は一歩近づき、声を落とした。
「……湊くんの無音はね、“意図的な沈黙”に近いの」
「……どういうことだよ」
「表層の音だけじゃなくて、深い感情の層まで、何かに覆われてる。
まるで……“心音の根っこ”が、他の人とは違うみたいに」
千景の声は淡々としているのに、言葉のひとつひとつが胸を刺す。
「……だから、私、楽なんだよ」
「楽……?」
「他の人の音がうるさすぎる。
藤原と話すときも、深雪さんと話すときも、家にいるときも。
全部、音が溢れてる」
千景は、ほうきを立てかけたまま、ほんの少し息を吸った。
そして、静かに言う。
「でも——
湊くんの近くにいるときだけ、世界が“静かになる”」
それは、告白のようであり、依存のようでもあり、祈りのようでもあった。
湊は、胸の奥がきゅっと縮まるのを感じた。
「……そんなの、俺は望んでない」
やっと絞り出した答え。
「知ってる」
即答。
「でも、それでも……私は、湊くんの静けさに救われてるの」
その言葉が、湊の喉に突き刺さる。
なんで。
なんで、そんなことを言う。
そんな風に言われたら。
そんな距離まで来られたら。
もう、何も誤魔化せなくなる。
千景は、ふっと笑った。
「……放課後、一緒に帰れる?」
その声は、弱くて、柔らかくて、
少しだけ甘かった。
湊は、目を逸らした。
(逃げられない……)
そう思ったとき、胸の中で何かが波紋のように広がっていく。
「……いいよ」
その言葉で、千景の表情がわずかに緩んだ。
五
帰り道の途中。
並んで歩く距離が、昨日よりまた少しだけ近い。
「ねえ、湊くん」
「なに」
「さっきの“無音”の話……怖くない?」
湊は答えに迷った。
怖い。
でも、千景に言われたくなかった。
「……別に。慣れてる」
「うそだ」
千景は断言した。
「湊くんの“怖い”って、表情じゃなくて……呼吸でわかる」
呼吸。
自分では気づけないものを指摘されて、湊は息を止めた。
千景は、少しだけ歩幅を緩めた。
「怖くてもいいよ。でも……私には、逃げないで」
その言葉が、胸の奥に深く食い込む。
千景は続ける。
「湊くんが無音でも、無音じゃなくても。
私にとっては、“特別”なのは変わらないから」
「その……特別って……」
問いかけようとした瞬間、千景が一瞬だけ息を呑む。
「……ごめん。まだ言葉にできない」
その目の奥には、
湊に対する興味と、依存と、確かめたい感情が複雑に混ざっている。
沈黙のまま歩き続ける。
帰り道の空気は、今日も不思議なほど静かだった。
——ただ。
「……湊くん」
千景が止まった。
自販機の前。
夕日の光が、制服の袖を赤く染める。
「手、貸して」
「は?」
言う間もない。
千景は湊の手首をそっと取った。
触れた瞬間——
千景の瞳が大きく揺れる。
「……やっぱり」
「な、なんだよ……」
「ここだけ、ほんとに“音がない”」
千景は湊の手首を、痛くない程度の力で握ったまま、
その沈黙を確かめるように目を閉じた。
「他の人に触れると、感情の音が一気に入ってくるのに……
湊くんだけ、何も聞こえない」
湊の心臓が跳ねる。
「離せよ……」
「やだ」
迷いが一切なかった。
「少しだけ……この無音に浸らせて」
その表情は、強さと脆さが同時に存在していた。
ヒロインとしての華やかさではなく、
ひとりの少女としての“救われたい”という弱さ。
湊は手を引こうとした。
けれど、千景の手が微かに震えているのを感じて……動きを止めた。
数秒。
いや、もっと長かったかもしれない。
千景は、ゆっくりと目を開ける。
「……ありがと」
手を離すと、湊の手首は少し冷えていた。
千景は照れ隠しのように笑う。
「変なことしてごめん。でも……確信した」
「なにを」
千景は真っ直ぐに言った。
「湊くんは、“無音”の中心にいる。
人の感情レイヤーの外側にいるみたいに」
その言葉は、物語の核心を端に触れた。
湊が言葉に詰まると、千景は軽く頭を下げる。
「ごめんね。……怖がらないでって言ってるけど、私だって怖い」
夕日の光に照らされながら、千景は胸の前で手を組む。
「でも、それでも近づきたい。
——湊くんが、静けさの真ん中にいるのなら」
その告白に近い言葉が、
湊の胸に強い波紋を広げた。
逃げたい。
でも離れたくない。
それは、恋の手前の、もっと曖昧で深い揺れだった。
六
夜
榊家の自室。
千景はベッドに腰を下ろし、今日一日の“空気”を思い返していた。
湊の手首に触れたときの、あの完全な沈黙。
——Deep Toneも、Surface Toneも、一切ない。
なのに、その沈黙の中心には
“微細な熱”みたいなものがあった。
(……怖い)
正確には、未知への怖さ。
でも、その怖さを超える“引力”があった。
千景は両膝を抱えて、天井を見上げる。
(……近づきすぎるな、って言われても)
父の言葉が頭をよぎる。
でも、もう遅い。
——気づいたら、彼を探している。
——気づいたら、声が聞きたくなっている。
——気づいたら“無音”が恋しくなっている。
静かな夜の中、千景はぽつりと呟いた。
「……怖いのに、なんでこんなに……落ち着くんだろ」
胸の奥に浮かぶのは、
彼の手首の冷たさと、
その奥に隠れた微かな熱。
千景は、深く息をつく。
「……湊くん、やっぱり“特別”だ」
その言葉に、誰も答えない。
ただ、部屋の静けさだけが、千景に寄り添うように満ちていた。
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