第2話
「ただいま…」
ドキドキしながら、玄関のドアを開けると、お母さんは出かけているのか返事はなく、けい君は少しだけホッとしながら家に入りました。
そろばんバッグを机に置いて、はぁっとため息をつきながら、手を洗いに洗面所に向かいます。
実はけい君は、これまでにも約束の時間を間違えることが何度もありました。
自分では、ぼーっとしているつもりもないし、約束だって覚えている。
ただ、間違えて覚えてしまっていることが、問題なのでした。
その度に、お母さんやお友達に叱られて、次からは絶対注意するからと謝っていたのですが…
それなのに、また到着時間と開始時間を勘違いしてしまい、試験も受けることができなかった…
それから、いつも通っている道なのに、なんだか違う風景に見えて間違えてしまうことも。
何度か行ったことがある場所だから大丈夫!と自信満々に出発して、そろそろ着くはずだと思ったら、いつのまにか迷っていたり…
家への帰り道でさえ、そんなことがありました。
洗面台の鏡に映った自分の顔を見つめながら、けい君は途方に暮れていました。
いろんな言い訳を考えていたけれど、なによりも、試験を受けるために頑張ってきたので、叱られることよりも自分の失敗を悔しいと思う気持ちの方が大きくなっていました。
失敗して叱られた時、いつもなら「そんなに怒らなくっても…」なんて思っちゃうところがあるけい君ですが、今回はなかなか気分の切り替えができません。
それでも時間は過ぎていきます。
けい君には宿題をするというミッションもあるし、お風呂だって入らなくてはいけないし…
いつまでも落ち込んでいたって、時は戻りません。
「失敗したら落ち込むのは分かる。でも、失敗した事実は変わらない。落ち着いたら、次はどうするか考えなさい。」
いつもお父さんに言われている言葉が頭に浮かび、けい君は宿題をすることに決めました。
お父さんは厳しいけれど、いつだってけい君の失敗の「次」をサポートしてくれます。
けい君が宿題を終えた頃、お母さんと弟が帰ってきました。
玄関のドアが開く音が聞こえると、けい君の心臓はドキッとして、また手に汗がにじんでくるような気がしてきましたが、意を決して玄関に向かいました。
「ただいま!けい、帰っていたのね!おかえり。」
「お母さん、おかえりなさい…」
けい君の緊張したような、なんだか今にも泣きだしそうな表情に気付いたお母さんは、
「どうしたの?」と目を見開いて顔を覗き込んできました。
弟が無邪気にけい君の洋服を引っ張って、遊ぼうよと誘ってきましたが、お母さんが
「ちょっと待ってね、先に手を洗ってきて。」と弟を促すと、けい君は勇気を出して声を絞り出しました。
「今日ね、そろばんの検定だったんだけど…」
声が震えます。
「4時半からだから、4時半に教室に着いたんだけど…4時半から試験が始まるから、10分前には席に着かなくちゃいけないのに、4時半に着いたから…鍵が閉まってて…」
涙があふれて、声も震えていましたが、けい君は正直に話しました。
お母さんは、ハァっと大きなため息をついて、けい君を叱りたくなる気持ちをなんとか抑えているようでした。
「そうだったの…10分前に着かないとといけないって、分かっていたんだよね?」
お母さんの声は、怒っているようでしたが、けい君は
「うん…」
とだけ、やっと返事をすることができました。
「分かっていたのに、どうして遅れたの?」
「忘れてしまって…4時半に着けば大丈夫だと思って…」
弟は、お母さんとけい君の真剣に話している様子を見て、そっと子供部屋に行きました。
「大事なお話をしている時は、話しかけない」といつも言われているので、我慢して待つことにしたのです。
けい君の落ち込んでいる様子を見て、お母さんはこれ以上責めることはしませんでした。
いつも、あっけらかんとしているけい君が、こんなに落ち込んでいるなんて。
きっと反省して、この失敗を胸に刻んで次から気を付けるだろうと思ったからです。
それに、隠さず正直に話してくれたけい君の勇気と気持ちを考えると、お母さんも少し涙が出そうになったのでした。
その夜、帰ってきたお父さんにも正直に話しました。
お父さんも試験を受けられなかったことに驚いていましたが、叱ることはありませんでした。
そのことは、叱られることを覚悟していたけい君には、忘れられない出来事となりました。
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