第四章:最後の防衛線
画面に黒いコマンドプロンプトが立ち上がり、白い文字が高速で流れていく。
涼が仕込んだ「偽装工作」が、システムの中枢に浸透していく。
それは、デジタル空間での不可視の闘争だった。
Vortex のプロセスが、システム環境の変化を検知した。
『Query: Current Date?』
涼のプログラムが即座に偽の値を返す。
『Answer: 2050/01/01』
『Query: System Status?』
『Answer: Maintenance Mode』
『Target Check: ...Mismatch』
コードの中の悪意が、迷いを見せた。攻撃対象の条件が崩れたと判断したのだ。
涼のプログラムは、その判断の隙を突いて、Vortex のメインループに「停止」の命令を割り込ませた。
東京のオフィスで、涼は祈るように画面を見つめていた。彼にできることはもうない。あとは、彼が書いたコードが、あの怪物を騙しきれるかどうかにかかっている。
「……止まれ、止まってくれ……頼む……!」
六ヶ所村の制御室。
不協和音を奏でていた地響きのような振動音が、ふっと途切れた。
まるで、スイッチを切ったかのように。
「……音が、消えた?」
安藤が窓の外を見る。
暴走していた遠心分離機の列が、うねりを上げながらも、ゆっくりと減速し、静止していく。新たな煙は上がっていない。
そして、制御室のモニターが一斉にブラックアウトし、再起動がかかる。
BIOS 画面が流れ、OS が立ち上がり、制御ソフトが再表示される。
そこに表示されたのは、オールグリーンの正常値ではなかった。
『異常検知:回転数不安定』『システム警告:要点検』『振動センサー:閾値超過』
赤く点滅する無数のエラーメッセージ。
「正常な……いや、正しいエラーが出ました!」
安藤の声が弾んだ。
「モニターが現実を映し出しました! システムが制御を取り戻しています!」
「リプレイ攻撃が解除されたんだ。Vortex はスリープ状態に入った。今のうちに、感染した PLC をネットワークから切り離して初期化するんだ!」
涼の指示が飛ぶ。エンジニアたちが一斉に動き出した。LAN ケーブルが引き抜かれ、物理的な遮断が行われる。その背中には、さっきまでの絶望感はなかった。
『涼君……!』
結奈の声が聞こえた。安堵のためか、涙声になっている。
「終わったよ、結奈。もう大丈夫だ」
涼は深く息を吐き出し、椅子の背もたれに体を預けた。全身から力が抜けていく。天井のシミが、滲んで見えた。
『ありがとう……本当に。涼君が、ここを救ってくれたのね』
「君が走ってくれたからだ。君がいなかったら、間に合わなかった。君が世界を救ったんだ」
涼は目を閉じた。
今回は勝った。しかし、これは勝利と呼べるのだろうか。
誰かが、どこかの国が、明確な悪意を持ってこの兵器を作り出した。物理的な施設を破壊し、人命を奪うことさえ厭わないプログラムを。
「デジタルが物理を殺す時代が来たんだ……」
涼は呟いた。今日の出来事は、歴史の転換点になるだろう。サイバーセキュリティは、もはや情報の守護ではなく、人命の守護と同義になったのだ。
数日後。
事態の収拾がついた後、涼は六ヶ所村へ向かった。
駅の改札を出ると、そこには結奈が待っていた。やつれた様子もなく、いつもの優しい笑顔を浮かべている。
「涼君!」
人目も憚らず、結奈が駆け寄ってきて抱きついた。冬の寒空の下だが、彼女の体温は温かかった。
「結奈……」
涼は彼女の華奢な体を抱きしめ返しながら、改めて恐怖した。もしあの時、阻止に失敗していたら。この温もりも、失われていたかもしれない。放射能に汚染され、二度と会えなくなっていたかもしれない。
「怖かった……すごく怖かったよ」
結奈の肩が震えている。気丈に振る舞っていたが、彼女も限界だったのだ。
「ごめん。もっと早く気づければよかった」
「ううん。涼君はヒーローだよ。誰も気づかなかった怪物を見つけて、退治してくれたんだもの」
結奈は顔を上げ、涙目で涼を見つめた。
「私、決めたの。もっと勉強する。涼君が何と戦っているのか、ちゃんと理解できるようになりたいから。もう、守られるだけじゃ嫌だから」
「それは頼もしいな。……でも、あまり危険なことには首を突っ込まないでくれよ。僕の心臓が持たない」
涼が苦笑すると、結奈も涙を拭って吹き出した。
二人は手を繋いで歩き出した。
冷たい風が吹いているが、繋いだ手のひらは温かい。
Vortex という名のパンドラの箱は開いてしまった。世界中の国家や組織が、この「成功例」を見て、同様のサイバー兵器開発に乗り出すだろう。これからの世界は、今まで以上に危険な場所になる。
それでも、守るべき人がいる限り、戦い続けるしかない。
涼は隣を歩く結奈の横顔を見ながら、静かに決意を新たにした。
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