ヒヨコと夢

@kurayami_tantei

第1話 高校三年生になった

1-1


五月の連休が明けて、僕、青山薫は高校三年生になっていた。


正確に言えば、四月から三年生だったわけだけれど、なんというか、実感として「ああ、本当に三年生なんだな」と思ったのは、この五月の中旬、進路指導の紙を渡されたときだった。そういうものだ。人間というのは、紙一枚で現実を突きつけられるようにできている。


担任の田中先生は、いつものように少し疲れた顔をしていて、でもどこか優しい目をして、教室の前に立っていた。四十代半ばくらいの、背が高くて痩せた人で、いつも同じような紺色のスーツを着ている。ネクタイだけは日替わりで、今日は地味なエンジ色だった。


僕は時々、世界中の大人はみんな疲れているのじゃないかと思うことがある。パワハラだのモラハラだの、用心深くおとなしくしていないといけないし、うんざりするほど、まあ相当にどうでもよいことで悩んでいるんじゃないかなあ。田中先生もきっとそうなんだろうなあ、と何となくぼんやりと思った。


「はい、じゃあこれから進路希望調査票を配ります。来週の月曜日までに、必ず保護者と相談して提出すること」


進路希望調査票。その薄っぺらい紙が、なんだかとても重く感じられた。A4サイズの、ただの白い紙なのに。考えてみれば、僕は昔からお行儀がよく礼儀正しい、忍耐強いというか、つきあいのよいところがある。これまでは、なんとなく周りの大人の会話を聞きながら自分のことを決めてきたところがあった。お行儀よく親切だと「受験戦争」には負けちゃうんだろうなあ。あーあ。


僕の席は窓際の後ろから三番目で、外を見れば校庭の新緑が目に眩しいくらいだった。サッカー部の後輩たちが練習していて、ボールを追いかける姿が小さく見える。一年前は僕もあそこにいたんだな、と思う。今はもう、受験勉強のために部活を引退した先輩だ。放課後はずっと教室か図書館にいる。そういう生活だ。なんだか上下関係が懐かしく思える。部活をやっていたころは、自分の居場所(自分で言うのもなんだけど、僕はけっこう優秀なサイドハーフだったんだ)もあって、今より自己肯定感が高かったような、何でもできたような、そんな気がする。


うちの高校は私服で、それはそれで面倒くさい。毎朝、何を着ていくか考えなければならない。女子はそれなりにおしゃれしてくる奴もいるけれど、男子はだいたいユニクロだ。僕もそう。今日は、グレーのパーカーに黒のスキニーパンツ、白のスニーカー。ユニクロとGUで揃えた、典型的な量産型高校生のスタイル。ヘアスタイルだけは少し気にして、前髪で少し悩むこともあって、今はワックスで少し立たせている。


「青山」


前の席の佐藤が振り返って、小声で話しかけてきた。佐藤は小学校からの付き合いで、背が高くて、スポーツ万能で、成績も学年で十番以内。大体僕の学校には、普通の良くできる秀才が多いのだが、猛烈個性的な変わり者がいたりする。佐藤は彼ら変わり者「芸術派」の人間だ(彼らは英語じゃなくてドイツ語をやってたりするんだ、とにかく変わっている)。でもどういうわけか、僕とは気が合う。佐藤は今日は黒のTシャツにデニムのジャケットを羽織っていて、無難にまとめている。髪は金髪だ。


「なんだよ」


「お前、どこ書く?」


「まだ決めてない」


「嘘つけ。絶対もう考えてるだろ」


「考えてるけど、決めてない」


これは本当だった。考えることと決めることは、全然違う。考えることはできる。でも、決めることは、なんかできないんだよな。僕にはそういうところがある。優柔不断というか、慎重というか。それこそ今回の受験というしくみには、この性格は合わないなあ。


隣の席には、美咲がいた。クラスで唯一、僕がまともに話せる女子だ。ショートカットで、いつも黒縁メガネをかけている。今日はベージュのシャツワンピースに、白のスニーカー。シンプルだけど、なんとなくおしゃれに見える。女子の服装は、僕にはよくわからない。美咲は変わっていて、哲学書を読んだり、クラシック音楽を聴いたり、そういうちょっと高尚な趣味を持っている。でも、全然嫌味じゃない。むしろ、話していて面白い。


「美咲は決めた?」


僕が聞くと、美咲はメガネを直しながら答えた。


「看護学部」


「マジで?」


「うん。看護師になる」


「へえ、人を助けたいとか?」


「いや、別に」


美咲は、あっさりと言った。


「求人が多いから。くいっぱぐれない」


「現実的だな」


「当たり前でしょ。夢だけじゃ食えないし」


美咲は、いつもこんな感じだ。ドライで、現実的で、でもどこか優しい。そういう奴だ。


1-2


HRが終わって、一時間目の授業が始まった。英語だ。


先生が黒板に例文を書いていく。僕はノートに書き写すけれど、全然頭に入ってこない。


進路のことばかり考えてしまう。


医者になりたかった。小学生のとき、テレビで見た心臓外科医がかっこよくて。人の命を救う仕事って素晴らしいと思った。母親も喜んでいた。「薫が医者になるなんて素敵ね」って。でも、それは小学生の頃の話で、今となってはもう遠い昔のことのように思える。


でも、無理だ。僕の成績じゃ、医学部なんて夢のまた夢だ。模試の偏差値は50前後をうろうろしている。こんな成績で、医学部に行けるわけがない。


弁護士になりたかった。中学生のとき、法廷ドラマを見て憧れた。無実の人を救う。そういう正義のヒーローみたいな仕事が、かっこいいと思った。黒いガウンを着て、法廷で論戦を繰り広げる。そういう姿に憧れた。


でも、これも無理だ。法学部に行っても、司法試験に受かる自信がない。そもそも、法科大学院に行くお金があるのか。父親の収入は、普通のサラリーマン並みだ。母親はパートをしている。そんなに余裕があるとは思えない。


起業家になりたかった。高校に入ってから、スティーブ・ジョブズの伝記を読んで。世界を変えるようなプロダクトを作る。そういう人生も悪くないと思った。iPhoneを作ったみたいに、みんなが使うものを作る。そういう夢もあった。


でも、それも漠然としすぎている。何を作るのか、どうやって資金を集めるのか、全然わからない。起業なんて、才能がある人間がやることだ。僕みたいな、平凡な人間には無理だろう。


結局、僕には何ができるんだろう。


二時間目は数学。三時間目は国語。どれも、なんとなく聞いているだけで、全然理解できていない気がする。教科書の文字を追っているだけで、頭の中は別のことを考えている。そういう状態だ。


四時間目は世界史。先生が、古代ギリシャの哲学者の話をしていた。


「イオニア派の自然哲学者たちは、万物の根源(アルケー)を探求しました。タレスは水、アナクシメネスは空気、ヘラクレイトスは火を根源としました」


僕は、ぼんやりと聞いていた。


世界の根源か。そんなもの、あるんだろうか。


先生は続けた。


「そして、エンペドクレスは、四元素説を唱えました。火、水、土、空気の四つが、すべての物質を構成していると」


エンペドクレス。どこかで聞いたことがある名前だ。


「エンペドクレスには、有名な逸話があります。彼は自分が神になったと信じて、エトナ火山に飛び込んだと言われています。しかし、火山が彼のサンダルを一つ吐き出したため、彼の死が明らかになった、と」


サンダルを吐き出した火山。なんだか、滑稽な話だ。


自分が神になったと信じて、火山に飛び込む。そこまで、自分を信じられるって、ある意味すごいことじゃないか。


僕には、そんな自信はない。


昼休み、屋上に行った。佐藤と美咲も一緒だった。


屋上からは、街が見渡せる。遠くに見えるビル群、流れる車、歩いている人々。みんな、それぞれの人生を生きている。


僕のスマホからは、Spotifyのプレイリストが流れていた。特別音楽が好きというわけじゃないけれど、なんとなく聞いている。BGMみたいなものだ。


「なあ、青山」


佐藤が話しかけてきた。


「なんだよ」


「お前、本当にどこ書くんだ?」


「わからない」


「正直に言えよ」


「本当にわからないんだって」


僕は、空を見上げた。青い空に、白い雲が浮かんでいる。


「昔は色々あったんだけどな。医者とか、弁護士とか、起業家とか」


「すげえな」


「でも、全部無理」


「どうして?」


「成績が足りない」


佐藤は、少し困ったような顔をした。


「お前、そんなに悪くないだろ」


「いや、悪い。お前と比べたら」


「俺と比べるなよ」


「でも、現実だろ」


美咲が、横から口を挟んだ。


「青山、あんたさ、勉強と夢って関係あると思う?」


「え?」


「だから、勉強できないと夢が叶わないって、本当なのかなって」


「そりゃ、医者とか弁護士とかは、勉強できないとなれないだろ」


「でも、それだけじゃないでしょ。世の中には、勉強できなくても成功してる人、いっぱいいるじゃん」


「まあ、そうだけど」


「じゃあ、なんで学校は勉強させるわけ?」


美咲の質問に、僕は答えられなかった。


そう言われてみれば、そうだ。


勉強と夢って、本当に関係あるのか?


勉強できなくても、夢を叶えている人はいる。


逆に、勉強できても、夢を叶えられない人もいる。


じゃあ、なんで僕たちは、こんなに勉強しなければならないんだろう。


「先生に聞いてみたら?」


美咲が言った。


「先生?」


「うん。田中先生とか、わかりやすく教えてくれそうじゃん」


「そうかな」


「聞いてみなよ。あんたの疑問、結構大事だと思うよ」

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