文化祭準備2:嵐の前の静寂
文化祭前日というのは、物理法則が乱れる特異点のような時間だ。
校舎全体がアドレナリンと塗料の匂いに包まれ、生徒たちは睡眠不足によるハイテンションで廊下を走り回り、教師たちは諦めの境地でそれを見守る。
ベニヤ板を運ぶ運動部員、衣装合わせで悲鳴を上げる女子たち、終わらない準備に絶望するクラス委員。
そこかしこで発生するトラブルと、それを上回る熱量が、学校という巨大な有機体を脈打たせていた。
だが、北校舎の三階、その突き当たりにある生物準備室だけは、エアポケットのように静まり返っていた。
ここには、クラスの出し物からあぶれた者や、喧騒を嫌う者たちが集う、秘密のアジトがあるからだ。
「……完成だ」
藤堂先輩が、脚立の上から降りてきて、満足げに腕を組んだ。
僕たち四人――先輩、僕、日下部君、愛名先輩――は、並んでその「作品」を見上げた。
かつて無機質だった実験室は、今や異様な空間へと変貌を遂げていた。
入り口には、段ボールと銀のスプレーで作られた巨大な「鉄格子」が設置されている。一歩足を踏み入れれば、そこはもう「檻の中」だ。
壁一面に貼られたパネルには、愛名先輩の描いたポップで毒々しいイラストと、日下部君が執筆した冷徹で学術的な解説文が並んでいる。
『展示No.1:カースト上位層によるマウンティング儀礼』
『展示No.2:集団心理におけるスケープゴートの機能』
『展示No.3:同調圧力と個体の思考停止プロセス』
天井からは、猿の模型(理科室にあった骨格標本に服を着せたもの)が吊り下げられ、ブラックライトで不気味に照らし出されている。
タイトルは、黒い模造紙に白抜きで大きく書かれていた。
『特別企画展:人間動物園 〜霊長類ヒト科の奇妙な生態〜』
「……エグい」
愛名先輩が、ガムを噛みながら呟いた。
「これ、マジで怒られるやつじゃん。PTAとか発狂すんじゃない?」
「それが狙いです」
日下部君が、眼鏡を指で押し上げながらニヤリと笑った。
「怒るということは、図星を突かれたということです。僕たちの分析が正しいことの証明になります」
「性格悪ッ。……ま、嫌いじゃないけど」
この一週間で、日下部君と愛名先輩の間には、奇妙な連帯感が生まれていた。「オタク」と「ギャル」という対極の存在が、「毒舌」という共通言語で通じ合っている。
ボノボ的な共生関係の、一つの到達点だ。
「湊君、最終チェックだ」
藤堂先輩が僕にクリップボードを渡した。
「展示物の配置、照明、BGM。すべて計算通りか?」
「はい。BGMはジャングルの環境音に、学校のチャイムや怒号をサンプリングして混ぜたものです。不安感を煽るように調整しました」
「よろしい。……これで舞台は整った」
先輩は部屋の中央に立ち、両手を広げた。
「明日の朝一〇時、開園だ。我々はここから、この狂った学校(ジャングル)に向けて、鏡を突きつける。……自分たちがどんな顔をして生きているのか、まざまざと見せつけてやるんだ」
武者震いがした。
楽しみだ。
豪徳寺が、クラスメイトたちが、教師たちが、この展示を見てどんな顔をするのか。
怒るか、笑うか、それとも青ざめるか。
いずれにせよ、彼らはもう無視することはできない。「カルト」だの「キモい」だのと陰口を叩くだけでは済まされない。
ここにあるのは、圧倒的な「知性」による反撃なのだから。
下校時刻が過ぎ、他の準備生徒たちも帰り始めた頃。
僕たちは最後の片付けをしていた。
「じゃ、あたし帰るわ。ネイル直さないといけないし」
愛名先輩が鞄を持った。
「僕も帰ります。妹に展示の解説をしておかないといけないので」
日下部君も本を抱えた。
「お疲れ様。明日は頼むよ」
「ういーっす」
「お疲れ様でした」
二人が帰った後、部室には僕と藤堂先輩だけが残った。
いつもの静寂。アールグレイの香り。
でも、今日でこの静けさも終わりだ。明日はここが戦場になる。
「……来なかったね、彼」
先輩が、洗い物をしながらポツリと言った。
吉川のことだ。
僕は渡り廊下に置いてきた原稿のことを思い出した。
あれから毎日、彼を探したが、避けられていた。目が合えば逃げられ、近づけば他人の影に隠れる。
完全に拒絶されていた。
「……はい。やっぱり、無理だったみたいです」
僕は窓の外を見た。
校庭にはキャンプファイヤーのやぐらが組まれている。青春の象徴。
吉川は今頃、豪徳寺たちと一緒に、その準備を手伝わされているのだろうか。それとも、一人で家に帰って、膝を抱えているのだろうか。
「でも、席は空けておきます」
僕は言った。
「『飼育員』の名札、彼の分も作りましたから」
「……お人好しだね、君も」
先輩は苦笑したが、その目は優しかった。
「さて、私たちも帰ろうか。今日は早く寝て、英気を養わないと」
「はい。戸締まり確認します」
先輩が先に部屋を出た。
僕は電気を消し、最後に部屋を見渡した。
暗闇に浮かぶ鉄格子。猿の模型。
不気味で、悪趣味で、そして最高にクールな僕たちの城。
ドアを閉め、鍵をかける。
廊下はもう真っ暗だった。
先輩の足音が階段の方へ消えていく。
僕も追いかけようとして、ふと、足元に違和感を覚えた。
ドアの前に、何かが置いてあった。
以前のようなゴミではない。
綺麗に折り畳まれた、白い紙だ。
風で飛ばないように、小石が乗せられている。
僕は屈み込み、その紙を拾い上げた。
手触りでわかった。
これは、僕が渡り廊下で吉川に渡した、日下部君の原稿のコピーだ。
『スケープゴートの役割とその精神的摩耗について』
捨てられていなかった。
彼はこれを持っていたのだ。そして、わざわざここに返しに来たのだ。
僕たちが作業している間、入れずにドアの前で立ち尽くしていたのだろうか。あるいは、僕たちが帰るのを見計らって置いたのだろうか。
スマートフォンのライトをつけて、紙を開く。
そこには、書き込みがあった。
日下部君の文章の余白に、赤いボールペンで、びっしりと文字が書き込まれている。
『違う。ここはもっと惨めだ』
『笑ってごまかすのは、恐怖からじゃない。プライドを守るためだ』
『いじめる側にも、恐怖がある。見捨てられる恐怖が』
震えるような筆跡。
それは、当事者にしか書けない、生々しい「修正」だった。
日下部君の理論は正しいが、客観的すぎた。吉川はそこに、自分の血と肉を混ぜ込んだのだ。
そして、紙の最後に、一言だけ殴り書きがしてあった。
『答え合わせは、明日やる』
心臓が鷲掴みにされたように熱くなった。
これは、参加表明だ。
「仲間になる」とは言っていない。「許す」とも言っていない。
でも、彼はこの展示に興味を持った。自分の痛みを、エンターテインメントとして昇華することに、一縷の希望を見出したのだ。
「……吉川」
僕は紙を胸に抱きしめた。
嬉しかった。
成功した展示物を見るよりも、この汚い文字で書かれたメモの方が、何倍も嬉しかった。
届いていたんだ。
ノックは、無駄じゃなかったんだ。
「湊君、どうしたの? 置いていくよ」
階段の下から、先輩の声がした。
僕は慌てて紙をポケットにしまい、涙を拭った。
「今行きます! ……先輩、すごいですよ!」
僕は階段を駆け下りた。
足音が廊下に響く。
それは、勝利の行進曲のように軽やかだった。
最後のピースが埋まった。
賢者(藤堂先輩)
記録者(日下部くん)
観察者(愛名先輩)
調整者(僕)
そして、当事者(吉川)
全員の力が、この『人間動物園』に集結する。
明日は、ただの文化祭じゃない。
僕たちの「革命記念日」になるんだ。
校舎を出ると、夜風が心地よかった。
星が見える。
明日も晴れるだろう。
僕は先輩と並んで、坂道を下っていった。
家には、父さんと母さんが待っている。
学校には、仲間たちが待っている。
世界はまだ厳しいけれど、もう孤独ではなかった。
さあ、夜が明ければ、開園の時間だ。
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