文化祭当日:笑いによる革命


 一〇月二五日、土曜日。

 空は抜けるように青かった。

 午前九時の開門と同時に、校舎は異様な熱気に包まれた。焼きそばのソースの匂い、ポップコーンの甘い香り、そしてスピーカーから流れる大音量のロックミュージック。

 生徒たちは皆、非日常という魔法にかかり、クラスTシャツやコスプレ姿で廊下を闊歩している。


 そこはもう、偏差値を競う進学校ではない。欲望と自己顕示欲が解放された、巨大な祝祭空間だった。

 だが、その喧騒から遠く離れた北校舎三階の突き当たり。

 生物準備室の前だけは、異質な空気が漂っていた。

 薄暗い廊下に、ブラックライトの紫色の光が漏れ出している。

 入り口には、段ボールと銀スプレーで作られた巨大な鉄格子が嵌め込まれ、その上に掲げられた黒い看板が、禍々しくも魅惑的なフォントでこう告げている。


 『ENTER THE ZOO(動物園へようこそ)』


 『注意:檻の中にいるのは、あなたです』


 午前一〇時。開園の時間だ。

 僕は鉄格子の横に立ち、深呼吸をした。

 飼育員の衣装(作業着につば付き帽子)を着ている。これは愛名先輩のコーディネートだ。

 隣には、同じ格好をした日下部君がいる。彼は緊張で顔を青くし、しきりに眼鏡の位置を直している。


「……来ますかね、お客さん」


「来るよ。人間は『怖いもの見たさ』には勝てない生き物だからね」


 僕は彼を励ますように肩を叩いた。


 その言葉通り、遠巻きに様子を窺っていた生徒たちが、ちらほらと近づいてきた。

 最初は、一年生の女子グループだった。


「ねえ、ここ何? お化け屋敷?」


「違うっぽいよ。生物部だって」


「えー、地味じゃん。でもなんか雰囲気ヤバくない?」


 彼女たちは恐る恐る、鉄格子の隙間(入り口)をくぐった。


 一歩中に入ると、そこは別世界だった。

 遮光カーテンで閉ざされた闇の中に、スポットライトで照らされたパネルが浮かび上がっている。

 BGMは、ジャングルの環境音と、加工された学校のチャイム音。

 不気味で、しかしどこか滑稽な空間。

 彼女たちは最初のパネルの前に立った。


 『展示No.1:霊長類ヒト科におけるマウンティングの構造』


 そこには、愛名先輩が描いた「猿の姿をした女子生徒たち」のイラストがあった。

 トイレに行く際に群れを作り、行かない個体を仲間外れにする図。

 そして、日下部君の解説文。


 『ヒト科のメスは、同調行動によって帰属意識を確認する。一見仲良さそうに見えるが、その実態は「私は群れの一員である」という相互監視システムであり、逸脱した個体には冷酷な社会的制裁(ハブり)が加えられる』


 読んでいる女子たちの表情が、凍りついた。

 図星だったのだ。

 「あるある」なんてレベルではない。自分たちの無意識の行動原理を、メスを入れて解剖されたような衝撃。


「……うわ、これ」


「エグい。てか、これミカたちのことじゃん」


「あー! 確かに! あのグループまんまこれ!」


 爆笑が起きた。

 それは「面白い」という笑いであると同時に、「見透かされた」という恥ずかしさを誤魔化すための笑いでもあった。

 しかし、一度笑ってしまえば、恐怖は消える。

 彼女たちは次のパネルへと進んだ。


 『展示No.2:オス集団における序列闘争と虚勢』


 今度は男子生徒(猿)が、机を蹴り、大声で威嚇しているイラストだ。

 解説文にはこうある。


 『アルファ・オス(ボス猿)は、常に自身の優位性を誇示しなければならないという強迫観念に囚われている。彼らの攻撃性は「強さ」の証明ではなく、「地位を失うことへの恐怖」の裏返しである。要するに、一番ビビっているのは彼らなのだ』


「あっはは! これ豪徳寺先輩じゃん!」


「ウケるー! ビビってるんだ、あいつ」


「猿山の大将ってこと? ダサッ!」


 笑いの質が変わった。

 それは「解放」の笑いだった。

 今まで「怖い」「逆らえない」と恐れていた権力者が、ただの「怯える猿」として再定義された瞬間、彼女たちの中で「権威」が崩壊したのだ。

 魔法が解けたのだ。

 僕は部屋の隅で、その光景を見守っていた。

 藤堂先輩が、実験台の陰でニヤリと笑い、親指を立てて見せた。

 作戦成功だ。

 この展示は、単なる悪口ではない。

 「メタ認知」の強制装置だ。

 自分たちが檻の中で繰り広げているドロドロとした人間関係を、一歩引いた視点(動物園の客の視点)から眺めさせることで、その滑稽さに気づかせる。

 恐怖の対象を「笑い」に変えること。

 それが、僕たちの復讐であり、救済だった。

          




 噂は、光の速さで伝播した。

 今度は悪意のある噂ではない。もっと刺激的で、知的なエンターテインメントとしての噂だ。

 

 『生物部の展示、ヤバいらしいよ』


 『全校生徒をディスってるけど、なんか納得しちゃう』


 『豪徳寺のこと猿扱いしてたw』


 昼前には、生物準備室の前に行列ができていた。

 普段は北校舎になど寄り付かないような、カースト上位の生徒たちも混じっている。

 彼らは最初は「生意気だ」「潰してやる」という敵意を持って入ってくる。

 だが、中に入り、自分たちの行動が見事に言語化され、戯画化されているのを見ると、怒るよりも先に毒気を抜かれてしまうのだ。

 愛名先輩が、受付で不機嫌そうに(でも楽しそうに)案内をしている。


 「はいはい、猿の方はこちらへー。餌は与えないでくださーい」


 彼女のその態度は、普段なら反感を買うところだが、この空間では「飼育員」というキャラクターとして機能していた。

 ギャルがオタク的な展示を仕切っているというギャップも、生徒たちの混乱と興奮を煽った。

 そして、日下部君。

 彼は展示の奥で、熱心に質問してくる生徒たちに解説をしていた。


 「はい、これは『防衛機制』の一種でして……」


 早口で、専門用語混じりで。

 でも、誰も彼を「キモい」とは言わなかった。むしろ、「へえ、すげえ」「物知りだな」と感心している。


 この空間において、知識は力であり、彼はその知識を司る「賢者」としてリスペクトされていた。

 彼の眼鏡が、誇らしげに光っていた。

 僕は会場の隅で、全体をコントロールしていた。

 混雑しすぎないように誘導し、トラブルが起きそうなら笑顔で介入する。

 かつて教室でやっていた「調整」とは違う。

 あの時は、他人の顔色を窺い、媚びていた。

 でも今は、この場のルールブック(主催者)として、堂々と振る舞っている。


 午後二時。

 教室の空気が、最高潮に達した頃。

 入り口付近がざわついた。

 客の流れが止まり、モーゼの海割りのように道が開く。

 現れたのは、豪徳寺猛だった。

 サッカー部のジャージ姿。後ろには鹿島などの取り巻きを引き連れている。

 その表情は、明らかに不機嫌だった。

 噂を聞きつけたのだろう。自分がコケにされていると知って、乗り込んできたのだ。


「……おい」


 豪徳寺が低い声で言った。

 会場のBGMがかき消されるほどの威圧感。

 客として来ていた生徒たちが、一斉に壁際へ下がる。

 

 豪徳寺は、僕を見つけた。

 まっすぐに歩いてくる。その目は血走っていた。


「相馬。テメェ、いい加減にしろよ」


 彼は僕の胸ぐらを掴もうとした。

 だが、僕は逃げなかった。

 一歩も引かず、彼の目を見返した。

 不思議と、怖くなかった。

 なぜなら、今の彼が、展示パネルにある「威嚇するチンパンジー」そのものに見えたからだ。


「ようこそ、豪徳寺君」


 僕は静かに言った。


「『人間動物園』へ。……君のために、特等席を用意しておいたよ」


 僕は背後のパネルを指差した。

 そこには、一番大きく描かれたボス猿のイラストがあった。

 赤面し、血管を浮き上がらせ、孤独に震える猿の絵。

 タイトルは『王の孤独と、その脆弱性』。

 豪徳寺がパネルを見た。

 そして、固まった。

 怒りで殴りかかるか、それとも破壊するか。

 緊迫した空気が流れる。


 その時。

 人垣の後ろから、一人の男子生徒が進み出てきた。

 小柄で、猫背で、いつも誰かの後ろに隠れていた彼。

 吉川ナオだった。

 彼は真っ直ぐに豪徳寺の横に立ち、そのパネルを見上げた。

 そして、ポツリと言った。


「……そっくりだな、タケル君」


 その一言が、静寂を破った。

 豪徳寺がギョッとして吉川を見る。

 吉川は震えていた。手も、足も、声も。

 でも、彼は笑っていた。

 引きつりながらも、自分の意志で、権力者を笑い飛ばそうとしていた。


 その瞬間、会場の空気が決壊した。

 誰かが「ぷっ」と吹き出し、それが連鎖して、爆発的な笑い声が部屋中を満たした。

 それは嘲笑ではない。

 「王様は裸だ!」と叫んだ子供の声に続く、解放の笑いだった。

 豪徳寺は顔を真っ赤にして立ち尽くしていた。

 怒鳴ることも、殴ることもできない。

 なぜなら、ここで暴れれば、それこそパネルの解説通りの「余裕のない猿」であることを証明してしまうからだ。

 彼は論理的な詰み(チェックメイト)に追い込まれていた。


「……チッ」


 豪徳寺は舌打ちをし、踵(きびす)を返した。

 逃げたのだ。

 笑いという名の檻から。


「帰るぞ」


 彼が出て行くと、取り巻きたちも慌てて後を追った。

 会場には、拍手のような喝采が残った。

 僕は吉川を見た。

 彼はへなへなと座り込みそうになっていた。

 僕は駆け寄り、彼を支えた。


「……来たな」


「……ああ。正解合わせ、しに来たんだよ」


 吉川は汗だくの顔で、弱々しく笑った。


「お前の勝ちだ、相馬。……これ、すげえよ。俺たちの負けだ」


「勝ち負けじゃないよ」


 僕はポケットから、いつものグミを取り出した。

 そして、彼の手のひらに乗せた。


「……分け合おう。それだけだ」


 吉川はグミを見つめ、それから口に放り込んだ。

 今度は、吐き出さなかった。

 ゆっくりと噛みしめ、飲み込んだ。


「……甘いな」


「だろ?」


 僕たちの間に、もう言葉はいらなかった。

 サンクチュアリは、ここにもあった。

 この騒がしい、狂った動物園の中に、確かな平和が生まれていた。

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