文化祭準備1:檻の中の生態学
文化祭まであと二週間。
放課後の生物準備室は、インクと糊、そして熱狂的な「悪だくみ」の匂いに満ちていた。
実験台の上には模造紙が広げられ、壁には無数のメモ書きが貼られている。
僕たちは、この狭い部屋を司令室として、学校という巨大なシステムに喧嘩を売る準備を進めていた。
「いいかい、ポイントは『客観性』だ」
藤堂先輩が、指示棒を振り回しながら力説する。
「特定の個人を攻撃してはいけない。あくまで『ホモ・サピエンスという種に見られる奇妙な習性』として記述するんだ。実名を出すのは三流の悪口。普遍的な法則として提示するのが、一流の風刺(サタイヤ)だよ」
「了解です、部長」
日下部君が、キーボードを叩きながら答えた。
彼は今、展示パネルの解説文を作成する「主任研究員」としての地位を確立していた。
その顔には、教室で見せるような怯えは微塵もない。水を得た魚のように、あるいは拷問器具の解説書を書く時のような、妖しい輝きを放っている。
「出来ました。『アルファ・オスのディスプレイ行動に関する考察』です」
彼がプリントアウトした原稿を読み上げる。
『群れの中で優位にあるオスは、しばしば大きな音を立てる(机を蹴る、大声で笑う)、物理的な空間を占有する(通路に足を投げ出す)といった行動を取る。これは自身の強さを誇示するための儀式だが、同時に「常に順位を確認しなければならない」という強い不安の表れでもある。彼らの精神的安定性は極めて低く、他者からの承認(イイネ!)が途絶えると、容易にパニック状態(不機嫌)に陥る』
「ぶはっ! 最高じゃん」
愛名先輩が吹き出した。彼女は模造紙にイラストを描いている最中だった。
「『承認が途絶えるとパニック』って、マジそれな。取り巻きが笑わないとすぐキレるし。メンヘラかよ」
「学術的には『ステータス不安症候群』と呼称しましょう」
「いいね日下部、キレッキレじゃん」
愛名先輩が描いているのは、教室の相関図だ。
ただし、生徒の顔はすべて「猿」のシルエットになっている。
ボス猿、腰巾着猿、見猿、言わ猿、聞か猿たち
彼女の絵のタッチはポップで可愛いが、そこに添えられたキャプションは辛辣だ。
『女子グループにおける同調圧力メカニズム:トイレに一緒に行かない個体は排除される』
『スクールカーストの地層学的分析:最下層の堆積物が上層部を支えている』
僕は、展示のメインとなる「檻」の製作を担当していた。
段ボールと銀のスプレーで作った鉄格子。
これを教室の入り口に設置し、観客(生徒たち)に「檻の中に入る」という体験をさせる仕掛けだ。
「ねえ、湊」
愛名先輩が、絵筆を止めて僕を見た。
「これ、バレたらマジで殺されない? 先生とか絶対怒るっしょ」
「怒るでしょうね。停学、最悪の場合は退学かもしれません」
僕は手を休めずに答えた。
恐怖がないわけではない。でも、それ以上に「やらなければならない」という使命感があった。
「でも、もしこれを止めたら、僕たちは一生『負け犬』のままです。檻の中で震えて、餌を待つだけの存在です。……一回くらい、噛みついてやらないと」
「……ふん。言うようになったね」
愛名先輩はニヤリと笑い、また筆を動かし始めた。
「ま、あたしも共犯者になってあげるよ。どうせ退屈な学校だし、最後に花火打ち上げるのも悪くない」
部室には、不思議な一体感があった。
かつてはバラバラだった「はぐれ猿」たちが、一つの目的に向かって知恵と技術を結集している。
それは、僕が夢見ていたボノボの群れの姿そのものだった。
互いを認め合い、協力し、強大な敵立ち向かう。
ただ、一人を除いて。
翌日の昼休み。
僕は教室を抜け出し、渡り廊下に向かった。
吉川ナオが、一人でパンを食べている場所だ。
豪徳寺の機嫌取りに疲れ、ほんの少しの間だけ群れから離れる時間。彼にとっての数少ない休息のひととき。
僕が近づくと、彼はすぐに気づいた。
露骨に顔をしかめ、食べかけのパンを袋に戻す。
「……また来たのかよ」
「うん。しつこくてごめん」
僕は彼の隣、少し距離を空けて手すりに寄りかかった。
ここ数日、僕は毎日彼に話しかけていた。
その度に拒絶され、無視され、時には罵倒された。
それでも、僕は通い続けた。
「今日はパンか。購買の焼きそばパン、相変わらず人気だね」
「……何の用だよ。俺は忙しいんだ」
「忙しいって、豪徳寺の機嫌取りで?」
「うるせえ!」
吉川が声を荒らげた。
「お前にな、俺の何がわかるんだよ! 『ボノボごっこ』で平和ボケしてるお前に!」
「平和ボケなんてしてないよ。僕たちは今、戦争の準備をしてるんだ」
僕はポケットから、一枚の紙を取り出した。
日下部君が書いた原稿のコピーだ。
『スケープゴート(生贄)の役割とその精神的摩耗について』と題された文章。
「読んでみてくれないか。……君のことが書いてある」
「はあ? ふざけんな」
吉川は紙を叩き落とした。
ひらひらと舞って、床に落ちる。
「俺を分析すんな! 見下すな! お前らはそうやって、安全な場所から俺たちを笑ってるだけだろ!」
彼の目には涙が滲んでいた。
怒りではない。悲しみだ。
彼は知っているのだ。自分が豪徳寺に利用されているだけの存在であることを。そして、そこから抜け出せない自分の弱さを。
それを「分析」されることは、傷口に塩を塗られるような激痛を伴う。
「笑ってないよ」
僕は落ちた紙を拾い上げた。
「笑ってるのは、豪徳寺たちだ。君をパシリにして、ピエロにして、それを『いじり』だと言って笑ってる。……君は、それでいいのか?」
「いいわけねえだろ!」
吉川が叫んだ。
「でも、どうしようもねえんだよ! 逆らったら終わるんだよ! お前みたいに、村八分にされて……」
「僕は終わってない」
僕は彼の目を真っ直ぐに見た。
「村八分にされたけど、死んでない。新しい居場所を作った。……君だって、来れるんだよ」
「無理だ」
吉川は首を振った。
「俺には、お前みたいな強さはない。お前は特別だったんだよ。俺とは違うんだ」
特別。
その言葉が、僕たちの間に引かれた境界線だった。
彼は僕を「あっち側の人間(強者)」に認定することで、自分を諦めさせているのだ。
違う。
僕だって弱かった。今でも弱い。
ただ、出会っただけだ。本と、先輩と、新しい視点に。
「吉川。この展示には、君が必要なんだ」
僕は紙を再び差し出した。
「僕たちは『外』から観察することはできる。でも、『中』で何が起きているかは、君にしか書けない。……その痛みを知っている君にしか」
吉川は紙を見つめた。
迷っている。
彼の内側で、従順な猿と、反逆を夢見る猿が戦っている。
「……行けよ」
やがて、彼は絞り出すように言った。
「俺に構うな。……豪徳寺に見られたら、俺までハブられる」
拒絶。
でも、それは以前のような敵意に満ちたものではなく、弱々しい懇願だった。
これ以上、僕の心を揺さぶらないでくれ、という悲鳴。
僕は引き下がった。
これ以上踏み込めば、彼の心が壊れてしまう。
グルーミングも、相手が受け入れる準備ができていなければ、ただのハラスメントだ。
「わかった。……でも、待ってるから」
僕は紙を、手すりの上に置いた。
風で飛ばないように、彼の飲みかけのペットボトルを重石にして。
「文化祭当日まで、僕たちはあそこにいる。……気が向いたら、来てくれ」
僕は背を向けた。
振り返らなかったが、背中に彼の視線を感じた。
紙を捨てる音はしなかった。
部室に戻ると、作業は佳境に入っていた。
藤堂先輩が、完成したパネルを並べて満足げに頷いている。
「どうだった?」
「……ダメでした。まだ、檻から出る勇気がないみたいです」
「そうか」
先輩は淡々としていた。
「まあ、想定内だ。変化を恐れるのは生物の本能だからね。特に、彼のように長く支配下に置かれた個体は、『学習性無力感』に陥っている」
「学習性無力感?」
「『何をしても無駄だ』と学習してしまい、逃げ道があっても逃げようとしない状態だ」
先輩は僕にカッターナイフを手渡した。
「でも、ショック療法という手もある。……文化祭当日、この展示を見れば、彼の世界も揺らぐはずだ。外から自分の姿(檻の中の猿)を見せつけられれば、嫌でも気づく」
僕はカッターを握りしめた。
そうだ。
言葉でダメなら、「現実(リアリティ)」を見せるしかない。
僕たちが作るこの空間が、彼にとっての鏡になるように。
「やりましょう、先輩。……世界をひっくり返す準備を」
段ボールを切る音が、部屋に響く。
ザクッ、ザクッ。
それは、僕たちが古い殻を切り裂き、新しい世界を切り開く音だった。
その日の夜、僕は家で父さんと夕食を食べた。
メニューはスーパーの惣菜だったが、父さんは「うまいな」と言って食べた。
会話は少ない。
でも、父さんはもう、僕の成績の話もしなければ、「勝て」とも言わなかった。
ただ、「文化祭、準備は進んでいるのか」とだけ聞いた。
僕は「うん、すごいことになるよ」と答えた。
父さんは、少しだけ寂しそうな、でも安堵したような顔で笑った。
準備は整いつつある。
役者は揃った。あとは幕が上がるのを待つだけだ。
『人間動物園』
その開園日は、もう目の前に迫っていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます