暴発

 階段を駆け上がる足音が、自分の心臓の鼓動と重なって聞こえた。

 前方を行く父さんの背中は、怒りというエネルギーで一回り大きく見え、まるで巨大な岩石が坂を転げ落ちていくような、止めることのできない破壊の予兆を帯びていた。

 焦げ臭い匂いが鼻孔を刺激する。

 それは階下のキッチンから漂う料理の失敗の匂いではない。もっと乾いた、インクと紙が炭化する独特の刺激臭だ。

 まさか。

 嘘だろ。


「父さん、やめてくれ!」


 僕は叫びながら、自分の部屋に飛び込んだ。

 そこは、もはや僕の部屋ではなかった。

 机の引き出しはすべて引き抜かれ、床にぶちまけられていた。参考書、プリント、文房具が散乱し、足の踏み場もない。

 そして、部屋の中央。

 父さんが立っていた。その足元には、ステンレス製のゴミ箱が置かれ、中で赤い炎が揺らめいていた。


「……これか」


 父さんの手には、一冊の大学ノートが握られていた。


 僕の『ボノボ観察日記』だ。


 藤堂先輩から教わった理論、日下部君や愛名先輩との会話、そしてクラスメイトや父さんの行動を生物学的に分析した記録。

 僕がこの数週間、必死に考え、悩み、そして希望を見出した思考の結晶。


「返せ! それは僕のだ!」


「黙れ」


 父さんは冷徹な声で言い放ち、ノートをパラパラとめくった。


「『対象A(父):アルファ・オスとしての威厳を保とうとしているが、外部ストレス(会社)によりコルチゾール値が高いと推測される。帰宅時のドアの閉め方で、その日の攻撃性を予測可能』……」


 父さんが読み上げる声が、屈辱で震えている。

 僕は凍りついた。

 それは、父さんを「観察対象」として突き放して見ることで、自分の心を守るための記述だった。だが、父さん本人にとっては、これ以上ない侮辱だっただろう。息子に「哀れな猿」として分析されていたのだから。


「お前は……俺を、こんな風に見ていたのか」


 父さんの目が、僕を射抜いた。

 そこには怒りだけでなく、剥き出しの傷口のような「痛み」があった。

 プライドを粉々にされた男の、底知れぬ憎悪。


「違う、それは……」


「俺は毎日、家族のために頭を下げて、靴をすり減らして働いている。それをお前は……安全な場所から、高みの見物で、猿扱いか!」


 父さんが吼えた。


 ビリッ!!


 ノートが引き裂かれた。

 乾いた音が、僕の神経を直接引きちぎったように響いた。

 父さんは破り取ったページを、無造作に足元のゴミ箱へ投げ入れた。

 炎が舐めるように紙を包み込み、一瞬で黒く変色させていく。僕の言葉が、文字が、灰になっていく。


「やめろぉぉぉッ!」


 僕は父さんに飛びかかった。

 恐怖なんて吹き飛んでいた。あれは僕の一部だ。僕の魂だ。

 だが、一八〇センチ近い大人の男に、高校生の僕が敵うはずもなかった。

 父さんは片手で僕を突き飛ばした。

 僕はもつれて倒れ、本棚に背中を強打した。


「がはっ……」


「まだあるな」


 父さんは床に落ちていた『ボノボ』の本を拾い上げた。

 図書館から借りた、大切な本。僕の世界を変えてくれた聖書。


「こんなくだらない本にかぶれるから、お前はおかしくなったんだ」


「焼くな! それは借り物なんだ! 僕のじゃない!」


「知ったことか!」


 父さんは本の表紙を両手で掴み、力任せに逆方向へ折り曲げた。

 ミシミシと背表紙が悲鳴を上げる。

 ハードカバーがひしゃげ、ページがパラパラと舞い落ちる。

 父さんはそれを、一枚ずつ毟(むし)り取るようにして火にくべた。

 ボノボたちの写真が燃えていく。

 抱き合う親子。キスをする恋人たち。平和な森の風景。

 それらがすべて、父さんの怒りの炎によって「無」へと還元されていく。


「弱い人間が、徒党を組んで傷を舐め合う。それを『愛』だの『平和』だのと美化するな。それはただの『敗北者の馴れ合い』だ!」


 父さんは叫びながら、燃え盛るゴミ箱を蹴り飛ばした。

 灰と火の粉が舞い上がり、カーペットに焦げ跡を作る。

 煙感知器がけたたましい警報音を鳴らし始めた。ジリリリリリ! という音が、地獄のファンファーレのように部屋中を満たす。

 母さんが駆け込んできた。


 「あなた! やめて! 火事になるわ!」


 母さんは泣き叫びながら、水差しを持ってきて火にかけた。

 ジュッという音と共に、白煙が立ち込める。

 僕は床に這いつくばったまま、水浸しになった黒い塊を見つめていた。

 終わった。

 何もかも。

 父さんは肩で息をしていた。

 ネクタイは曲がり、髪は乱れ、目は血走っている。その姿は、理性を失ったチンパンジーそのものだった。

 いや、ボノボが争いを避けるために「愛」を使うなら、チンパンジーは恐怖を隠すために「暴力」を使う。

 父さんは怖いのだ。

 会社での居場所を失い、家庭での権威も失い、息子にまで見下されているという事実に耐えられないのだ。


 その時、ふと藤堂先輩の言葉が蘇った。


 『相手がパニックになっている時は、敵意がないことを示せ』

 『ディスアーミング・スマイル。私は無害です、と伝えろ』


 僕は、最後の賭けに出た。


 ここで僕まで感情的になってはいけない。父さんを落ち着かせなければ。

 僕は震える足で立ち上がった。

 頬には涙が伝っていたが、必死に口角を持ち上げた。

 眉を上げ、目尻を下げる。

 

 ――大丈夫だよ、父さん。僕は父さんを馬鹿にしてないよ。父さんも辛いんだよね。

 そんな思いを込めて、僕は精一杯の「笑顔」を作った。


「……父さん。落ち着いて」


 僕は両手を広げ、ゆっくりと近づいた。


「話そう。僕たちは、家族だろ?」


 だが、その瞬間。

 父さんの表情が凍りついた。

 僕の笑顔を見た父さんの目が見開かれ、そこにとてつもない嫌悪感が走った。


「……貴様」


 父さんの声が震えた。


「親を、笑うのか」


 失敗した。

 僕の引きつった笑顔は、涙と煤で汚れた顔の上で、父さんには「嘲笑」にしか見えなかったのだ。

 「お前は哀れな猿だね」とあざ笑う、冷酷な観察者の顔に。


「ふざけるなぁッ!」


 父さんの右手が唸りを上げて飛んできた。

 バシンッ!

 乾いた破裂音。

 視界が白く明滅し、僕は床に叩きつけられた。

 左頬に熱い鉄を押し付けられたような激痛が走る。口の中が切れ、血の味が広がる。

 殴られた。

 今まで言葉の暴力はあっても、手を上げられたことはなかった。

 それが、最後の一線だった。

 父さんは自分の拳を握りしめ、呆然と僕を見ていた。手を出してしまった自分への動揺と、それでも収まらない怒りの狭間で揺れている。


「……出ていけ」


 父さんは絞り出すように言った。


「俺の目の前から消えろ。二度と、そのニヤついた面を見せるな」


 僕はゆっくりと起き上がった。

 もう、何も言えなかった。

 ここには、論理も、愛も、救いもない。あるのは、支配するかされるかの、不毛な権力闘争だけだ。

 僕は床に落ちていたリュックを掴んだ。

 中身を確認する余裕もない。

 そして、水浸しになった燃えカスの中から、一枚だけ焼け残ったページを拾い上げた。

 端が焦げた、ボノボの写真。

 それだけをポケットにねじ込んだ。


「……さよなら」


 僕は小さく呟き、部屋を出た。


 母さんが「湊、待って!」と叫んで追いかけてこようとしたが、父さんの「放っておけ!」という怒号がそれを止めた。


 階段を転げるように降り、玄関を飛び出す。

 ドアを閉めた瞬間、家の中の音が遮断された。

 夜の静寂。

 冷たいアスファルトの匂い。

 僕は走った。

 どこへ行くあてもない。財布には千円札が一枚入っているだけだ。

 それでも、あの家から一メートルでも遠くへ行きたくて、僕は夜の闇に向かって全力で走った。

 頬が痛い。心臓が痛い。

 でも、不思議と涙は止まっていた。

 

 終わったのだ。

 僕の「いい子」としての人生は。

 そして、僕の「ボノボになりたい」という甘い夢も。

 僕はただの、傷ついた一匹の獣として、コンクリートのジャングルへと放り出された。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る