第4章 父という名の「哀しい猿」

夜の彷徨

 夜気は、透明な刃物のように鋭かった。

 僕は住宅街の急な坂道を、転がるように駆け下りていた。足がもつれ、アスファルトを蹴るたびに膝に衝撃が走るが、痛みは感じなかった。脳内で分泌された過剰なアドレナリンが、身体の感覚を麻痺させているのだ。

 ただ、頬だけが熱かった。

 父に殴られた左頬。そこだけが、心臓とは別の生き物のようにドクドクと脈打ち、熱を帯びている。

 口の中に広がる鉄の味。切れた唇から滲む血を手の甲で拭うと、街灯の青白い光の下で、それが黒っぽいシミに見えた。

 信号機が赤に変わった交差点で、僕は足を止めた。


 呼吸が荒い。白い息が、夜の闇に吐き出されては消えていく。

 周囲を見渡す。

 見慣れたはずの街並みが、まるで異界の風景のように見えた。

 整然と並ぶ一戸建ての家々。手入れされた生垣。ガレージに収まる高級車。窓から漏れる暖色系の明かり。

 それらすべてが、今の僕を拒絶している「要塞」に見えた。

 あの光の一つ一つの中に、それぞれの「家族」があり、「団欒」があり、「秩序」がある。

 僕だけが、そのシステムから弾き出された異物(バグ)だった。


「……はは」


 乾いた笑いが漏れた。

 僕は今、完全な「はぐれ猿」だ。

 霊長類において、群れからの追放は死を意味する。単独では捕食者から身を守ることも、食料を確保することもできない。社会的な動物にとって、孤独とは緩やかな自殺なのだ。

 父さんは正しかったのかもしれない。

 力のない者は、こうして夜の闇に放り出され、震えるしかない。ボノボの理想など、温かい暖炉の前でしか語れない寝言だったのだ。

 青信号が点滅しているが、渡る気になれなかった。

 渡った先に、目的地がないからだ。

 友達? いない。吉川はもう敵だ。他のクラスメイトとは、上辺だけの付き合いしかない。

 漫画喫茶? ポケットを探る。財布には千円札が一枚と、数百円の小銭。生徒手帳もない。これでは会員登録すらできないし、できたとしても一夜を明かせば破産だ。

 警察? 補導されれば家に連絡がいく。あの家に戻れば、今度こそ僕は精神的に殺されるだろう。

 行き詰まり。

 思考がループする。

 寒さが、Tシャツ一枚の上に羽織った薄手のパーカーを突き抜けてくる。三月の夜風は、冬の名残を色濃く残していた。

 僕はあてもなく歩き出した。

 駅前の方へ向かう。明るい場所に行けば、少しは人心地つける気がしたからだ。

 コンビニエンスストアの看板が見えた。蛍光灯の白々しい光が、蛾を集めるように路面を照らしている。

 僕はガラス越しに中を覗いた。

 雑誌コーナーで立ち読みをするサラリーマン。カップラーメンを選ぶ大学生。レジで談笑する店員。


 彼らは「こちら側」の世界にはいない。ガラス一枚隔てた向こう側にある、安全で、空調の効いた、システムの内側にいる。

 自動ドアが開くたびに、「ピンポーン」という電子音が響き、温かい空気が流れ出てくる。

 その温もりが、逆に僕の惨めさを際立たせた。

 僕は中に入る勇気すらなく、コンビニの前を通り過ぎた。

 一時間ほど歩いた頃、僕は街外れの運動公園に辿り着いた。

 夜の公園は、昼間の健全な表情とは打って変わって、不気味な静寂に包まれていた。

 巨大な滑り台が、太古の生物の骨格のようにシルエットを浮かび上がらせている。砂場は黒い沼のように見え、ブランコは風に揺れてキーキーと軋む音を立てていた。

 僕はベンチを見つけ、そこに座り込んだ。

 木製のベンチは冷え切っていて、座った瞬間に尻から体温を奪っていく。

 リュックを抱きしめる。中身は何もない。父に荒らされた部屋から、咄嗟に掴んだ教科書が一冊入っているだけだ。

 

 寒い。


 歯の根が合わない。ガチガチと音がする。

 寒さは思考を鈍らせ、代わりにネガティブな感情を増幅させる黒い泥となる。


(父さんは今頃、どうしているだろう)


 怒り狂って酒を飲んでいるだろうか。それとも、母さんに当たり散らしているだろうか。

 あるいは……。

 ふと、殴られた瞬間の父さんの顔が蘇る。

 震える拳。見開かれた目。

 

『親を、笑うのか』


 あの時、父さんは何を見たのだろう。

 僕は精一杯の「武装解除の微笑み」を向けたつもりだった。敵意はありません、僕は無害です、と伝えるために。

 だが、それは父さんには「嘲笑」として映った。


 なぜだ?


 僕の演技が下手だったからか?

 いや、違う。


 父さん自身が、怯えていたからだ。

 「自分は笑われているかもしれない」という強迫観念に囚われている人間にとって、他者の笑顔はすべて「あざけり」に見えるのだ。

 父さんは、アルファ・オスとしての仮面の下で、常に怯えていた。

 会社での評価に。部下の視線に。そして、息子の成長に。


「……似た者同士だな」


 僕は膝に顔を埋めた。

 僕も怖かった。教室で無視されることが。誰からも必要とされないことが。

 だから「ボノボ」という仮面を被って、自分が上位に立ったような気になっていた。

 父さんも怖かったのだ。自分の築き上げた王国が崩れ去ることが。

 僕たちは二人とも、ただ怯えてキャンキャンと吠え合っていただけだ。

 同じ遺伝子を持った、哀しいチンパンジーとして。

 ポケットに手を入れると、カサリと音がした。

 焼け残ったページだ。

 取り出して、スマホのライトで照らす。

 端が黒く焦げた紙片。そこに写っているボノボの親子は、炎に焼かれてもなお、互いを抱きしめていた。

 

 涙が溢れた。

 熱い雫が、冷たい紙の上に落ちる。


「……なれないよ」


 嗚咽が夜の公園に吸い込まれていく。


「僕はボノボになんて、なれない。ただの、弱い、逃げ回るだけの猿だ」


 サンクチュアリは消えた。家も失った。

 世界はどこまでも残酷なチンパンジーの森だった。

 藤堂先輩、ごめんなさい。

 日下部君、ごめんなさい。

 僕は何も変えられなかった。自分自身さえも。

 その時。

 ポケットの中でスマートフォンが短く震えた。

 ビクリと肩が跳ねる。

 通知音ではない。着信のバイブレーションだ。

 

 父さんか? 母さんか?

 無視しようと思った。今さら何を言われても、帰る気はない。

 でも、もし警察に通報されていたら? GPSで居場所を探されているとしたら?

 恐怖が指を動かす。

 画面を見る。

 表示された名前に、僕は目を疑った。


 『藤堂先輩』

 なぜ?


 こんな時間に。もう深夜一時を回っている。

 先輩は、部室での一件で僕に愛想を尽かしたはずじゃなかったのか。「実験は失敗だ」と、僕を突き放したのではなかったか。

 切れる寸前、僕は震える指で通話ボタンをスライドさせた。


「……はい」


 声が掠れて、ほとんど息だけの音になった。

 電話の向こうには、数秒の沈黙があった。

 そして。


『……出た』


 聞き慣れた、少し低めのアルトボイス。

 でも、いつものような理知的な響きではなく、少しだけ息が上がっているような、切迫したトーンだった。


『生きてる? 湊君』


 その一言を聞いた瞬間、張り詰めていた緊張の糸が、音を立てて切れた。

 涙腺が決壊する。


「……生きてます、けど……」


 言葉にならない。嗚咽が漏れるのを必死に堪える。


「死にそうです……」


『だろうね』


 先輩の声が、いつもの冷静なトーンに戻った。カチャリ、と何かが触れ合う音が聞こえる。


『今の君の状況、推測してみようか。家出、所持金千円以下、行き場なし、公園のベンチで凍死寸前。……気温は摂氏8度。薄着なら低体温症のリスクがある』


 図星だった。

 なぜわかるんだ。


「……監視カメラでも、見てるんですか」


『いいや。ただの行動生態学的な予測だよ。追い詰められた若年個体が取る行動パターンは、大抵決まってる。巣から一番近い、身を隠せる緑地帯。つまり駅裏の運動公園だ』


 凄すぎる。

 この人は、本当に僕の行動パターンをすべて読み切っている。


『で、どうするの? このまま野生に帰る? それとも、別の巣を探す?』


「……わかりません。帰る場所なんて、もう」


『なら、うちに来なよ』


 さらりと言われた言葉の意味を理解するのに、凍えた脳みそでは数秒かかった。


「え?」


『親は海外出張中でいない。部屋は余ってる。温かい紅茶と、新しい毛布と、あと……君の話を聞く耳ならある』


 僕は空を見上げた。

 厚い雲の切れ間から、三日月が覗いている。冷たくて鋭い光。

 でも、耳元のスピーカーから聞こえる先輩の呼吸音だけが、唯一の温もりだった。


「で、でも……迷惑じゃ」


『迷惑かどうかは私が決める。君はただ、生き残るための選択をすればいい』


 先輩の声は、命令ではなかった。

 差し伸べられた手だった。

 泥沼でもがいている僕に垂らされた、一本の蜘蛛の糸。


『住所、送るから。……待ってるよ、ボノボ君』


 通話が切れた。

 すぐにメッセージアプリに地図が送られてきた。

 現在地から徒歩三十分。高級住宅街の一角だ。

 

 僕は立ち上がった。

 膝が笑っている。足の感覚がない。

 でも、歩かなければ。

 この暗い森の中に、たった一つだけ灯っている明かりを目指して。

 リュックを背負い直す。

 焦げたボノボの写真を、大切に胸ポケットにしまった。

 風が吹く。

 寒い。

 でも、僕の心臓は、まだ動いている。

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