家庭での告発

 夜の住宅街は、死んだように静まり返っていた。

 僕は自分の足音がアスファルトを叩く音を聞きながら、まるで処刑台へと続く階段を登る囚人のような足取りで家に向かっていた。

 ポケットの中で、母さんからの通知が来たスマートフォンが、鉛のような重さを放っている。

 

 『すぐ帰ってきなさい』


 その短い文字列が、僕の喉元に突きつけられたナイフのように感じられた。

 逃げたい。

 踵を返して、どこか知らない街へ行ってしまいたい。

 だが、所持金も、行く当てもない高校生に、そんな自由は許されていない。僕たちは親というスポンサーがいなければ、衣食住すらままならない無力な個体なのだ。

 家の前に着く。

 見上げると、リビングの窓から漏れる光が、妙に鋭く、寒々しく見えた。

 カーテンの隙間から見える影。父さんが動いている気配はない。じっと座って、獲物が罠にかかるのを待っている捕食者の気配だ。

 僕は震える指で鍵を開けた。

 ガチャリ、という金属音が、夜の静寂に不吉に響いた。

 ドアを開ける。

 

 その瞬間に感じたのは、匂いだった。

 いつもの出汁の香りや、洗剤の匂いではない。

 高濃度のアルコールの臭気。そして、焦げ臭いような、張り詰めた電気的なオゾンの匂い。

 これは「嵐」の匂いだ。


「……お帰りなさい」


 玄関ホールに、母さんが立っていた。

 その顔を見て、僕は息を呑んだ。

 目が赤く腫れている。化粧が崩れ、髪が乱れている。彼女は僕に駆け寄ると、すがるように僕の腕を掴み、声を潜めて言った。


「湊、お願い。口答えしないで」


「母さん……」


「お父さん、学校から電話をもらって……すごく、怒ってる。とにかく謝って。全部、間違いでしたって、頭を下げて」


 母さんの手は氷のように冷たかった。

 彼女は怯えている。夫の怒りが、息子だけでなく自分にも飛び火することを。あるいは、家庭という脆い箱舟が今夜沈没することを。


「……わかった」


 僕は短く頷き、靴を脱いだ。

 ローファーを揃える手が震える。

 深呼吸を一つ。

 鏡の前で練習した「笑顔」を作ろうとしたが、頬の筋肉が痙攣して動かなかった。

 今の僕には、ボノボの仮面を被る余力すら残っていない。

 リビングのドアを開ける。

 部屋の中央、革張りのソファに、父さんが座っていた。

 テーブルの上には、飲みかけのウイスキーのボトルと、氷の溶けきったグラス。そして、一枚の紙切れ。

 テレビはついていない。

 エアコンの風の音だけが、シュウシュウと鳴っている。

 父さんは、僕が入ってきても顔を上げなかった。

 グラスを見つめたまま、液体を揺らしている。その横顔は、能面のように無表情だったが、こめかみの血管が怒張し、今にも破裂しそうなマグマを内包していることを物語っていた。


「……ただいま」


 僕の声は、蚊の鳴くように細かった。

 父さんがゆっくりと顔を向けた。

 その目は充血し、濁っていた。正義という棍棒を手に入れた「裁判官」の目だ。


「座れ」


 低く、ドスの利いた声。

 僕は無言でダイニングの椅子に座った。距離にして三メートル。だが、そこには断崖絶壁のような断絶があった。


「今日、学校から電話があった」


 父さんは静かに切り出した。


「生活指導の担当だという教師からだ。……何と言われたか、わかるか?」


 僕は膝の上で拳を握りしめた。爪が食い込む痛みが、意識を保つ唯一の支えだった。


「……いえ、わかりません」


「『お宅の息子さんが、校内で怪しげな活動をしている』とな」


 父さんはテーブルの上の紙切れを指先で弾いた。


「意味不明な菓子を配り歩き、不気味な笑顔で他人に近づき、何かを勧誘しているようだ。他の生徒から『気味が悪い』『宗教ではないか』という苦情が殺到している。……そう言われたぞ」


 言葉のナイフが、正確に僕の心臓を刺す。

 事実は歪められ、悪意というフィルターを通して、最も醜悪な形で再構成されていた。


「俺は耳を疑ったよ。我が家の息子が、学校でカルトのような真似事をしているとはな」


 父さんはウイスキーを煽った。


「恥を知れ、湊。俺はお前を、そんな人間に育てた覚えはない」


「……違います」


 僕は絞り出すように言った。


「カルトなんかじゃありません。僕はただ、クラスの雰囲気を良くしたくて……」


「雰囲気を良くする?」


「はい。みんなギスギスしていて、いじめとかあって……だから、少しでも仲良くなれるように、お菓子をきっかけに話を……」


「それが『気味が悪い』と言われているんだ!」


 父さんが叫んだ。

 ドン! とテーブルが叩かれる。グラスが跳ねる。

 母さんが「ひっ」と悲鳴を上げて口を押さえる。


「いいか、湊。お前のやっていることはな、コミュニケーションじゃない。ただの『奇行』だ」


 父さんは立ち上がり、僕を見下ろした。


「お前は、現実から逃げているだけだ。成績が上がらない、部活でもパッとしない、スクールカーストでも下位にいる。その劣等感から目を逸らすために、『僕はみんなとは違う』『僕は平和主義者だ』などという妄想に浸って、自分を慰めているだけだ!」


 図星だった。

 反論したかった。ボノボの知恵はそんな浅はかなものじゃないと言いたかった。

 でも、父さんの言葉は、僕の心の最も弱い部分を抉っていた。

 僕の中にも、確かに「逃避」の側面があったからだ。


「そんな腑抜けたことをしている暇があったら、単語の一つでも覚えろ。誰かを追い抜く努力をしろ。それができないなら、お前はただの敗北者だ」


 敗北者。

 その言葉が、僕の中で何かを引き金を引いた。

 悔しさが、涙となって溢れ出す。


「……父さんこそ」


 僕は顔を上げた。

 涙で滲んだ視界の向こうで、父さんの顔が歪む。


「父さんこそ、逃げてるじゃないの?」


「あ?」


「『勝て』『奪え』って言うけど、それって、自分が負けるのが怖いからだろ? 会社で上手くいかないからって、そのイライラを僕にぶつけて……」


 言ってはいけないことだった。

 この家のタブー。アルファ・オスの弱点を指摘すること。

 父さんの顔色が、赤から土気色へと変わった。

 それは怒りを超えた、殺意に近い感情の色だった。


「……貴様」


 父さんがゆっくりと僕に近づいてくる。

 その手には、もはや理性というブレーキは握られていなかった。


「誰に向かって、口をきいている」


 父さんは僕の胸ぐらを掴み、強引に立たせた。

 酒臭い息。獣の臭い。

 僕は初めて、父さんという存在に「生物的な恐怖」を感じた。

 これは教育でも躾でもない。

 縄張りを荒らされたオス猿が、侵入者を排除しようとする本能的な攻撃だ。


「お前の部屋を見たぞ」


 父さんが耳元で囁いた。


「枕の下に、変な本を隠していたな。『ボノボ』? 猿の本か? それに、あのノート」


「え……」


「『観察日記』だと? クラスメイトを実験動物扱いして、何をを書き連ねていたんだ?」


 血の気が引いた。

 見られた。

 僕の聖域。僕の思考のすべて。

 あのノートには、藤堂先輩との会話や、ボノボ・メソッドの仮説、そして父さんに対する批判的な分析も書いてあった。


「あんなゴミ、この家に置いておくわけにはいかん」


 父さんは僕を突き放した。

 僕は椅子ごと後ろに倒れ込んだ。

 父さんはリビングを出て、階段へと向かった。


「待て! 父さん、何する気だ!」


 僕は慌てて起き上がり、父さんを追った。

 嫌な予感がした。

 焦げ臭い匂い。

 まさか。

 階段を駆け上がる父さんの背中は、冷酷な執行人のそれだった。

 僕は叫びながら、その後を追った。

 そこには、決定的な破局が待っていた。

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