コンクリートの要塞

 駅からの帰り道には、心臓破りの長い坂がある。

 開発されたばかりのニュータウンへと続くその道は、綺麗に舗装され、街路樹が等間隔に植えられ、どこを切り取っても絵になるような人工的な美しさを保っていた。

 父さんは、この街を気に入っていた。「成功者の住む街だ」と、入居した日に誇らしげに語っていたことを覚えている。区画整理された道路、防犯カメラの完備された治安、そして高い塀に囲まれた邸宅群。

 だが、雨に打たれながら坂を登る僕にとって、そこは巨大な墓標の並ぶ墓地のようにしか見えなかった。

 どの家も窓を閉ざし、厚いカーテンで内部を隠している。隣人がどんな顔をしているのかも知らない。ここでは「プライバシー」という名の壁が、人と人とのつながりを完全に遮断している。

 息を切らせて坂を登りきると、三丁目の角に我が家が見えてくる。

 モダンなデザインの二階建て。外壁は無機質なコンクリート打ちっ放しと、黒いタイルの組み合わせ。機能的で、堅牢で、そして冷徹な外観。

 僕は門の前で足を止めた。

 傘を叩く雨音が、鼓動とシンクロする。

 帰りたくない。

 鞄の中の『ボノボ』の本が、唯一の温かい重みとして背中に張り付いている。そしてその隣には、開封されていない模試の結果という冷たい爆弾が眠っている。

 深呼吸を一つ。

 肺の中の空気を入れ替える。外の「自由な空気」をすべて吐き出し、この家の規格に合わせた「従順な空気」を取り込むための儀式だ。

 僕は濡れた指で鍵を開け、重いドアノブを回した。


「……ただいま」


 声が玄関ホールに吸い込まれていく。

 返事はない。ただ、廊下の奥から漂ってくる出汁の匂いと、フローリング用ワックスの化学的な匂いが混ざり合った、独特の家庭臭が鼻を突く。

 靴を脱ぎ、揃える。ミリ単位のズレも許されない。父さんは玄関の乱れを「心の乱れ」と呼び、激しく嫌うからだ。


「あ、お帰りなさい。湊」


 リビングのドアが開き、母さんが顔を出した。

 上品なベージュのエプロン姿。髪は綺麗にまとめられているが、その表情には常に薄い膜のような緊張が張り付いている。

 彼女は僕を見ると、すぐに視線を僕の背後――玄関の扉の向こう側へと逸らした。

 父さんがまだ帰っていないことを確認し、安堵の色を一瞬だけ浮かべる。彼女にとって、父さんが不在の時間だけが、肺を広げて呼吸できる時間なのだ。


「濡れたでしょう。タオル、そこにあるわよ」


「うん。ありがとう」


「……あ、そういえば」


 母さんはキッチンへ戻りかけ、背中を向けたまま言った。その声のトーンが、半音下がる。


「今日、模試の結果、返ってくる日じゃなかった?」


 心臓がドクリと跳ねる。

 母さんに悪気はない。彼女もまた、父さんという「管理者」から業務報告を求められている中間管理職のような立場なのだ。「息子の成績管理は母親の責任だ」と、父さんは常々口にしている。僕の成績が下がれば、それは母さんの教育の手抜かりとして断罪される。


「……持ってるよ」


「そう。……どうだった?」


「まだ見てない。でも、数学がちょっと」


 僕が言葉を濁すと、母さんの背中が小さく強張った。

 彼女は振り返らなかった。ただ、野菜を切る包丁のリズムが少しだけ乱れたように聞こえた。


「お父さんが帰ってきたら、ちゃんと見せなさいね。隠すと、余計に怒られるから。……機嫌を損ねないようにね」


 機嫌を損ねないように。

 それがこの家の家訓であり、憲法であり、唯一の生存戦略だった。

 僕は「わかってる」と短く答え、二階の自室へと逃げ込んだ。

 部屋に入り、ドアを閉め、鍵をかける。

 カチャリという金属音だけが、僕の精神安定剤だった。

 部屋は完璧に整頓されている。机の上には参考書が整列し、壁には志望大学の偏差値一覧表が貼られている。漫画やゲームといった「ノイズ」は一切ない。それらは中学に入った時、父さんの命令ですべて処分された。

 僕はベッドに倒れ込み、鞄から『ボノボ』の本を取り出した。

 枕の下に隠す。

 ここが一番安全な場所だ。父さんは僕の部屋に入る時、ノックもせずにドアを開けるが、さすがに枕の下までは検閲しないはずだ。

 その上に頭を乗せると、少しだけ森の匂いがしたような気がした。

 午後七時半。

 その時はやってきた。

 玄関で、重厚な解錠音が響き渡った。

 ガチャリ、ガチャリ。二つの鍵が開けられる音。

 家の中の空気が一変する。気圧が急激に下がり、見えない重力がのしかかる。リビングのテレビの音が消された。母さんが玄関へ走る足音が聞こえる。

 王の帰還だ。

 僕も部屋を出て、階段を降りる。

 玄関には、濡れたレインコートを着た父さんが立っていた。

 相馬巌(いわお)。

 大手総合商社の部長職にある男。一八〇センチ近い長身、白髪交じりのオールバック、鋭い眼光。

 雨に濡れた肩を払いながら、彼は母さんが差し出すタオルを受け取ることもなく、不機嫌そうに眉間に皺を寄せていた。


「お帰りなさい、あなた」


「……ああ」


 父さんは短く唸るように答え、革靴を脱いだ。

 その動作一つ一つに、威圧感がある。

 彼は僕の方を一瞥もしなかった。息子の存在など、玄関の置物と同程度にしか認識していないかのようだ。

 父さんはそのままリビングに入り、ソファに深く身体を沈めた。


「ビール」


「はい、すぐに」


 母さんが小走りで冷蔵庫へ向かう。

 父さんはネクタイを緩め、スマートフォンを取り出した。画面をスクロールする指の動きが速い。日経平均、為替、社内メール。彼は家に戻ってもなお、戦場にいる。

 僕はリビングの入り口で立ち尽くしていた。座っていいのか、部屋に戻るべきか、指示を待つ兵士のように。


「湊」


 画面から目を離さず、父さんが言った。

 低く、よく通る声。


「風呂は済ませたか」


「あ、いや、まだ……」


「なら先に飯だ。座れ」


 拒否権はない。

 僕は無言でダイニングテーブルの自分の席に着いた。

 母さんがビールと、小鉢に入った前菜を運んでくる。

 父さんが缶を開ける。プシュッという音が、静寂を切り裂く。

 これが、毎晩繰り返される「晩餐会」という名の審問会議の始まりだった。

 食卓には、ブリの照り焼き、筑前煮、ほうれん草のお浸しが並んでいる。どれも父さんの好物であり、健康に配慮された完璧な和食だ。

 だが、僕にはそれらが食品サンプルのように無機質な物体に見えた。

 いただきます、と小さく唱え、箸をつける。

 味がない。

 緊張で味蕾が麻痺しているのだ。咀嚼音が響かないように、慎重に噛む。

 父さんは無言でビールを飲み、前菜をつまんでいる。その沈黙が怖い。彼は今、今日一日の仕事の総括をしているのか、それとも次に誰を攻撃するか考えているのか。

 カチャン。

 父さんが箸置きに箸を置いた。

 硬質な音が、テーブルのガラス天板に反響した。

 それが合図だった。

 僕と母さんは、反射的に背筋を伸ばし、箸を止める。母さんの視線が泳ぐ。


「聞いたぞ」


 父さんがゆっくりと口を開いた。

 その視線は、まだ僕を見ていない。ビールの泡を見つめている。


「模試の結果が出たそうだな」


 胃袋が雑巾のように絞られる感覚。

 母さんの方を見るまでもない。彼女が報告したのだ。それは裏切りではない。彼女が身を守るための業務遂行だ。


「……はい」


「出せ」


 短く、絶対的な命令。

 僕は足元に置いていた鞄から、茶封筒を取り出した。

 手が微かに震える。封筒を渡すと、父さんはそれをひったくるように受け取り、無造作に封を破った。

 ビリビリという音が、神経を逆撫でする。

 中の紙が引き抜かれる。

 父さんの視線が、数字の列を上から下へと走査する。まるで不良品検品を行う工場のスキャナーのように。

 沈黙。

 五秒。十秒。

 エアコンの風の音だけが聞こえる。

 やがて、父さんは鼻で笑った。

 フッ、という冷たい呼気。それは怒りよりも屈辱的な、侮蔑の色を含んでいた。


「数学、偏差値58か」


 父さんは成績表をテーブルの上に放り投げた。紙が宙を舞い、ブリの皿の横に軟着陸する。

 その数字は、決して悪いものではないはずだ。平均よりは上だ。

 だが、この家において「平均より少し上」は「敗北」と同義語だった。


「前回より3ポイント落ちている。……理由は?」


 父さんの目が、初めて僕を捉えた。

 射るような視線。獲物の急所を探す猛禽類の目。


「……計算ミス、です。最後の大問で、時間が足りなくて焦ってしまって」


「時間が足りないというのは」


 父さんが僕の言葉を遮った。


「能力が足りないということだ。処理速度が遅いということだ。それを『焦り』という感情的な言葉で誤魔化すな。それは無能者の言い訳だ」


 言葉のナイフが、正確に僕の自尊心を切り刻む。

 反論は許されない。

 「でも」「だって」という接続詞は、この家では禁句だ。


「いいか、湊。お前、自分が何のために勉強していると思っている?」


 父さんはビールの缶を握り潰すように持ち、身を乗り出した。


「いい大学に入って、いい会社に入るためか? 違うぞ。それは手段に過ぎない」


 父さんの声に熱がこもる。

 これは教育ではない。父さん自身の強迫観念の吐露だ。


「勝つためだ。他人に支配されず、他人を支配する側に回るためだ。この社会の構造はシンプルだ。食うか、食われるか。上に行くか、泥水をすするか。中間の『ほどほど』なんて場所は、もう日本には存在しない」


 Social Darwinism(社会進化論)


 適者生存。弱肉強食。

 父さんの哲学は、さっき図書室で読んだ『チンパンジーの社会』そのものだった。

 力のあるオスが富とメスを独占し、弱いオスは虐げられる。その構造を微塵も疑わず、むしろ積極的に肯定し、その頂点を目指すことこそが人生の目的だと信じている。


「お前のその点数はなんだ。クラスで何位だ? 15位? そんな中途半端な順位で、誰が守ってくれる? 誰も守らんぞ。俺がいなくなれば、お前はただの肉塊だ」


 父さんの顔が歪む。

 そこにあるのは、息子への愛情なのだろうか。それとも、自分の遺伝子が劣っていると証明されることへの恐怖なのだろうか。

 僕は俯き、膝の上で拳を握りしめた。


(違う)


 心の中で叫ぶ。


(生きるって、誰かを蹴落とすことだけじゃないはずだ)


 枕の下にある本のことを思う。

 ボノボたちは、争わない。彼らは分け合い、触れ合い、許し合うことで生き延びてきた。

 もし父さんの言う「強さ」だけが正解なら、なぜボノボは絶滅していないんだ?

 でも、口には出せない。

 ここでは父さんが法律であり、正義だ。

 僕は無力な子供で、養われている身分で、反論する資格なんてない。


「……次は、頑張ります」


「頑張るんじゃない。結果を出せ。プロセスなんて誰も評価しない。数字だけが真実だ」


 父さんは興味を失ったように、再び箸を取った。

 説教は終わったらしい。

 母さんが、安堵のため息をつくのが聞こえた。

 僕は再び冷めたブリを口に運んだ。砂を噛んでいるようだった。

 この時、僕はまだ耐えていた。

 理不尽な支配も、人格の否定も、それが「当たり前」だと自分に言い聞かせていた。

 だが、地殻変動は静かに始まっていた。

 マグマは溜まりつつあった。

 そして、その爆発の日は、明日、最悪のタイミングで訪れることになる。

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