第2章 ボノボ・アンダーグラウンド

水槽の哲学者

 自室のドアに鍵をかけ、さらに勉強机の重たい椅子を引きずってドアノブの下に噛ませる。

 それが、僕の毎晩の儀式だった。

 父さんが部屋に入ってくることは滅多にない。それでも、物理的なバリケードを築かなければ、あのリビングで浴びせられた言葉の毒素が、ドアの隙間から浸透してくるような気がして眠れないのだ。

 僕は制服を脱ぎ捨て、ベッドに潜り込んだ。

 枕の下から、図書室で借りてきた『ボノボ』の本を取り出す。

 スマートフォンのライトをつける。青白い光が、闇の中に小さな円形の劇場を作り出す。

 そこは僕だけの聖域だった。

 ページをめくる。

 紙の擦れる音が、乾いた心に心地よく響く。

 僕は、まるで砂漠で水を求める遭難者のように、そこに記された言葉を貪り読んだ。


『ボノボの社会では、メスが群れをリードする。彼女たちは血縁関係のないメス同士でも協力し合い、オスによる暴力的な支配を許さない。もし一匹のオスがメスに暴力を振るおうとすれば、他のメスたちが一斉に結託してそのオスを追い払う』


 僕はその一節を何度も読み返した。

 オスによる支配を許さない。

 暴力に対して、連帯で対抗する。

 それは、僕の家で起きていることとは正反対の光景だった。我が家では、アルファ・オスである父が絶対的な権力を握り、母はただ縮こまって従うしかない。誰も助けてくれない。誰も結託してくれない。

 さらに読み進める。

 そこには、ボノボたちのコミュニケーション方法について、より詳細な記述があった。


『彼らは緊張緩和のために、あらゆる組み合わせで性的な接触(スキンシップ)を行う。それは人間の倫理観からすれば「乱交」と見なされるかもしれない。しかし、彼らにとってそれは挨拶であり、和解の握手であり、貨幣のようなものだ。彼らは愛を交換することで、平和を購入しているのだ』


 愛を交換して、平和を買う。

 なんて美しい経済学だろう。

 僕たちの社会――人間という名のチンパンジー社会――では、人々は「恐怖」や「金」や「マウント」を交換して、偽りの秩序を買っている。

 父さんは、僕に「高偏差値」という貨幣を稼ぐことを求めている。それがあれば、将来「高収入」という武器が手に入り、他人を支配できるからだ。

 でも、ボノボたちはそんなものを必要としない。

 ただ隣に座り、互いの毛づくろいをし、肌を触れ合わせるだけで、彼らは満たされている。


「……いいなあ」


 暗闇の中で、本音が漏れた。

 僕も、そっちに行きたい。

 競争も、評価も、支配もない世界。

 誰かを蹴落とさなくても、ただ「そこにいる」だけで許される世界。

 僕は本の写真に指を這わせた。

 森の奥で抱き合う二匹の猿。彼らの表情は、穏やかで、慈愛に満ちている。

 父さんのあの、常に何かに怯え、苛立っている顔とは大違いだ。

 どちらが「進化した」生き物なのだろう。

 複雑な言語を操り、核兵器を作り、インターネットで他人を誹謗中傷する人間と。

 言葉を持たず、ただ愛し合うことで争いを回避するボノボと。

 その夜、僕は本を胸に抱いたまま眠りに落ちた。

 夢を見た。

 深い森の中にいる夢だった。湿った土の匂い。木漏れ日。僕は木の上に座っていて、隣には誰かがいた。顔は見えないけれど、とても温かい誰かが、僕の背中を優しく撫でてくれていた。

 


 翌日の朝。

 目覚めると同時に、憂鬱という名の重力がのしかかってくる。

 夢の森は消え、無機質な白い天井が現れる。

 学校に行かなければならない。

 リビングに降りると、父さんはもう出勤した後だった。

 母さんが一人で、食器を洗っていた。その背中は小さく、何かを恐れるように強張っていた。

 昨夜の父さんの不機嫌は、今朝も続いていたのだろうか。それとも、もっと悪化していたのだろうか。

 僕は何も聞かなかった。聞けば、その毒気が僕にも伝染する気がしたからだ。

 無言でトーストを口に押し込み、逃げるように家を出た。

 学校に着くと、教室はいつもの喧騒に包まれていた。

 だが、昨日の僕とは何かが違っていた。

 『ボノボ』の本を読んだことで、僕の視界に新しいフィルターがかかっていたのだ。

 豪徳寺が、教室の後ろで誰かの鞄を蹴って笑っている。

 昨日までの僕なら、ただ恐怖して目を逸らしていただろう。

 でも今の僕には、それが「ディスプレイ行動」に見えた。

 自分の身体を大きく見せ、大きな音を立てることで、群れの中での順位を誇示するチンパンジーの習性。

 

(……なんだ、ただの威嚇か)


 恐怖が消えたわけではない。だが、対象を「分析」することで、その得体の知れない恐ろしさが少しだけ薄まった気がした。

 彼も必死なのだ。自分がアルファ・オスであることを常に証明し続けないと、誰かにその座を奪われるかもしれないという不安に駆られているのだ。

 そう思うと、豪徳寺の振る舞いが、どこか滑稽で、哀れなものに見えてきた。

 人間としての知性をかなぐり捨てて、猿としての本能全開で暴れている高校生。

 

 しかし、その「分析」は、同時に僕の孤独を深めることにもなった。

 周りの生徒たちは、豪徳寺の顔色を窺い、同調して笑っている。彼らもまた、このシステムに過剰適応した個体たちだ。

 僕だけが、違うルールで生きようとしている。

 それは、この群れの中では「異端」であり、最も排除されやすい存在であることを意味していた。

 息苦しさは変わらない。

 むしろ、正体を知ってしまった分、その醜悪さが鼻につく。

 放課後のチャイムが鳴ると同時に、僕は席を立った。

 図書室へ行こうと思った。あの本を返して、また別の本を借りよう。もっとボノボのことを知りたい。もっと、彼らの生き方を学びたい。

 廊下に出た時、ふと、校舎の案内図が目に入った。

 北校舎の三階、図書室のさらに奥。

 突き当たりにある部屋。


 『生物科準備室』


 そして、その横に小さく書かれた『生物学研究部』の文字。


 足が止まった。


 生物部。


 どんな活動をしているのか知らない。文化部の中でも存在感が薄く、部員がいるのかどうかも怪しい幽霊部員ばかりのクラブだという噂を聞いたことがある。

 でも、なぜか気になった。

 ボノボの本があったのは、生物の棚だった。もしかしたら、あそこには、この学校の「生態系」から外れた何かが存在するんじゃないか。

 僕は図書室を通り過ぎ、薄暗い廊下を奥へと進んだ。

 人気がない。

 床のワックスが剥げかけ、埃が舞っている。

 突き当たりのドアの前で立ち止まる。

 古びた木製のドア。プレートには手書きで『生物』と書かれた紙が貼られている。

 耳を澄ます。

 物音はしない。

 意を決して、ノックをした。


「……どうぞ」


 中から聞こえたのは、落ち着いた、低い女性の声だった。

 教師だろうか。

 僕は緊張しながらドアノブを回した。

 3

 ドアを開けた瞬間、むせ返るような「匂い」が鼻を突いた。

 それは教室の汗臭さや、廊下の埃っぽさとは全く違う。

 土の匂い。湿った水草の匂い。消毒用エタノールの鋭い刺激臭。そして、どこか甘い、発酵したような有機的な香り。

 それはまるで、森の入り口のようだった。

 部屋の中は薄暗かった。

 遮光カーテンが半分閉められ、西日が細い帯となって埃の中を斜めに横切っている。

 壁際にはガラス瓶に入った標本がずらりと並び、ホルマリン漬けのカエルやネズミが白濁した液の中で眠っている。

 そして、部屋の中央にある実験台の向こう、窓際に置かれた巨大な水槽の前に、一人の人影があった。

 女子生徒だった。

 白衣を着ている。だが、そのサイズは明らかに合っておらず、袖が長く余っている。

 長い黒髪を無造作にヘアゴムで束ね、顔の半分を覆うような分厚い黒縁眼鏡をかけている。

 彼女は丸椅子に座り、顕微鏡を覗き込んでいた。


「……新入部員?」


 彼女は顔を上げず、レンズを覗いたまま言った。


「それとも、道に迷った迷子? ここは生徒指導室じゃないよ」


 声のトーンは平坦で、感情の色が読み取れない。拒絶しているわけではないが、歓迎もしていない。ただ、そこにいる物体を確認しているだけのような響き。


「あ、ええと……すみません。部活、やってるのかなと思って」


「見ての通り」


 彼女はようやく顔を上げた。

 眼鏡の奥の瞳が、僕を捉えた。

 理知的で、冷ややかで、それでいてどこか眠たげな瞳。

 彼女は椅子をくるりと回してこちらに向き直ると、じっと僕の顔を観察し始めた。

 まるで、新種の昆虫を値踏みするような視線だ。


「ふうん」


 彼女は小さく鼻を鳴らした。


「君、死にそうな顔してるね」


 それが、彼女からの第一声だった。

 あまりに直球すぎる指摘に、僕は言葉を失った。

 怒りよりも先に、驚きが勝った。初対面の相手に、こんなことを言う人間がいるのか。


「……そうですか」


「うん。野生なら、捕食者に真っ先に狙われるタイプだ。群れから逸れて、弱って、怯えている草食獣の顔」


 彼女は立ち上がった。背は意外と高い。白衣の裾が翻る。


「まあ、いいや。入るならドア閉めて。温度が変わるから」


 僕は慌ててドアを閉めた。

 カチャリ、という音がして、世界が遮断された。

 廊下の喧騒が消える。聞こえるのは、水槽のエアポンプが奏でるコポコポという低い音だけ。

 彼女は実験台の上の電気ケトルにスイッチを入れた。


「紅茶、飲む? アールグレイしかないけど」


「あ、いただきます」


「私は藤堂(とうどう)。藤堂怜(れい)。一応、ここの部長」


 藤堂先輩。三年生だ。

 名前は聞いたことがあった。「理系の天才」とか「変人」とか、いろいろな噂が飛び交っている人物だ。

 彼女はビーカーのような耐熱ガラスのカップにティーバッグを放り込み、雑にお湯を注いだ。

 湯気とともに、ベルガモットの華やかな香りが漂う。その香りが、不思議とこの部屋の土っぽい匂いと調和していた。


「これ、なんですか?」


 僕は彼女が見ていた水槽を指差した。

 中には、色鮮やかな熱帯魚が数匹泳いでいる。


「シクリッド。アフリカの湖に住む魚だよ」


 先輩はカップを僕に手渡しながら言った。


「綺麗でしょう。でもね、こいつら性格最悪なんだ」


「最悪?」


「縄張り意識が強くて、攻撃性が高い。狭い水槽に入れると、弱い個体を徹底的にいじめて、殺してしまうこともある」


 僕は水槽を凝視した。

 確かに、一匹の魚が岩陰に隠れるようにじっとしている。他の魚が近づくと、身体を震わせて逃げようとする。鰭が少しボロボロになっている。


「……今の僕と同じですね」


 無意識に呟いていた。

 ハッとして口を押さえるが、もう遅い。

 先輩が僕を見た。眼鏡の奥の瞳が、スッと細められた。


「君の水槽も、狭いのかい?」


 その問いかけは、あまりに核心を突いていた。

 僕はカップの中の揺れる水面を見つめた。

 狭い。あまりにも狭い。

 教室という四角い箱。家というコンクリートの箱。

 逃げ場のない閉鎖空間で、強い個体が弱い個体を追い詰め、精神を削り取っていく。


「……はい。息が詰まりそうです」


「そうか」


 先輩は否定も肯定もしなかった。

 ただ、白衣のポケットから何かを取り出し、ポンと放り投げてきた。

 僕は反射的にそれを受け取った。

 黄色い包み紙の、レモン味の飴玉だった。


「糖分は脳の栄養だ。思考停止する前に舐めなよ」


 僕は飴の包みを開け、口に放り込んだ。

 酸味と甘みが広がる。

 強張っていた頬の筋肉が、少しだけ緩むのを感じた。


「ねえ、君」


 先輩は自分の紅茶を一口啜り、実験台に腰掛けた。足がぶらぶらと揺れている。


「その本、面白い?」


 彼女の視線は、僕が鞄から出しっぱなしにしていた『ボノボ』の本に向けられていた。

 僕は驚いて本を隠そうとしたが、彼女はニヤリと笑った。


「隠さなくていいよ。それ、私が図書室にリクエストして入れた本だから」


 え?

 この人が?


「ボノボ。パン・パニスカス。愛と平和のヒッピー猿。……まさか、この学校でそれを読んでる変わり者がいるとはね」


 彼女は面白そうに目を輝かせた。

 それは獲物を見つけた捕食者の目ではなく、同じ周波数の信号を受信した仲間の目だった。


「君、名前は?」


「……相馬です。相馬湊」


「オッケー、湊君。ようこそ、生物準備室へ。ここは学校というジャングルの中に隠された、唯一の安全地帯(サンクチュアリ)だ」


 彼女の言葉が、僕の胸に深く突き刺さった。

 サンクチュアリ。

 僕がずっと探していた場所。

 アールグレイの香りと、水槽の音と、変な先輩。

 ここなら、僕は「人間」のふりをしなくていいのかもしれない。

 ここなら、僕は「ボノボになりたい」という馬鹿げた夢を、笑われずに話せるのかもしれない。

 まだ、外は雨が降っていた。

 でも、この部屋の中だけは、静かで温かい空気が流れていた。

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