失われた環
五時間目の古文と六時間目の英語は、まるで水中にいるような鈍い感覚の中で過ぎ去った。
窓の外では雨脚が強まり、コンクリートの校舎を絶え間なく打ちつけている。その単調なリズムだけが、僕の意識を辛うじて現実に繋ぎ止めていた。
教師の声は遠く、チョークが黒板を叩く音は、モールス信号のように意味不明な記号の羅列として耳を素通りしていく。
放課後を告げるチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が一気に弛緩した。
部活動へ向かう生徒たちの足音、帰宅を急ぐ者たちの笑い声。それらが混じり合い、喧騒となって廊下へ溢れ出す。
僕は一番最後に席を立った。
誰とも目を合わせたくなかったし、誰にも「さようなら」を言いたくなかった。透明人間のように気配を消し、教室の裏口から滑り出る。
真っ直ぐ家に帰る気にはなれなかった。
鞄の中には、開封されていない模試の結果が入っている。この雨の中、あの灰色の家に帰り、父の帰宅を待つ時間を想像するだけで、胃の底に鉛が沈殿していくような重さを感じた。
僕は逃げるように、北校舎の三階にある図書室へと足を向けた。
放課後の図書室は、この騒がしい学校の中で唯一、時間の流れが停滞している場所だ。
重い引き戸を開けると、そこには特有の匂いが充満していた。
古びた紙の匂い、埃の匂い、そして湿った制服から立ち上る微かな羊毛の匂い。
静寂。
ここにはマウンティングも、同調圧力もない。あるのは、沈黙という名の穏やかな規律だけだ。
僕はカウンターの図書委員に軽く会釈をし、一番奥にある自然科学の書架へと向かった。
ここが僕の避難場所(シェルター)だった。
棚と棚の間の狭い通路に身を沈めると、両脇を知識の壁に守られているような安心感を覚える。
窓ガラスを叩く雨音が、ここでは遠い世界の出来事のように響く。
僕は適当に背表紙を目で追った。
『利己的な遺伝子』『沈黙の春』『ソロモンの指輪』……。
生物学の本を読むのは好きだった。人間社会のドロドロとした感情や関係性も、生物学的なフィルターを通して「生存戦略」や「本能」という言葉に置き換えれば、客観的な現象として処理できる気がしたからだ。
自分がいじめられているのではなく、「個体間の順位付け行動」を受けているのだと思えば、惨めさは数パーセントだけ軽減される。
その時だった。
書架の下段、少し奥まった場所に、一冊の背表紙が目に留まった。
誰かが戻す場所を間違えたのか、あるいは意図的に隠されたのか、その本は分類番号とは違う場所にひっそりと挟まっていた。
『ボノボ――愛と平和の類人猿』
ボノボ?
聞き覚えのあるような、ないような名前だ。
チンパンジーやゴリラ、オランウータンといったメジャーな類人猿に比べれば、その名はあまりにマイナーで、どこか間抜けた響きを持っていた。
なんとなく気になって、僕はその本を抜き出した。
ハードカバーの少し重たい本だ。表紙には、黒い毛並みの類人猿が二匹、森の中で身を寄せ合っている写真が使われている。
その瞳は、驚くほど人間に似ていた。いや、人間よりもずっと深く、憂いを帯びた知性を宿しているように見えた。
僕は床に座り込み、ページをめくった。
プロローグの文章が、僕の網膜に飛び込んでくる。
『かつて、ボノボはピグミーチンパンジーと呼ばれ、チンパンジーの一種だと考えられていた。しかし、彼らは全く異なる性質を持つ、独立した種であることが判明した』
僕は文字を追う速度を上げた。
『チンパンジーとボノボは、ともにヒトに最も近縁な類人猿であり、遺伝子の98.7%を共有している。しかし、わずか1.3%の違いが、彼らの社会を正反対のものにしている』
正反対?
僕は次のページをめくり、そこに書かれた記述に息を呑んだ。
『チンパンジーの社会は、オス優位の父系社会である。彼らは暴力的で、政治的だ。激しい順位争いを行い、権力を得るためには殺しも厭わない。隣接する群れとは戦争を行い、子殺しさえも確認されている』
脳裏に、豪徳寺の顔が浮かんだ。
机を蹴り、吉川を嘲笑い、恐怖によって教室を支配する彼の姿。
そして、父の顔。
食卓で箸を置き、僕の成績を冷徹に断罪する父。「蹴落とせ」「奪え」と説く父。
彼らはまさに、この記述通りの生き物だった。
人間社会のOSは、チンパンジー仕様で作られているのだ。
じゃあ、ボノボは?
僕は震える指でページを繰った。
そこに現れたのは、僕の常識を根底から覆す写真の数々だった。
争っている写真は一枚もない。
代わりに写っていたのは、抱き合う猿たちだった。
オスとメス、メス同士、あるいはオス同士。彼らは互いに向かい合い、濃厚な口づけを交わし、性器をこすり合わせ、身体を絡ませている。
キャプションにはこうあった。
『Make Love, Not War(戦争せずに、愛し合おう)』
『ボノボは、地球上で最も平和的な霊長類である。彼らの社会はメスが中心であり、権力による支配構造は緩やかだ。彼らは集団内で緊張が高まったり、食物をめぐって争いが起きそうになったりすると、暴力ではなく、擬似的な性行動(スキンシップ)を行うことでストレスを解消し、和解する』
戦わない。
勝とうとしない。
相手を威嚇する代わりに、相手に触れ、快感を共有し、敵意を溶かしてしまう。
そこには、絶対的なボス猿はいない。恐怖による支配もない。
あるのは、過剰なまでの「共感」と、寛容な「愛」によるつながりだけだ。
「……嘘だろ」
静まり返った図書室で、思わず声が漏れた。
そんな生き物が、現実に存在するのか。
同じ遺伝子をほとんど共有しているのに、なぜチンパンジーはあんなに残酷で、ボノボはこんなにも優しいんだ?
僕は本を膝の上に置き、天井を見上げた。
古い蛍光灯がジジジと音を立てている。
僕はずっと、自分が「欠陥品」だと思っていた。
チンパンジーの森で、うまく牙を剥くこともできず、大きな声で叫ぶこともできない、弱くて劣った個体だと。父さんの言う通り、淘汰されるべき敗者なのだと。
でも。
もしも、僕の気質が「劣ったチンパンジー」なのではなく、「正常なボノボ」に近いものだとしたら?
僕が感じているこの耐え難い違和感は、僕の能力が低いからではなく、そもそも所属する「種」を間違えているからだとしたら?
胸の奥が熱くなった。
それは希望と呼ぶにはあまりに頼りなく、妄想と呼ぶにはあまりに切実な、魂の震えだった。
(僕は、こっちだ)
確信があった。
僕はあの騒がしい教室よりも、殺伐とした食卓よりも、この写真の中の、湿った森の奥深くで身を寄せ合う彼らの中にこそ、自分の居場所を感じていた。
僕は再び本に視線を落とした。
写真の中のボノボが、僕を見つめ返している。その瞳は、まるでこう語りかけているようだった。
『君は間違っていないよ。ただ、場所が悪いだけだ』と。
その時。
「閉館時間だよー」
図書委員の気だるげな声が、静寂を破った。
現実に引き戻される。
窓の外はもう暗い。雨はまだ降り続いている。
帰らなければならない。
ボノボの楽園から、あの冷酷なチンパンジーの支配するコンクリートの家へ。
僕は立ち上がり、本を胸に抱いた。
この本を借りて帰ろう。
これはただの本ではない。僕がこの世界で正気を保つための、唯一の「聖書」になるかもしれない。
カウンターで貸出手続きをする間も、僕は表紙のボノボを指でなぞり続けていた。
鞄の中の模試の結果よりも、この一冊の方が、今の僕には遥かに重く、価値のあるものに感じられた。
自動ドアを出ると、湿った夜気が顔に張り付いた。
僕は傘を開き、暗闇の中へと歩き出した。
足取りは重いが、心の中には小さな、しかし消えることのない灯火が点っていた。
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