第32話 証拠隠滅と、教師の焦燥

「ふぅー……。こんなもんかしら」


 私は腰に手を当て、満足げに塔の最上階を見渡した。


 そこにはもう、先ほどまでの激闘の痕跡は微塵もない。

 ヘドロの怪物が撒き散らした酸のシミも、飛び散ったガラス片も、長年積もっていた埃も、すべてが完璧に『洗浄』されていた。


 月明かりが差し込む石床は、まるで鏡のように磨き上げられ、私の顔を映し出している。

 壁は新品同様に白く輝き、天井の隅にあった蜘蛛の巣マンションも強制撤去済みだ。


「きゅッ!(ピカピカ!)」


 漆黒に染まったぷるんちゃんが、床の上を滑るように移動している。

 その動きは、まるで氷上のフィギュアスケーター。彼(?)が通った跡は、摩擦係数がゼロになったかのようにツルツルだ。


「うんうん、完璧ね。これなら誰も、ここで『世紀の大掃除(と、お宝回収)』が行われたなんて気づかないわ」


 私は足元のカバンをポンと叩いた。

 中には、瓶詰めされた国宝級の美容泥『深淵の泥(アビス・マッド)』がたっぷりと詰まっている。

 そして、私の懐には、中層階で削り取った『高純度・魔力焦げ(マジック・カーボン)』の袋。


 完全犯罪の成立だ。


「本来なら『破壊活動』で怒られるところだけど、これだけ綺麗にしたんだもの。むしろ感謝状をもらいたいくらいよ」


 掃除屋の鉄則。

 『来た時よりも美しく』。


 それはマナーであると同時に、最高の「証拠隠滅」でもある。

 指紋ひとつ、髪の毛一本、魔力の残滓ひとかけらも残さない。

 あまりに綺麗すぎて、逆に「誰もいなかった」と思わせる逆転の発想だ。


「さあ、撤収よぷるんちゃん! これを持って帰って、マーサ先生とベアトリクス様を驚かせてやるんだから!」


「きゅ~!(ほめられる~!)」


 私は重たいカバンを軽々と担ぎ上げた。

 中身が「金貨の山」だと思えば、重力なんて仕事をしていないも同然だ。


 私は鼻歌交じりに、ピカピカになった廃墟を後にした。

 この塔の管理者が、翌日どんな顔をするかも知らずに。


***


 翌日の深夜。

 学園の敷地外れ、旧・錬金術研究塔。


 人気のない闇夜に紛れ、一人の男が姿を現した。

 魔法薬学担当教諭、グレイブス・F・アルコーンである。


「……ふん。薄汚い場所だ」


 彼はハンカチで口元を覆い、嫌悪感を露わにしながら錆びついた扉の前に立った。

 神経質なまでに整えられた髪、埃ひとつ許さないスーツ。極度の潔癖症である彼にとって、この廃墟に入ることは拷問に近い。


 だが、確認しなければならなかった。

 数年前、彼がこの塔で極秘裏に作成し、処理に困って廃棄(放置)した『合成魔獣(キマイラ)』の失敗作。

 最近、塔の方角から異臭がするという噂を耳にしたのだ。もし怪物が成長し、塔の外へ漏れ出しているようなら、秘密裏に処分しなければならない。


「忌々しい……。なぜ私が、あんな汚物の始末をせねばならんのだ」


 グレイブスは毒づきながら、厳重に施錠したはずの扉に手をかけた。


 ――ギィ。


 鍵を開けるまでもなく、扉は滑らかに開いた。


「……?」


 グレイブスは眉をひそめた。

 錆びついて開閉に苦労したはずの蝶番が、油を差したようにスムーズだ。

 誰かが入ったのか?


 警戒レベルを引き上げ、彼は杖を構えて中へと足を踏み入れた。


「な……っ!?」


 絶句した。


 ホールには、塵ひとつ落ちていなかった。

 ボロボロだったタペストリーは撤去され、床は深夜の月光を反射して白く輝いている。

 あのカビ臭い澱んだ空気はなく、代わりに微かな柑橘系の香り(アリアの除菌スプレー)が漂っていた。


「どういうことだ……? 清掃業者が入ったという報告など聞いていないぞ」


 嫌な予感が背筋を駆け上がる。

 彼は慌てて階段を駆け上がった。


 中層階。かつての実験爆発の跡地。

 そこを見て、グレイブスは悲鳴を上げそうになった。


「壁が……!?」


 壁一面にこびりついていた、赤黒い『魔力焦げ』。

 あれはただの汚れではない。彼の実験の失敗の証拠であり、同時に、希少な魔力触媒の結晶でもあった。

 いつか回収して金に変えようと目論んでいた「隠し資産」だ。


 それが、根こそぎ消えていた。

 壁はまるで新築のように研磨され、焦げ跡ひとつ残っていない。


「馬鹿な……! あれを剥がすには、特殊な専門工具と数日の工程が必要なはず……!」


 誰だ。

 誰が持ち去った?


 盗賊か? いや、盗賊がわざわざ掃除をしていくか?

 

 グレイブスは脂汗を流しながら、最上階の実験室へと走った。

 そこには、彼の最大の秘密――『キマイラの成れの果て』がいるはずだ。

 もしあれが見つかれば、教諭の地位はおろか、禁忌魔法の使用で投獄は免れない。


「頼む、無事でいてくれ……! いや、無事じゃ困るが、誰にも見つかっていないでくれ……!」


 バンッ!


 勢いよく扉を開け放つ。


 そして、彼はその場に凍りついた。


「…………は?」


 何もない。

 

 巨大な培養槽は割れ、ガラス片すら落ちていない。

 中に入っていたはずの、ドロドロとした黒いヘドロ。

 床を腐食させていた強酸性の粘液。

 鼻が曲がるような腐敗臭。


 その全てが、神隠しに遭ったかのように消滅していた。


 残っているのは、無機質なまでに清潔な、ただの広い空間だけ。


「あ、あり得ない……」


 グレイブスはへなへなとその場に崩れ落ちた。

 あの怪物は、魔法攻撃すら吸収する厄介な代物だったはずだ。

 それを、戦闘の痕跡すら残さず、完全に消し去るなど。


「証拠隠滅……。これは、プロの犯行だ」


 彼の脳裏に、恐ろしい想像が駆け巡った。


 ただの生徒や教師の仕業ではない。

 高度な隠密スキル。痕跡を完全に消去する浄化技術。そして、目的のもの(魔力焦げとキマイラの素材)だけを正確に回収する手際。


「まさか……王国の諜報機関か? 『影の掃除屋(スイーパー)』が介入したのか!?」


 グレイブスはガタガタと震え出した。

 自分の研究は、国に監視されていたのか。

 この「清掃」は、私への警告なのか?


「くそっ、誰だ……! 学園の中に、政府の犬が紛れ込んでいるのか!?」


 彼は疑心暗鬼の目で、誰もいない空間を睨みつけた。


 優秀な生徒会長か?

 それとも、あの正体不明の騎士団長か?

 あるいは、最近頭角を現している優秀な特待生たちか?


 彼の脳内リストに、数多くの「容疑者」が浮かび上がる。

 だが、そのリストの中に、ボロボロの服を着て廊下をモップ掛けしている「アリア・ミレット」の名前は、当然ながら一行たりとも存在しなかった。


 平民の掃除係ごときに、これほどの神業ができるはずがない。

 その侮りこそが、彼の目を曇らせているとも知らずに。


「おのれ……必ず正体を暴いてやる。私の研究成果(ゴミ)を奪った報いを受けさせてやるぞ……!」


 清潔すぎる実験室に、グレイブスの怨嗟の声が虚しく響いた。

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