第31話 漆黒のスライムと、究極の泥
ズズズッ、ジュルル……ポンッ。
実験室に響いていた不快な粘着音が止み、代わりに軽快な破裂音がひとつ鳴った。
それは、私のスパにおける排水溝掃除の完了音であり、同時に、学園の闇が生み出した怪物が完全に「消化」された合図でもあった。
「……終わった、の?」
私は恐る恐る、モップを盾にして前方を確認した。
月明かりが差し込む実験室。そこにはもう、天井まで届くようなヘドロの巨人はいなかった。
あの鼻が曲がるような腐敗臭も、酸性の毒霧も、嘘のように消え失せている。
残っているのは、ピカピカに磨かれた石床と――その中心で、満足げに震えている一匹のスライムだけ。
「ぷるんちゃん!」
私は駆け寄った。
だが、あと数歩というところで、急ブレーキをかける。
「……えっ?」
私の目が、相棒の異変を捉えたからだ。
そこにいたのは、いつものルビー色(赤)でも、さっきまでのゴールデン色(金)でもない。
全ての光を吸い込み、同時に艶やかに反射する、深淵のような――『漆黒』のスライムだった。
「真っ黒……。あんた、お腹壊して変色したんじゃないでしょうね?」
心配になって手を伸ばす。
しかし、私の指がその黒い表面に触れようとした瞬間だった。
シュンッ。
触れてもいないのに、私の指先に付着していた微細なホコリや、戦闘による煤汚れが、まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、黒いスライムの体表へと吸い込まれていったのだ。
「うわっ!? 何この吸引力!」
私は慌てて手を引っ込めた。
見てみると、私の人差し指だけが、まるで新品の陶器のように白く輝いている。指紋の溝の奥の汚れまで、根こそぎ持っていかれたようだ。
「きゅッ!(ゲップ!)」
黒いぷるんちゃんは、どこか得意げに跳ねた。
その着地音も、以前のような「ぺちっ」という可愛い音ではない。「ボムッ」という、重量感のある低音だ。
そして着地した地点の床石が、一瞬で新品同様の輝きを取り戻している。
「……まさか」
私はゴクリと唾を飲み込み、『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』を発動させた。
視界が青白く反転し、目の前の黒い塊を解析する。
【個体名:ぷるん(変異種)】
【種族:オブシディアン・デトックス・スライム(黒曜石粘液種)】
【ランク:A+(洗浄能力は測定不能)】
【特性:『超・吸着』『毒素隔離』『完全濾過』】
【解説:禁忌の合成魔獣(猛毒と呪いの複合体)を捕食し、体内の聖域(コア)で極限まで圧縮・分解した結果、あらゆる「不純物」を強制的に吸着し、封じ込める能力を獲得した。触れるだけで対象を無垢な状態へリセットする、生きたブラックホール・クリーナー】
「――はっ、ははは」
乾いた笑いが出た。
ブラックホール・クリーナーって何よ。家電量販店のキャッチコピーか。
「すごいじゃない、ぷるんちゃん! これなら頑固な換気扇の油汚れも、貴族のドロドロした陰口も、全部吸い取れそう!」
「きゅ~!(お肌ツルツル~!)」
ぷるんちゃんは嬉しそうに体を波打たせ、私の足元に擦り寄ってきた。
ブーツに触れた瞬間、そこに付いていた泥汚れが「シュッ」と消滅する。なんて便利な自動靴磨き機。
だが。
私の驚きは、それだけで終わらなかった。
ぷるんちゃんが陣取っていた場所。
さっきまで怪物の核があった、まさにその一点に、ひとすくいの「泥」が残されていたのだ。
それは、ただの泥ではなかった。
月明かりを受けて、濡れたカラスの羽のように妖しく輝く、漆黒のペースト。
「……何これ」
私は引き寄せられるように、その泥の前にしゃがみ込んだ。
ぷるんちゃんが食べた怪物は、膨大な魔力と有機物の塊だった。
それをぷるんちゃんが体内で濾過し、毒素をエネルギーに変え、不要なカスを排出した……はずなのだが。
「カスにしては、やけに綺麗ね」
私は恐る恐る、ゴム手袋を外して、素手でその泥に触れてみた。
ヒヤッ。
そして、キュゥゥッ……。
指先に触れた瞬間、泥が生きているかのように肌に吸い付いてきた。
気持ち悪い? いいえ。
まるで、肌の奥底に溜まっていた「重いもの」が、泥の方へと移動していくような、不思議な開放感。
ピピピッ。
私の脳内で、本日最大級のファンファーレが鳴り響いた。
『精密洗浄眼』が弾き出した鑑定結果の文字色は、最高レアリティを示す「虹色」だ。
【鑑定結果:深淵の泥(アビス・マッド)】
【ランク:国宝級(SSS)】
【分類:究極美容素材 / 錬金術触媒】
【起源:高位合成魔獣の構成要素が、スライム・フィルターによってナノレベルまで分解・濾過され、純粋なミネラルと魔力吸着成分だけが結晶化した奇跡の産物】
【効果:
1. 『絶対吸着』:毛穴の奥の酸化皮脂、老廃物、体内毒素、さらには精神的な澱み(ストレス・カルマ)まで吸着し、体外へ排出する。
2. 『魔力リセット』:付着した残留魔力を初期化し、肌本来の生命力を活性化させる。】
【市場価値:測定不能(グラム単価・白金貨10枚~)】
「…………」
私はしばらく息をするのを忘れていた。
白金貨?
グラム単価で?
「……ふ、ふふ」
肩が震える。
恐怖ではない。歓喜だ。
「勝った……!」
私はガッツポーズをした。
あの悪臭ヘドロとの死闘。特注エプロンへの被害リスク。深夜労働の疲れ。
その全てが、今この瞬間に報われた。
「これ、ただの泥パックじゃないわ。毛穴の黒ずみどころか、前世の悪行(カルマ)まで洗い流せそうなレベルの『人生やり直し泥』じゃない!」
私は狂喜乱舞した。
これをスパの新メニューに組み込めばどうなる?
『深淵のデトックス・コース』。キャッチコピーは「あなたの罪ごと洗い流します」。
間違いなく、美に憑りつかれた貴族たちが、札束を握りしめて行列を作る未来が見える!
「ぷるんちゃん! 袋! ありったけの保存袋を出して! あとタッパーも! 瓶も!」
「きゅッ!(了解!)」
私は持参していた道具袋をひっくり返し、手当たり次第に容器を取り出した。
目の前にあるのは泥ではない。黒いダイヤモンドの山だ。
「一粒たりとも残さないわよ! これ全部、私たちの老後資金なんだから!」
私はヘラを使い、床に落ちた泥を狂ったようにかき集め始めた。
その姿は、端から見れば「泥遊びに興じる子供」か、あるいは「何かに取り憑かれた亡者」に見えたかもしれない。
***
一方その頃。
実験室の入り口、崩れた壁の陰で。
学級委員長ギデオン・アイアンサイドは、あまりの衝撃的な光景に、涙で眼鏡を曇らせていた。
「……ああっ、アリア……!」
彼の手帳を持つ手が、カタカタと震えている。
ギデオンの目には、アリアの姿が、まったく別のものとして映っていたのだ。
彼が見たのは、戦いが終わり、黄金の輝きを失って「漆黒」に染まったスライム。
そして、その傍らに残された、どす黒い灰の山。
「あの黄金の精霊は……悪魔の猛毒をその身すべてで受け止め、呪いを吸収して黒く染まってしまったというのか」
自己犠牲。
主を守るための、痛ましいほどの献身。
そして、アリアだ。
彼女は今、何をしている?
悪魔の死骸――呪いの結晶である「黒い灰」を、素手でかき集めているではないか。
『一粒たりとも残さないわよ!』
彼女の悲痛な叫びが、ギデオンの耳にはこう変換されて届く。
『一粒たりとも、この世に残してはならない! この呪いは、私が全て引き受ける!』
「……なんという、慈愛」
ギデオンは目頭を押さえた。
普通なら、触れるだけで穢れるような呪いの残滓。
それを彼女は、嫌な顔ひとつせず(実際は満面の笑みだが、逆光で聖女の微笑みに見えている)、丁寧に、愛おしそうに容器へ収めている。
「あれは……弔いだ」
ギデオンは確信した。
彼女は、あの哀れな合成魔獣(キマイラ)の魂を供養するために、その遺灰を拾い集めているのだ。
誰にも知られず、誰にも賞賛されることなく、たった一人で「学園の罪」を清算しようとしている。
「君は……本当に、僕たちが思っているような『ただの掃除係』じゃなかったんだね」
ギデオンは震える手でペンを走らせた。
『観察記録(聖典):聖女アリアは、闇に堕ちた精霊を労りながら、悪魔の遺灰(カルマ)を素手で回収した。その姿は、戦場跡で遺骨を拾うシスターのように神聖で、見ていられないほどに痛々しい。……僕にできることは、この真実を歴史に残すことだけだ』
「ううっ……!」
感極まったギデオンは、嗚咽を漏らさないように口元を手で覆った。
そして、アリアの作業が終わるまで、その場から一歩も動かずに見守り続けることを誓った。
***
「よし! 回収完了!」
そんな尊い誤解が生じているとは露知らず、私は最後の泥を瓶に詰め終え、蓋をキュッと閉めた。
カバンの中には、大小合わせて10個ほどの瓶が詰まっている。
推定価格、国家予算並み。
重さはそこそこあるけれど、心の翼が生えた私には羽毛のように軽い。
「これでスパの危機は去ったし、新商品の仕入れも完璧。一石二鳥どころか一石三鳥ね!」
私は立ち上がり、腰を伸ばした。
部屋を見渡す。
怪物は消え、泥も回収した。床は私の掃除とぷるんちゃんの着地効果でピカピカだ。
しかし、私の掃除屋としてのプライドが、まだ「完了」を告げていない。
「……ま、ついでだしね」
私は背中のタンク(魔力ガス入り)を揺すり、モップを構え直した。
「来た時よりも美しく。それがプロの流儀よ」
私は部屋の隅々を見回した。
長年の埃、実験の失敗で焦げ付いた壁、蜘蛛の巣。
怪物は倒したが、この部屋自体はまだ「汚部屋」のままだ。
「ぷるんちゃん、仕上げよ! この塔に残った痕跡、指紋ひとつ残さず拭き上げるわよ!」
「きゅッ!(ラジャー!)」
漆黒になったぷるんちゃんが、高速で部屋中を跳ね回る。
私も負けじと、モップと雑巾を二刀流で振るった。
証拠隠滅――もとい、現状復帰作業の開始だ。
もし誰かがここへ調査に来たとしても、「何もなかった」と思わせるほど完璧に磨き上げる。
それが、私がここで「お宝」を回収した事実を隠す、最大の防衛策になるのだから。
シュッシュッ、キュッキュッ!
静まり返った塔の最上階に、リズミカルな掃除の音が響く。
ギデオンはその音を「鎮魂の鈴の音」だと解釈し、一人静かに祈りを捧げていた。
こうして、学園の地下を揺るがした「悪臭騒動」は、私の完全勝利で幕を閉じた。
手に入れたのは、最強の黒スライムと、究極の美容泥。
――けれど、私はまだ気づいていなかった。
この『深淵の泥』が持つ「汚れを落とす」という効果が、あまりにも強力すぎることに。
それが単なる汚れだけでなく、貴族たちが必死に隠している「嘘」や「虚飾」まで、根こそぎ剥ぎ取ってしまう劇薬だということに。
私の手にした黒い泥が、数日後に迫った『全校一斉魔力測定試験』で、学園全体を巻き込む大スキャンダルの引き金になるなんて、この時の私は知る由もなかったのだ。
今はただ、カバンの中の重み(金貨の予感)に、にんまりと笑みを浮かべるだけだった。
「さーて、帰ってマーサ先生に報告だ! きっと腰抜かすわよ~!」
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