第30話 激闘! 対ヘドロ大掃除

『グオオオオオオオオォォォォォッ!!』


 実験室の空気が震えた。

 目の前で脈打つのは、黒いヘドロの巨人。かつてグレイブス教諭が作り出し、そして無責任に放棄した「失敗作(キマイラ)」の成れの果てだ。


 天井まで届きそうなその巨体が、ドロリと形を変える。無数の触手が鞭のようにしなり、私に向かって殺到した。


「ひぃッ! だから汚いって言ってるでしょーが!」


 私は反射的に床を転がり、飛来する黒い滴を回避した。


 バシュッ! ジュウウウゥ……。

 私が一瞬前までいた場所の床石が、酸性の飛沫を浴びて白煙を上げている。


「ちょっと! 今の掠(かす)ってたら、私の特注ゴムエプロンに穴が開いてたじゃない!」


 私はモップを構えながら絶叫した。

 命の危険? そんなもの二の次だ。

 このエプロンは、王都の専門店で取り寄せた「対・強酸性汚れ防護服(プロ仕様)」なのだ。お値段、なんと金貨一枚。もし穴が開いたら、今月のスパの利益が修理費で吹っ飛ぶ。


 『ヴォオオオオッ……!』


 怪物は私の抗議など意に介さず、さらに質量を増していく。

 その体表には、恨めしげな目玉や、苦悶の表情を浮かべた顔のような模様が浮かんでは消えている。普通の生徒なら、このビジュアルだけでSAN値(正気度)を削られて気絶するだろう。


 だが、あいにくだが私は掃除屋だ。

 私の目には、それが「怨念」ではなく「成分」として映っている。


 ピピピッ。

 『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』が、敵の構造を冷徹に解析する。


 【対象分析:複合型汚染物質】

 【主成分:魔獣の脂肪酸(油汚れ)60%、変質タンパク質30%、魔力増幅剤の残滓(頑固なシミ)10%】

 【弱点:界面活性剤による乳化、およびタンパク質分解酵素】


「……はっ。なーんだ」


 解析結果を見た瞬間、私の中で「未知への恐怖」は「既知への作業感」へと変わった。

 要するにこいつは、キッチンの換気扇にこびりついた「油汚れ」と、排水溝に詰まった「髪の毛とヌメリ」が合体して巨大化しただけだ。


「規模がデカいだけで、やってることは『年末の大掃除』と変わらないわね」


 私はニヤリと笑い、腰のベルトから一本のボトルを抜き放った。

 ラベルには手書きで『アリア特製・マジックリン(魔力剥離剤入り)』と書かれている。


「油汚れには界面活性剤! タンパク質汚れには酵素パワー! そして、あんたみたいな『魔力でコーティングされた汚れ』には――!」


 私はボトルの栓を親指で弾き飛ばし、中身をブチ撒けた。


「これでも食らえぇぇッ! 業務用・超強力アルカリ洗浄液ッ!!」


 バシャアァァァッ!


 液体が放物線を描き、怪物の胴体へ直撃する。

 

 ジュワアアアアアアアアッ!!


 『ギャアアアアアアアアッ!?』


 怪物が、これまでで一番高い悲鳴を上げた。

 洗浄液がかかった部分から、猛烈な泡が発生している。それは魔術的な防御壁でもなんでもない。単なる化学反応(中和と乳化)だ。

 ネバネバとしたヘドロの結合が緩み、ドロドロと崩れ落ちていく。


「今よ! 汚れが浮き上がったわ!」


 私は叫んだ。

 そして、私のポケットの中で、今か今かと待ち構えていた「相棒」が飛び出した。


「きゅぅぅぅぅぅぅぅんッ!!(いただきまぁぁぁす!!)」


 黄金色の弾丸。

 ぷるんちゃんが、空中で体を大きく広げ、無防備になった怪物の核心へと突撃する。


***


 一方その頃。

 実験室の入り口、瓦礫の陰で。


 学級委員長ギデオン・アイアンサイドは、あまりの神々しさに呼吸を忘れていた。


「……あ、あり得ない」


 彼の手帳を持つ手が震える。

 ギデオンの目には、アリアの放った洗浄液が、黄金の輝きを放つ『聖水(ホーリー・ウォーター)』に見えていたのだ。


 邪悪な悪魔の体表が、聖水を浴びて浄化の白煙を上げている。

 断末魔の叫びは、悪霊たちが昇天する際の賛美歌(クワイア)のようにすら聞こえる。


「彼女は……やはり、教会の聖女をも凌駕する『祓魔師(エクソシスト)』だったのか。しかも、無詠唱でこれほどの量の聖水を生成するとは……」


 そして、極めつけはあれだ。

 アリアの懐から飛び出した、小さな光。


「行け! 精霊よ! 邪悪を討ち滅ぼせ!」(※実際は「いただきまーす!」)


 ギデオンには、黄金のスライムが、アリアの祈りによって具現化した『守護天使(ガーディアン・エンジェル)』に見えた。

 小さな天使が、自らの身を顧みず、巨大な悪魔へと特攻をかける。


「……美しい」


 ギデオンの目から、一筋の涙が伝い落ちた。

 これは掃除ではない。

 世界を救うための、誰にも知られることのない聖戦(クルセイド)なのだ。


 彼は感動のあまり、その場に崩れ落ちそうになる膝を必死に支え、震えるペン先で歴史的瞬間を記録し続けた。


『観察記録:聖女アリアは、聖なる水により悪魔の結界を無力化。続いて、黄金の守護獣を召喚し、とどめの一撃(浄化)を放った。その姿は、神話の再演を見るがごとし』


***


「いけぇッ、ぷるんちゃん! 食べて応援(浄化)よ! ただしお腹壊さない程度によく噛んで!」


 私の号令と共に、ぷるんちゃんが怪物の「核」と思われる部分に張り付いた。


 『ガアアアアッ!? グオオオオッ……!?』


 怪物が暴れ回る。触手を振り回し、自分の体に取り付いた異物を引き剥がそうとする。

 だが、今のぷるんちゃんはただのスライムではない。

 数多の魔力廃棄物(スラグ)を食べ、騎士団の錆で歯(?)を鍛え上げた、グルメ界の覇者だ。


 ジュルルルッ! バクバクバクッ!


「きゅん! きゅるる!(濃厚! コクがある!)」


 ぷるんちゃんの体が波打ち、猛烈な勢いでヘドロを吸収していく。

 私の撒いた洗浄液で結合が緩んでいるため、怪物は抵抗できない。まるでストローでシェイクを吸い上げるように、巨大な質量が小さなスライムの中へと消えていく。


 『グ、オ……オオ……』


 怪物の悲鳴が、次第に弱々しくなっていく。

 それと同時に、あの鼻をつんざくような腐敗臭も薄れていった。ぷるんちゃんの体内にある「超強力消化器官(焼却炉)」が、毒素ごと分解しているのだ。


「すごい……! あれだけの量を、もう半分以上?」


 私は目を見張った。

 ぷるんちゃんの体色が、黄金色から、徐々に深く、濃い色へと変化していく。

 食べた端から、ヘドロに含まれる「毒素」と「魔力」を選別し、自身の力に変えているのだ。


 ――そして、最後の瞬間が訪れた。


 ズズズズズッ……。


 ゴボボボボッ……!


 実験室に、巨大な排水音が響いた。

 それはまさに、詰まっていた排水溝が一気に貫通し、汚水が流れ去る時の、あの爽快な音そのものだった。


 『…………』


 怪物は跡形もなく消滅した。

 残ったのは、綺麗さっぱり何もなくなった床と、パンパンに膨れ上がったぷるんちゃんだけ。


「ふぅ……。終了、ね」


 私は安堵の息を吐き、モップを下ろした。

 だが、まだ気は抜けない。

 掃除の基本は「仕上げ」だ。菌を残しては、またすぐにカビが生える。


「ぷるんちゃん、よくやったわ! 偉い!」


 私は膨れた相棒を撫でようとして、手を止めた。

 とりあえず、空間全体の除菌が必要だ。


 私はベルトから別のスプレー缶を取り出した。

 『アリア特製・聖水ミスト(次亜塩素酸配合)』。


「仕上げの除菌消臭ッ! これで悪臭も呪いもサヨウナラ!」


 シューーーーーッ!


 細かい霧が、実験室の空気を満たす。

 爽やかなシトラスの香りが、腐敗臭の残滓を上書きしていく。


「よし! 任務完了(ミッション・コンプリート)!」


 私はゴーグルをずり上げ、満足げに親指を立てた。

 勝った。

 汚れに勝った。これで私のスパは安泰だ。


 その光景を見ていたギデオンは、もう限界だった。


「……聖水による、清めの儀式……」


 彼はへなへなとその場に座り込んだ。

 最後のアリアの笑顔。それは、激闘を終えた戦士だけが見せる、安らぎの表情。


「ありがとう、アリア。君のおかげで、学園はまた一つ、闇から救われたんだね……」


 彼は胸の前で十字を切り、感謝の祈りを捧げた。

 完全なる誤解だが、彼の中ではアリアは今、伝説になった。

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