第29話 最上階の実験室と、脈動するヘドロ
「ぜぇ、ぜぇ……。階段、長すぎない? バリアフリーの概念はどうなってるのよ、この塔は!」
私は、石造りの螺旋階段の手すりにしがみつきながら登っていた。
背中には、下層で回収した『魔力ガス』が詰まったタンク。腰の袋には、中層階で削り取った『魔力焦げ(マジック・カーボン)』がパンパンに詰まっている。
総重量、推定30キロ。か弱い乙女(ただし掃除筋は発達している)には過酷な登山だ。
「きゅぅ~……(おもい~……)」
ポケットの中のぷるんちゃんも、私の疲労に同調して溶けかかっている。
「頑張って、ぷるんちゃん。あと少しで最上階よ。……ていうか、この袋の中身、全部お金だと思えば軽……くはないけど、耐えられるわ!」
私は欲望という名のガソリンを精神に注ぎ込み、最後の一段を踏みしめた。
――ガツッ。
足音が、静寂に響く。
目の前には、今までで一番重厚な、鉄製の扉が立ちはだかっていた。
扉の表面には、『立入禁止』『危険』『生物災害(バイオハザード)』といった物騒な札が、何枚もベタベタと貼られている。
「うわぁ……。見るからに『ラスボスいます』って感じ」
私は顔をしかめた。
扉の隙間からは、あの下水管で嗅いだのと同じ、鼻がひん曲がるような腐敗臭が漂ってくる。マスクのフィルターを通してさえ、胃液がせり上がってくるレベルだ。
「……行くわよ。原因を断たなきゃ、私のスパは営業停止だもの」
私はモップを構え直し、深呼吸をしてから(臭すぎてすぐ咳き込んだが)、扉を蹴り開けた。
バンッ!!
「こんばんはー! 深夜の清掃点検に参りましたー!」
威勢よく声を張り上げ、中へ踏み込む。
◇
そこは、広いドーム状の実験室だった。
天井は高く、割れた天窓から月明かりが差し込んでいる。
壁一面には、中身の腐った瓶詰めや、用途不明の拘束具、そして錆びついた手術台のようなものが乱雑に置かれている。
まさに、マッドサイエンティストの隠れ家といった風情だ。
そして。
部屋の中央。
一段高くなったステージの上に、それはあった。
巨大なガラス製の培養槽(タンク)。直径3メートルはある円筒形の容器だ。ガラスにはヒビが入り、そこから黒い液体がドロドロと床に垂れ流されている。
「……あれが、発生源」
私は息を飲んだ。
培養槽の中には、黒い「何か」が満ちていた。
ただの液体じゃない。月明かりを反射してヌラヌラと光り、時折、ボコッ、ボコッと大きく脈打っている。
まるで、巨大な心臓のように。
「きゅ……!」
ぷるんちゃんが、ポケットから顔を出した。
さっきまで臭がっていたはずなのに、今はなぜか身を乗り出し、触手をピーンと伸ばして震えている。
「どうしたの? 怖い?」
「きゅ、きゅううううッ!!(ものすごいごちそうのにおい!!)」
「は?」
私は耳を疑った。
ごちそう? この生ゴミの王様みたいな悪臭が?
私が首を傾げた、その時だった。
パリンッ!
乾いた音がして、培養槽のガラスが砕け散った。
ドバアァァァァッ!!
中の黒い液体が一気に溢れ出し、床を埋め尽くす。
いや、液体じゃない。それは意志を持って集まり、盛り上がり、ひとつの巨大な不定形の「塊」へと変貌していく。
『グ、オ、オ……オオオオオ……』
低周波のような唸り声が、空気を震わせた。
黒いヘドロの中から、無数の目玉のような気泡が浮かんでは消え、ギョロギョロと私を見据える。
「ひぃッ!?」
私は反射的に後ずさった。
でかい。私の身長の倍はある。スライム……にしては邪悪すぎるし、ただの泥にしては殺意が高すぎる。
ピピピッ。
私の『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』が、警告音と共に解析を開始した。
【解析完了】
【対象:廃棄された合成魔獣(キマイラ)の成れの果て】
【構成:腐敗した魔獣細胞、暴走した魔力回路、怨念、ヘドロ、その他産業廃棄物】
【製作者ID:グレイブス・F・アルコーン(魔法薬学教諭)】
【状態:極度の飢餓と腐敗により、周囲の有機物を無差別に捕食・同化する『生きた汚染物質』へと変異】
「はぁぁぁぁッ!?」
私は思わず、目の前の怪物ではなく、虚空に向かって叫んだ。
「グレイブスの野郎ぉぉぉッ!! あんたの仕業かよ!!」
あの潔癖症の差別主義教師。
いつも「平民は汚らわしい」とか言って私をバイ菌扱いするくせに、自分はこんな特大の「不法投棄」をしていたってわけ!?
「許せない……! 自分のペットの始末もつけられないなんて、飼い主失格以前に、人間として終わってるわ!」
怒りが恐怖を上回った。
掃除屋として、一番許せない人種。それは「分別ができない客」だ。
『グルァアアアアッ!!』
ヘドロ怪物が咆哮し、体の一部を鞭のようにしならせた。
バシュッ!
黒い触手が、弾丸のような速度で私に襲いかかる。
「っとと!」
私はとっさに横へ飛び退いた。
触手は私がいた場所の床を叩き割り、飛沫(しぶき)を撒き散らす。
ジュウウウッ……。
飛び散った黒い滴が触れた石床が、酸をかけられたように白煙を上げて溶けていく。
「ちょ、ちょっと!!」
私は叫んだ。
命の危機を感じたからではない。
「やめてよ! 飛び散るじゃない! このゴムエプロン、特注品なんだからね! クリーニング代だけで金貨一枚かかるのよ!?」
私の剣幕に、怪物が一瞬ひるんだ(ように見えた)。
「粘液系の汚れは一番落ちにくいんだから! 攻撃するなら、もっとこう、乾燥してからポロッと取れる物理攻撃にしなさいよ!」
理不尽なクレームをつける私。
しかし、怪物は聞く耳を持たない(耳がないから当然だが)。
『ヴォオオオオッ……!』
怪物はさらに体を膨張させ、今度は十本以上の触手を鎌首のように持ち上げた。全方位からの波状攻撃だ。
逃げ場がない。
「くっ、さすがに『モップ』一本じゃ分が悪い……!」
私は歯噛みした。
掃除機(バキューム)はガスで満タンだし、ヘラ(スクレイパー)じゃ削りきれない。相手は液体だ。切っても突いても意味がない。
――その時。
私のポケットの中で、何かが激しく暴れだした。
「きゅ、きゅうううううううッ!!(がまんできないぃぃぃッ!!)」
「えっ、ぷるんちゃん!?」
飛び出したのは、黄金色のスライム。
ぷるんちゃんは、私を守るように前に出る……のではなく、涎(粘液)を垂らしながら、怪物に向かって突進しようとしていた。
「きゅるるるるッ!(特盛りバイキングだぁ! いただきまぁぁぁす!)」
「ちょ、待って! あれ腐ってるわよ!? お腹壊すってば!」
私が止めるのも聞かず、ぷるんちゃんは目を(ないけど)輝かせている。
どうやら、あの怪物に含まれる「高濃度の魔力」が、グルメなぷるんちゃんにとっては、熟成されたブルーチーズのような極上の香りを放っているらしい。
「嘘でしょ……あんた、あれ食べる気なの?」
相手は、私の宿敵グレイブスが生み出した、呪いと猛毒のキマイラだ。
でも、ぷるんちゃんにとっては……?
◇
一方その頃。
実験室の入り口、崩れた壁の陰で。
学級委員長ギデオン・アイアンサイドは、絶望的な光景に腰を抜かしていた。
「……あ、悪魔だ」
彼の手帳が手から滑り落ちる。
ギデオンの目には、アリアと対峙するヘドロが、地獄の底から這い出してきた『上級悪魔(アーク・デーモン)』に見えていた。
月明かりの下、冒涜的な黒いオーラを放つ巨体。
対するアリアは、あまりにも小さく、か弱い。
「逃げろ……アリア、逃げてくれ……!」
声が出ない。
あの怪物の放つプレッシャー(実際は悪臭)だけで、体が金縛りにあったように動かない。
しかし、アリアは逃げない。
それどころか、果敢にも悪魔に向かって何かを叫んでいる。
『やめてよ! 飛び散るじゃない! このゴムエプロン、特注品なんだからね!』
ギデオンの脳内で、その言葉が自動翻訳される。
『私の命など惜しくない! だが、この聖衣(エプロン)が汚れることは、即ち信仰の敗北! 私は一歩も退かない!』
「……なんという覚悟」
ギデオンは涙を流した。
彼女は、自分が盾となって、この学園に解き放たれようとしている悪魔を食い止めるつもりなのだ。
そして、彼女の懐から飛び出した、小さな黄金の光(ぷるん)。
ギデオンにはそれが、聖女を守護する『精霊獣(ガーディアン・スピリット)』に見えた。
「ああ、神よ。どうか彼女にご加護を……!」
ギデオンは両手を組み、必死に祈りを捧げた。
彼にできることは、この壮絶な聖戦(ただの掃除)を、最後まで見届けることだけだった。
◇
「はぁ……もう、わかったわよ!」
私は覚悟を決めた。
ぷるんちゃんの食欲と、私の掃除魂。二つ合わせれば、どんな汚れだって落とせないはずがない。
「ぷるんちゃん、お食事の時間よ! ただし、お行儀よく食べること!」
「きゅッ!(合点承知!)」
私は腰のベルトから、とっておきの『業務用・超強力洗浄液(アリア特製ブレンド)』のボトルを抜き放った。
「油汚れには界面活性剤! タンパク質汚れには酵素パワー! そして魔力汚れには――あんたの胃袋よ!」
私はボトルの栓を歯で食いちぎり、ドロドロと迫りくる触手に向かって投げつけた。
「いっくわよぉぉぉッ! 学園最大の『大掃除』、開始!!」
パァァァンッ!!
ボトルが空中で弾け、洗浄液の雨が降り注ぐ。
それが、最強の「捕食劇」の合図だった。
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