第28話 壁のシミと、過去の栄光(スクレイピング)

1階ホールの「ポルターガイスト(ただの換気不良)」を掃除機(バキューム)一発で鎮めた私は、意気揚々と塔の階段を上り始めた。


 石造りの螺旋階段は、長年の放置により分厚い埃と蜘蛛の巣に覆われている。

 普通なら肝試しでも遠慮したい場所だが、今の私には「宝の山への登山道」に見えていた。


「よいしょ、こらしょ……。もう、なんで昔の建物ってエレベーターがないのかしら」


 私は文句を垂れながら、モップを杖代わりにして一段ずつ踏みしめる。

 背負った『高出力魔力吸引機(改造サイクロン掃除機・改)』のタンクがずっしりと重い。中には先ほど回収した「高純度魔力ガス」が詰まっているため、さらに重量が増しているのだ。


「きゅぅ……(おもい……)」


 ポケットの中のぷるんちゃんも、私の疲労を感じ取ってか、ぐったりとしている。


「頑張って、ぷるんちゃん。このガス、持ち帰ったら燃料として売れるから。そしたら高級ゼリー買ってあげる」


「きゅッ!(復活!)」


 単純な相棒に苦笑しつつ、私は中層階――かつての実験室エリアへと足を踏み入れた。


 すると、空気が変わった。

 1階の埃っぽい乾燥した空気とは違う。もっと粘り気のある、鉄錆のような、あるいは血のような臭い。


「……うわ」


 私は思わず足を止めた。

 ランタンの光が、壁一面を照らし出す。


 そこは、地獄絵図だった。


 廊下の壁、天井、そして床に至るまで。

 赤黒く、ドロリとした「何か」が、爆発したかのように飛び散り、こびりついている。

 まるで、かつてここで凄惨な虐殺が行われたかのような、生理的嫌悪感を催す光景。


「ひぃッ……! な、何これぇ……!」


 私は背筋が凍りつき、後ずさりした。

 やっぱり出るんじゃない。幽霊とか、怨念とか、そういうヤバイやつが。

 これ、どう見てもダイイング・メッセージ的なアレでしょ?


 ――しかし。


 私の恐怖は、次の瞬間、職業病によって強制的に上書きされた。


 ピピピッ。


 『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』が、勝手に起動する。

 視界が青白く反転し、おぞましい赤黒いシミをスキャンしていく。


 【解析完了】

 【対象:高純度・魔力焦げ(マジック・カーボン)】

 【純度:98.5%(極上品)】

 【推定熟成期間:15年】

 【解説:高度な錬金術実験の失敗(大爆発)により、希少金属と魔力触媒が瞬時に炭化・結晶化したもの。現代の安全な実験室では生成不可能な、ロストテクノロジー級の研磨剤および燃料素材】


「……は?」


 私の思考が停止した。


 魔力焦げ(マジック・カーボン)?

 あの、グラム単価が金貨一枚と言われる、幻の素材?


 私は恐る恐る壁に近づき、手袋をした指でシミを触った。

 カチカチに固まっている。血糊ではない。結晶だ。


「……嘘でしょ」


 私の口元が、にやりと歪んだ。


 恐怖? 何それ。

 今、私の目の前にあるのは、壁一面に張り付いた「札束」だ。


「キャハッ! 宝の山じゃない! これ全部剥がせば、騎士団の機密費なんか目じゃないくらいの大金よ!」


 私は腰のベルトから、愛用の「ミスリル製スクレイパー(削りヘラ)」を抜き放った。

 その目は、獲物を狙うハイエナのようにギラギラと輝いている。


「いただきまーす! ぷるんちゃん、回収袋を持って待機! 一欠片もこぼさないでよ!」


「きゅッ!(ラジャー!)」


 ガリッ!


 静まり返った廃墟に、硬質な音が響いた。


 一方その頃。

 中層階の入り口、崩れた瓦礫の陰で。


 学級委員長ギデオン・アイアンサイドは、あまりの衝撃に膝を震わせていた。


「……なんと、いうことだ」


 彼の手帳を持つ手が、カタカタと震える。

 ギデオンの目には、アリアが見ている「札束」など見えていない。

 彼に見えているのは、かつてこの塔で散った錬金術師たちの、無念と怨嗟が凝り固まった「呪いの血痕」だ。


 普通なら、触れるだけで精神が汚染され、発狂してもおかしくないほどの特級呪物。


 それを、アリアは。


 ガリッ、ガリガリガリッ!


「躊躇いなく……! 素手(に見える手袋)で触れ、物理的に剥ぎ取っているというのか……!」


 ギデオンは息を飲んだ。


 あのおぞましい赤黒いシミ。

 あれは、死者たちの「未練」だ。

 「まだ死にたくない」「実験を完成させたかった」という悲痛な叫びが、壁にこびりついているのだ。


 それをアリアは、自らの短剣(ヘラ)で削り取っている。

 それはつまり、死者たちの怨念を、その身一つで引き受けようとする行為に他ならない。


『もっとよ……! もっと寄越しなさい……!』


 アリアの声が聞こえた(気がした)。

 ギデオンの脳内フィルターを通すと、それは貪欲さではなく、悲壮な決意の言葉に変換される。


『私の身体がどうなってもいい……! あなたたちの苦しみを、私がすべて背負うから……!』


「アリア……!」


 ギデオンの目から、熱いものが溢れ出した。


 なんと高潔な自己犠牲か。

 彼女は、誰にも知られることなく、たった一人でこの呪われた塔の「業(カルマ)」を浄化している。

 削り取った呪いを袋に詰めているのは、おそらく後で丁重に供養するためだろう。


「……見ていられない。だが、見届けなければならない」


 ギデオンは涙を拭い、ペンを走らせた。


『観察記録:アリア・ミレットは、壁に封印された怨念の塊(呪血)を、祈りの儀式(スクレイピング)によって剥離・浄化している。その背中は、万人の罪を背負う殉教者のように小さい。……僕は、無力だ』


 ガリガリガリガリッ!


 一心不乱に壁を削り続けるアリアの姿は、ギデオンの目には、神々しい後光に包まれた聖女そのものとして映っていた。


「んふふふ、これよこれ! この手応え!」


 そんな感動的な誤解が生じているとは露知らず、私は恍惚の表情で壁を削っていた。


 ガリッ、ポロッ。

 結晶化した「魔力焦げ」が、気持ちいいほど綺麗に剥がれ落ちる。


「見てぷるんちゃん! この断面の輝き! 最高級の研磨剤になるわ! これを粉末にしてスパのスクラブ剤に混ぜれば、『全身宝石肌コース』として金貨50枚はいける!」


「きゅぅ~!(おかねのにおい!)」


 ぷるんちゃんも心得たもので、落ちてくる黒い欠片を、器用に広げた体でキャッチし、体内の「保管庫(胃袋とは別のスペース)」へ収納していく。


 作業は順調だった。

 恐怖心なんて、もう欠片もない。


 だって、壁が全部お金に見えるんだもの。


 十分ほどで、廊下の片面の壁を削り尽くした私は、満足げに額の汗を拭った。


「ふぅ……。とりあえず、持ち運べるのはこれくらいかしら」


 ぷるんちゃんの体が、収納した素材の重さで少し沈んでいる。

 これ以上は機動力に関わる。欲張って全滅したら元も子もない。


「残りはまた今度、『特別清掃』という名目で回収に来ましょう」


 私はスクレイパーをベルトに戻し、視線を上げた。

 廊下の先。

 上層階へと続く階段が、暗闇の中に口を開けている。


 そして、そこから漂ってくるのは――。


 ズズズ……。


 あの不快な、粘つくような音。

 そして、先ほどの「魔力焦げ(宝物)」とは比較にならないほどの、強烈な腐敗臭。


「……いよいよ、本丸ね」


 私の表情から、笑顔が消えた。


 ここまでは、ただの「前菜」だ。

 ポルターガイストも、壁のシミも、長い年月が生んだ副産物に過ぎない。


 でも、この上にあるのは違う。

 今まさに活動し、私の楽園に汚水を垂れ流している「元凶」だ。


「臭い。本当に臭い」


 私はマスクを締め直し、ゴーグルの曇りを拭った。


「私の地下スパに喧嘩を売ったこと、後悔させてやるわ。……待ってなさいよ、汚物(ボス)」


 私はモップを強く握りしめ、最上階への階段に足をかけた。

 背中で、重くなったタンクがゴトリと音を立てる。


 その直後。


 上層階から、地響きのような唸り声が轟いた。


 『グオオオオオオオォォォォォ……』


 壁がビリビリと震える。

 埃がパラパラと落ちてくる。


 隠れていたギデオンが「ひっ」と息を飲む気配がしたが、私は構わず進んだ。

 今の私には、ベアトリクス様の後ろ盾と、回収したばかりの「軍資金(魔力焦げ)」という心の余裕がある。


「うるさいわね。騒音公害で訴えるわよ」


 私は不敵に笑い、闇の中へと駆け上がった。

 その先には、学園の闇が生み出した、最悪にして最高の「汚れ」が待ち構えているとも知らずに。

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