第26話 ストーカーの戦慄と、聖女の巡礼

深夜の王立魔法学園。

草木も眠る丑三つ時だというのに、私はとんでもない重装備で校庭の茂みを匍匐前進していた。


「……ぐぬぬ、重い。肩が凝るわ」


私の背中には、自作の『高出力魔力吸引機(改造サイクロン掃除機・改)』のタンクがずっしりと乗っかっている。


服装は、厚手のゴム製エプロンに、長靴、そして顔には軍用の防毒マスク付きゴーグル。手には愛用のミスリル合金製モップだ。


端から見れば、完全に不審者だ。

いや、見られる心配はない。私の『隠密(気配を消してサボる)』スキルは、この学園でもトップクラスなのだから。


「それにしても……臭いわね、本当に」


マスク越しでも微かに感じる、あのドブと腐敗臭のミックスジュース。

風向きを計算していても、北西の塔から漂ってくる瘴気は強烈だった。


「待ってなさいよ、元凶。私の地下スパ(楽園)に悪臭テロを仕掛けた罪、万死に値するわ」


私はゴーグルの位置を直し、ターゲットである『旧・錬金術研究塔』を睨みつけた。

闇夜にそびえる古びた石塔。

窓は割れ、蔦が絡まり、いかにも「出ます」といった風情の心霊スポットだ。


普通なら肝試しでも遠慮したい場所だが、今の私にとっての恐怖の対象は「幽霊」ではない。「客離れ」と「洗濯の手間」だ。


「よし、ぷるんちゃん。酸素濃度よし、フィルターよし。突入するわよ」


「きゅぅ……(帰りたぁい……)」


ポケットの中のぷるんちゃんが震えているが、心を鬼にして無視する。

この戦い(大掃除)に勝たなければ、明日から私たちは安眠できないのだから。


私は茂みから飛び出し、塔へ向かって駆け出した。


――しかし、私は気づいていなかった。

私の完璧な隠密スキルすら及ばないほどの執念で、私を見つめる一対の目が、すぐ近くの木陰にあったことに。


******


「……やはり、彼女か」


学級委員長ギデオン・アイアンサイドは、大木の陰で眼鏡を光らせていた。


彼の手帳には、すでに今日の観察記録が走り書きされている。

『深夜2時。対象(アリア)は、単身で北西エリアへ侵入。その装束は、決意の表れか』


ギデオンの目には、アリアの姿が神々しく変換されて映っていた。


あの厚手のゴムエプロンは、おそらく高位の耐魔素材で編まれた『儀礼用聖衣』。

背中の巨大なタンクは、浄化のための聖水を満たした『聖櫃(アーク)』。

そして顔を覆うマスクは、俗世の穢れを断ち、精神を統一するための『鎮魂の仮面』だろう。


「あそこは……特級指定の危険地帯、『旧・錬金術研究塔』だぞ」


ギデオンの声が震える。

数年前の爆発事故以来、呪いと瘴気が渦巻き、教師ですら近づかない禁忌の地。

そこに、彼女はたった一人で向かおうとしている。


「まさか彼女は、学園に巣食う『過去の呪い』を……誰にも知られず、たった一人で鎮めようというのか?」


ゴクリ、と唾を飲み込む。


そうか、そういうことだったのか。

彼女が普段『汚物係』として振る舞っているのも、すべてはこのためのカモフラージュ。

人知れず世界の均衡を守るため、泥を被り、影に生きる道を選んだ孤高の戦士。


「……尊い」


ギデオンの目から、一筋の涙がツーッと流れた。


「アリア・ミレット。……君は、僕が思っていた以上に気高い魂の持ち主だったんだな」


彼女の背中に、幻視の後光が差しているようにすら見える。

名誉も報酬も求めず、ただ世界を浄化するために死地へ赴く『守護者(ガーディアン)』。


「行かせない。……いや、一人では行かせないぞ」


ギデオンは涙を拭い、拳を握りしめた。


「君が誰にも評価されず、闇の中で戦うというのなら……せめて僕だけは、君の証人になろう。そして、万が一の時は僕が盾になる」


彼は音もなく茂みを掻き分けた。

アリアには気づかれないよう、適度な距離(ストーカー基準)を保ちながら。

勝手な使命感に燃える『自称・騎士』の尾行が始まった。


******


「うっわ……汚なっ!!」


塔の入り口に立った私は、第一声で盛大に文句を垂れた。


巨大な両開きの扉。

その全面が、数年分の埃と、分厚い蜘蛛の巣でコーティングされている。白い糸の束が幾重にも重なり、まるで巨大な繭のようだ。


「これ、扉を開けるだけで全身真っ白になるパターンじゃない。ハウスダストの塊よ、こんなの!」


私は戦慄した。

物理的な攻撃よりも、こういう「生理的に無理」な汚れの方が精神的ダメージが大きい。


「きゅぅ……(かゆいぃ……)」


「だよね、ぷるんちゃん。こんなところで深呼吸したら、肺胞がカビで埋まるわ」


私は背中のタンクから伸びるホースを構えた。

先端のアタッチメントを『広角吸引ノズル』に換装する。


「まずは玄関掃除からよ。……『吸引(バキューム)』、出力30%!」


スイッチオン。


ブォォォォォォォンッ!!


静かな夜に、掃除機の駆動音が轟いた。

魔力で強化されたファンが回転し、猛烈な気流を生み出す。


「吸え吸えぇぇッ! 一匹残らず吸い尽くせぇ!」


シュゴォォォォッ!


分厚い蜘蛛の巣が、まるで綿飴のようにノズルの中へ吸い込まれていく。

埃の塊も、乾いた虫の死骸も、すべてが私の掃除機という名のブラックホールへ消えていく。


ものの十秒。

あんなにおどろおどろしかった入り口が、まるで新築物件のようにスッキリした木目を晒した。


「ふぅ……。まずは第一関門突破ね」


私は満足げに頷き、ピカピカになった扉に手をかけた。


ギィィィィ……。


重い扉が、錆びついた悲鳴を上げながら開いていく。

その隙間から、ひんやりとした冷気と、より濃厚な腐敗臭が漏れ出してきた。


「うへぇ、中はもっと酷そう……」


私は顔をしかめたが、もう引き返せない。

モップを構え直し、暗闇の中へと足を踏み入れた。


――その直後。

私の背後、数十メートルの木陰で。


「……なんという、神技だ」


ギデオンが、開いた口が塞がらないといった体で立ち尽くしていた。


「あれほど強固な『拒絶の結界(蜘蛛の巣)』を、詠唱破棄の風魔法で一瞬にして消滅させた……だと?」


彼には、私の掃除機が見えていない。いや、見えていたとしても、それは「魔力を増幅する杖」にしか見えていないだろう。

彼が見たのは、アリアが筒先を向けた瞬間、恐ろしい速度で障害物が消滅したという事実だけだ。


「結界の解除(ディスペル)速度が速すぎる。……やはり彼女は、古代語魔法(ロスト・マジック)の使い手なのか?」


ギデオンの誤解は、もはや成層圏を突破しつつあった。


「……やはりついて来て正解だった。この先で何が起きようと、僕がすべて記録しなければ」


彼は決意を新たに、私の開けた扉の隙間へと、音もなく滑り込んだ。


塔の内部。

そこは、外の静寂とは打って変わって、異様な空気に満ちていた。


ヒュゥゥゥ……ガタンッ!


頭上の闇から、何かが倒れる音がする。

まるで、侵入者を拒むように。


「……出たわね」


私はゴーグルの奥で目を細めた。

幽霊? 呪い?


いいえ、私の『精密洗浄眼』には、もっと即物的な「原因」が見えている。


「換気不良ね。……淀んだ空気が暴れてるだけだわ」


そう。これは掃除だ。

悪霊退散ではない。ただの大規模な「ハウスクリーニング」の始まりだった。

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