第25話 黒い侵食と、スパの危機

人生には「勝ち確」――つまり、勝利が確定する瞬間というものがある。


 今の私がまさにそれだ。

 地下帝国には、国家最強の騎士団長ベアトリクス様(会員番号2号)という「最強の用心棒」が常駐し、マーサ先生(会員番号1号)という「学園の支配者」がバックにいる。

 資金面では、騎士団の裏金と、S級魔物素材の独占回収権により、もはや使い切れないほどの富が約束されている。


「んふふ……。完璧。あまりにも完璧な『引きこもり貴族ライフ』の完成だわ」


 私は地下スパのスタッフルームで、高級(廃棄品の再利用だが)なソファに身を沈め、天井を見上げて悦に入っていた。


 足元では、黄金色の体を取り戻し、以前より少し金属光沢を帯びた相棒のスライム・ぷるんちゃんが、機嫌よさそうに私の靴を磨いている。


「ねえ、ぷるんちゃん。次の設備投資は何にしようか? 自動マッサージ機(ゴーレム製)? それとも、地下栽培で育てる最高級ハーブ園?」


「きゅぅ!(おにく!)」


「もう、食いしん坊なんだから。でも、今ならドラゴンのステーキだって食べ放題よ」


 ああ、幸せ。

 外の世界では、ギデオン委員長とかいう暑苦しいストーカーが私の影を追っているらしいけれど、ここまでは入ってこられない。ここは選ばれたVIPだけの聖域(サンクチュアリ)なのだから。


 私は優雅に、特製野菜ジュースのグラスを傾けた。


 ――その時だった。


 ズズズッ……。


 不快な音が、部屋の奥から響いた。

 そして次の瞬間。


「……ん?」


 私の鼻腔を、強烈な違和感が襲撃した。


 最初は、焦げたゴムのような臭い。

 次に、腐った卵と古漬けをミキサーにかけて、真夏の炎天下で三日間煮込んだような、鼻が曲がるほどの悪臭が押し寄せた。


「ぶふっ!? くっさ! 何これ!?」


 私は思わずグラスを取り落とし、鼻をつまんだ。

 優雅なティータイムが一瞬で地獄の毒ガス訓練に変わる。


「きゅ、きゅうううううっ!!(くさいぃぃぃ!!)」


 足元のぷるんちゃんが、悲鳴を上げて液状化した。

 それだけではない。部屋の隅にある培養槽の中で、のんびり浮遊していた他のスライムたちも、一斉に青ざめて(色は変わらないが雰囲気でわかる)水槽の底へ逃げ込んでいる。


「ちょ、ちょっと! あの何でも食べる悪食のあんたたちが、臭がるって相当よ!?」


 私はハンカチで鼻と口を覆い、涙目で音の出処を探した。


 臭いの元は、部屋の最奥。

 学園の地下水路から引き込んでいる、メイン配管の継ぎ目だ。


 ボトッ……ボトッ……。


 配管のわずかな隙間から、ドロリとした「何か」が滲み出し、床に滴り落ちていた。


 それは、ただの汚水ではなかった。

 コールタールのように粘つき、どす黒く、まるで生き物のように脈打ちながら、床の石材をジュウジュウと腐食させている。


「……嘘でしょ」


 私の顔から血の気が引いた。

 この地下室は、徹底的な防臭・防音結界を施してある。なのに、この悪臭。

 もし、これがVIPルームにまで漏れ出したら?


 想像してみる。

 優雅にスパを楽しんでいるベアトリクス様とマーサ先生。

 そこへ漂ってくる、この吐き気を催す悪臭。


『……アリア。この店、ドブ川の臭いがするのだが?』

『あらあら、衛生管理もできないのかしら? これでは会員証を返上するしかないわね』


「――ひいぃぃぃッ!!」


 私は頭を抱えて絶叫した。

 ダメだ! それだけは絶対に阻止しなければならない!

 客が離れれば、私の「最強の盾」も「裏金」も消滅する。そして待っているのは、ただの「臭い掃除係」への転落、最悪の場合は公衆衛生法違反での投獄だ!


「許さない……! 私の楽園を汚すテロリストめ……!」


 私は怒りで震える手で、『精密洗浄眼(クリーナーズ・アイ)』を発動させた。


 カッ!


 視界が青白く反転し、配管の中を透視する。


 【解析開始……警告。高濃度の汚染物質を検出】

 【成分:腐敗した魔力残滓、合成獣の体液、禁忌呪法の副産物、その他分類不能なヘドロ】


 表示される文字が、警告色の赤に染まる。


「なによこれ、ゴミの闇鍋じゃない!」


 私は視線を上げ、配管のルートを逆探知した。

 この黒いヘドロは、どこから流れてきている?


 視界の中の地図が、高速でスクロールする。

 男子寮……違う。

 食堂棟……違う。

 実験棟……通過。


 その先。学園の敷地の北西。

 鬱蒼とした森の奥に孤立して建つ、古びた石造りの塔。


「……あそこは」


 私はゴクリと唾を飲み込んだ。


 『旧・錬金術研究塔』。


 数年前、大規模な魔力爆発事故を起こして以来、立ち入り禁止区域に指定されている廃墟だ。

 生徒たちの間では、「夜な夜な実験失敗作のうめき声が聞こえる」「近づくと原因不明の奇病にかかる」「幽霊が出る」と噂される、学園最恐の心霊スポット。


「まさか、あそこが震源地?」


 【肯定。該当区域より、異常な魔力汚染が逆流中】


 システムが無慈悲な事実を告げる。


 私は膝から崩れ落ちそうになった。

 幽霊? 呪い? そんなの、関わりたくないに決まっている。私は平和主義者なのだ。


 でも。


 ズズズ……。


 目の前で、黒いシミがまた一センチ広がった。

 同時に、耐え難い悪臭の濃度が増す。


「……やるしかない」


 私は立ち上がった。

 背中には、生活がかかっている。

 幽霊だろうがゾンビだろうが、私の「商売」の邪魔をするなら、それはただの「排除すべき汚れ」だ。


「ぷるんちゃん! 出撃準備よ!」


「きゅぅ~……(やだぁ~……)」


 ソファの下に隠れていたぷるんちゃんが、嫌そうに首を振る。

 あの食いしん坊が拒否するほどの相手。相当な危険物が待ち受けているに違いない。


「ワガママ言わないの! あんたの大好きな『特級廃棄物』の食べ放題かもしれないのよ!?」


「きゅ!?(ほんと!?)」


 私は相棒を言いくるめ(半分嘘だが)、ロッカーから「決戦用装備」を取り出した。


 厚手のゴム製エプロン。

 防毒マスク付きのゴーグル。

 そして背中には、自作の『高出力魔力吸引機(改造掃除機)』。

 手には、愛用のミスリル合金製モップ。


「待ってなさいよ、元凶。……根こそぎ『洗浄』して、ピカピカの更地にしてやるから!」


 私はゴーグルを装着し、地下室の扉を蹴り開けた。


 向かうは北西の塔。

 時刻は深夜。

 草木も眠る丑三つ時に、怒れる掃除婦の「深夜の課外活動」が幕を開ける。


 ――しかし、私はまだ知らなかった。


 この無謀な突撃を、あの厄介な男に見られていることを。

 そして、この「大掃除」が、学園の歴史から抹消された深い闇を暴くことになるということを。


「くっさーい!! 鼻がもげるぅぅぅ!!」


 私は悲痛な叫びを上げながら、闇夜の校庭へと駆け出した。

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