第3話 地下の相棒、スライムの「ぷるん」

キュウゥゥゥゥ…………!!


 地下室の静寂を切り裂く、悲痛な鳴き声。

 それはまるで、空腹の限界を超えた獣のようであり、同時にエネルギーが臨界点に達した爆弾のカウントダウンのようでもあった。


「ちょ、ちょっと待って!? ぷるんちゃん!? 何その色! 何その発光現象!?」


 私は慌てて駆け寄った。


 私の唯一の家族であり、友達であり、相棒であるスライムの「ぷるん」。

 普段は半透明の水色をしていて、バスケットボールくらいの大きさでポヨポヨしている癒やし系マスコットのはずが……。


 今はバランスボール大に膨れ上がり、全身が危険信号のように赤く明滅している。


(嘘でしょ、まさか病気!? 変なもの拾い食いした!? それとも昨日のスラグが腐ってた!?)


 私の脳裏に最悪の走馬灯が駆け巡る。

 もしあの子が弾け飛んでしまったら、私の学園生活における唯一の心のオアシスが消滅してしまう。それだけは絶対に阻止しなければならない。


 私は震える手で、ぷるんの表面に触れた。


「熱っつ!!」


 反射的に手を引っ込める。


 高熱だ。まるで沸騰したお湯が入った水風船みたいになっている。


「キュウッ! キュウウゥッ!!(訳:お腹すいた! 燃える! なんかすごいのが欲しい!)」


 ぷるんが必死に私に体を擦り付けてくる。

 その動きを見て、私はハッと気づいた。


 これは病気じゃない。

 成長痛――あるいは、「進化の前兆」に伴う、猛烈な魔力飢餓状態(エネルギー・ハングリー)だ。


(そうか……! 最近、質のいいスラグを与えすぎてたから、成長期が来ちゃったんだ!)


 人間の子どもが急に身長が伸びるときに骨が痛むように、スライムも急激な魔力成長には痛みが伴う。

 今のぷるんは、体が求めている魔力量と、実際の摂取量が釣り合わずにガス欠を起こしかけているのだ。


 しかも、求めているのはただの魔力じゃない。今の高熱を中和しつつ、エネルギーに変換できる「火属性」の純粋魔力。


 そんな都合のいいもの、普通ならあるわけが――。


「……あるじゃん」


 私は自分の腰のポーチをバシッと叩いた。


 あるよ。

 さっき、エルザ様が恵んでくださった(ぶちまけてくださった)、最高級のアレが!


「ぷるんちゃん、口開けて! ……あ、口ないか。えっと、吸収体勢とって!」


 私はポーチから、あの『紅蓮エキス』が入った密閉ボトルを取り出した。

 蓋を開けた瞬間、甘く濃厚な、それでいて焦げつくような魔力の香りが地下室に充満する。


 ぷるんの明滅が、ピタリと止まった。

 全身が期待で小刻みに震えている。


「いくよ! 本日のメインディッシュ、公爵令嬢の『イライラ還元・純度100%紅蓮スープ』だッ!」


 ドバァッ!


 私は躊躇なく、ボトルの中身をぷるんの頭上(?)からぶっかけた。


 ジュワアアアアアァァァッ!!


 液体が触れた瞬間、派手な蒸気が立ち昇る。


 普通のスライムなら溶けて消滅しかねない高濃度の火属性魔力。だが、私の『精密洗浄』によって毒素と不純物を極限まで「洗い流された」この液体は、もはや劇薬ではない。

 完全無欠の栄養ドリンクだ。


 ぷるんの体が、波打つように液体を飲み込んでいく。

 赤黒い液体が浸透するにつれ、ぷるんの体色が変化していく。

 危険な点滅信号のような赤から、深く、透明度のある、美しいルビー色へ。


 そして――。


「……ぷるんッ!」


 満足げな、弾むような音が響いた。

 サイズも一回り小さく引き締まり、表面のツヤが段違いに増している。

 内側から放たれる光は、まるで最高級の宝石のようだ。


「はぁ……よかったぁ……」


 私はその場にへたり込んだ。

 防護服の中は冷や汗でぐっしょりだ。


「びっくりさせないでよ、もう。心臓止まるかと思った」


 私が愚痴をこぼすと、ぷるんは「ごめんね」と言うように、私の頬にひんやりとした体を押し付けてきた。


 ルビー色になっても、その感触は変わらない。

 冷たくて、モチモチで、吸い付くような極上の肌触り。


「んふふ……気持ちいい……」


 私は防護マスクを外し、ぷるんの体に顔を埋めた。

 ひんやりとしたゼリーの感触が、火照った肌を鎮めてくれる。

 今日の疲れも、エルザ様の理不尽な罵倒も、取り巻きたちの嘲笑も、すべてが溶けていくようだ。


「ねえ、ぷるんちゃん。今日ね、また『ゴミ』扱いされたよ」


 私はぷるんを抱きしめながら、誰に言うでもなく独り言を漏らす。


「『汚物係』だってさ。私の魔法は掃除にしか使えない、才能の無駄遣いだ、なんて言われちゃって。……悔しいなぁ」


 口では「へへーっ」と平伏していても、やっぱり心には傷がつく。

 私はただ、目の前のものを綺麗にしたいだけなのに。

 どうして「綺麗にする」ことが、「汚い仕事」扱いされなきゃいけないんだろう。


 ぷるんは、そんな私の心情を察したのか、慰めるように体を小刻みに震わせた。

 そして、私の頬にまとわりついた自分の体の一部を、優しく波打たせる。


 ――ポワン。


 微かな音と共に、ぷるんから甘い香りが漂った。

 それは果実のようであり、高級な香水のようでもある。


「……ん? いい匂い」


 顔を上げると、ぷるんの体が微かに発光していた。

 さっき食べた「紅蓮エキス」が消化され、体内で何らかの化学反応を起こしているらしい。


「ありがとうね、慰めてくれて」


 私はぷるんの頭を撫でる。

 その時だった。


 ふと、自分の手を見て違和感を覚えた。


「あれ……?」


 さっきまで防護手袋の下で蒸れて、あかぎれだらけだった私の指先。

 毎日の水仕事と薬品扱いで、ガサガサになっていたはずの皮膚。


 それが今、ぷるんに触れていた部分だけ、驚くほどしっとりとしているのだ。

 いや、しっとりなんてものではない。

 まるで薄皮を一枚剥いだように、キメが整い、白く輝いている。


「……え、すごくない? ハンドクリームいらずじゃん」


 私はまじまじと自分の手を見つめ、それからぷるんを見た。

 ぷるんは「えっへん」と胸を張るように(胸はないけど)、プルルンと揺れた。


 もしかして。

 私の『精密洗浄』で不純物を取り除いたスラグを食べたことで、ぷるんの体液成分が変わった?

 毒素が消えて、純粋な魔力と美容成分だけが濃縮された状態になっているとか?


(……まさかね。そんな都合のいい話、あるわけないか)


 私は苦笑して首を振った。

 たまたまスライムの粘液に保湿効果があっただけだろう。

 でも、それだけでも十分だ。

 私にとって、ここは世界で一番落ち着ける場所なのだから。


「よし、今日もピカピカにするか!」


 私は気を取り直し、地下室の掃除を始めた。


 ここはいわゆる「学園のゴミ捨て場」の最深部だが、私が入念に『洗浄』を繰り返しているおかげで、埃ひとつない清潔な空間になっている。

 壁も床も、私の魔力で磨き上げられ、鏡のように輝いているのだ。


 地上では「汚物係」。

 でもここでは、私はこの空間の支配者だ。

 誰にも邪魔されず、好きなだけ掃除をして、好きなだけぷるんと遊ぶ。


 そう、これこそが私の幸せ。

 高望みなんてしない。

 エルザ様みたいな派手な魔法も、名声もいらない。

 このささやかな平穏が続けば、それで――。


 ズズズズズンッ……!!


 突然、地響きのような音が頭上から降ってきた。

 地下室全体が激しく揺れる。


「きゃっ!? な、なに!?」


 私は掃除用具を構えて身構えた。

 地震? いや、違う。

 音の発生源は、部屋の奥にある巨大なパイプ――「廃棄物投下シュート」だ。


 あそこは、地上で処理しきれない危険な廃棄物が投げ込まれるラインだが、普段はめったに使われない。

 それが今、苦しそうな音を立てて軋んでいる。


 ウゥゥゥゥン――ウゥゥゥゥン――!!


 緊急事態を知らせる魔法警報(アラーム)が、けたたましく鳴り響いた。

 シュートの排出口にある警告灯が、真っ赤に回転する。


「え、嘘……あの警報って、『カテゴリー5・退避推奨』レベルじゃ……」


 私の顔から血の気が引いていく。

 何が来るの?

 エルザ様がまた何かやらかしたの?

 それとも、実験棟が爆発した?


 ゴォォォォォォォッ!!


 シュートの奥から、熱風と共に凄まじい腐臭が噴き出してきた。

 それは、昨日のスラグや今日の廃液なんて比じゃない。

 生物としての本能が「逃げろ」と叫ぶ、死と腐敗の臭い。


 ガコンッ!!


 重厚な金属音と共に、シュートの蓋がこじ開けられる。


 そして吐き出されたのは――。


 黒。

 光を一切反射しない、漆黒の闇のような泥の塊。

 床に落ちた瞬間、ジュッという音を立てて、私がピカピカに磨き上げた石床を侵食し始めた。


「あ、あぁ……」


 私は絶句した。

 知ってる。教科書で見たことがある。

 あれは、数種類の禁忌魔法を失敗させ、さらに処理を誤って暴走させた末に生まれる、魔法界の産業廃棄物の王。


 特級有害廃棄物、『ヴォイド・ブラック・スラグ』。


 触れれば肉が腐り、吸い込めば肺が焼ける、処理不可能な呪いの塊。


「なんで……こんなものが……」


 こんなの、私一人で処理できるわけがない。

 というか、ここにいるだけで死ぬ。


 逃げなきゃ。

 ぷるんを連れて、今すぐ――。


 そう思った瞬間だった。


 私の足元で、ルビー色に輝くぷるんが、プルプルと震えた。


 恐怖で?

 いいえ。


 ぷるんは、まるで目の前に出された最高級のフルコース料理を見るような「食欲」全開の勢いで、その黒い死の塊を見つめていたのだ。


「えっ……ちょ、待っ……ぷるんちゃん!?」


 止める間もなかった。

 ぷるんは弾丸のような勢いで、その猛毒の黒い塊へと飛び込んでいった――。

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