第4話 特級有害廃棄物と奇跡の変異
「ぎゃあああああっ! ぷるんちゃぁぁぁぁんッ!!」
私の絶叫が、地下室のコンクリート壁に反響した。
目の前で繰り広げられている光景は、まさに悪夢。
私の愛するモチモチの癒やし系ペットが、触れるもの全てを腐らせる死の沼『ヴォイド・ブラック・スラグ』の中に、自分からダイブしてしまったのだ。
例えるなら、熱したフライパンの上にバターを投げ込むようなもの。
あるいは、硫酸のプールにマシュマロを落とすようなもの。
一瞬で溶けて消滅する。
骨も残らない(骨ないけど)。
私の唯一の友達が、学園の身勝手な廃棄物のせいで、跡形もなく消え去ってしまう――!
「嫌だぁっ! 吐き出して! 戻ってきてよぉっ!」
私は防護服のフードが脱げるのも構わず、必死に手を伸ばした。
だが、近づけない。
黒いヘドロから立ち昇る瘴気が、目に見えるほどの紫色の靄(もや)となってバリケードを作っているからだ。
吸い込んだだけで肺が焼けつくような刺激臭。私の防護服の表面でさえ、ジリジリと音を立てて白煙を上げ始めている。
(終わった……全部終わった……)
私の視界が涙で滲む。
エルザ様たちの肌荒れを笑っていた罰が当たったんだ。
調子に乗って地下で楽園ごっこなんてしてたから、神様が怒ったんだ。
黒い沼の中心で、ルビー色だったぷるんの体が、どす黒い闇に飲み込まれ、見えなくなっていく。
……はずだった。
ジュルルルルッ……!!
奇妙な音が聞こえた。
何かが溶ける音ではない。
もっとこう、行儀の悪い、吸引力の強い掃除機のような、あるいは麺類を勢いよくすするような音。
「……え?」
涙を拭い、私は目を凝らした。
黒いヘドロの山が、動いている。
いや、減っている?
ジュボッ! ジュボボボボボッ!!
沼の中心に、巨大な渦が発生していた。
そしてその渦の中心には、さっき飛び込んだはずのぷるんがいる。
溶けているんじゃない。
その体を限界まで広げ、薄い膜のように変形させて、自分より遥かに巨大な黒スラグを包み込んでいるのだ!
「う、嘘でしょ……? 食べてるの……?」
あの特級有害廃棄物を?
ドラゴンですら胃もたれして死ぬと言われる、呪いの塊を?
私の理解を超えた光景に、アゴが外れそうになる。
しかし、私の目は『洗浄』スキルの使いすぎで、物質の構成要素を見ることに特化してしまっている。
悲しいかな、この異常事態の細部が、嫌でも見えてしまうのだ。
(解析……解析不能……いや、待って!)
ぷるんの体内で、凄まじい速度の化学反応が起きている。
黒スラグの主成分である「暴走した魔力」「腐食性の呪詛」「物理的な汚泥」。
それらがぷるんの半透明な膜に取り込まれた瞬間、高速回転する洗濯機に放り込まれたようにグルグルと回され、遠心分離にかけられているのだ。
ガリガリガリッ! バチバチッ!
ぷるんの中で、紫色の稲妻のような光が走る。
痛そう。絶対お腹壊すってあれ!
「ぷるんちゃん! 無理しないで! ペッしなさい! 今すぐペッして!」
私が叫んでも、ぷるんは聞く耳を持たない(耳ないけど)。
むしろ、黒いヘドロを飲み込むスピードは加速していく。
ジュオオオオオッ!!
あっという間に、床一面に広がっていた死の沼が、ぷるんの体内に収納されてしまった。
今のぷるんは、元のサイズの十倍――巨大なバランスボールどころか、小さな車くらいの大きさの、真っ黒な球体になっている。
パンパンだ。
はち切れそうだ。
表面が波打ち、時折ボコッと不気味な突起が隆起しては消える。
「……ぷ、ぷるん……?」
私は恐る恐る声をかけた。
返事はない。
黒い球体は、不気味なほど静止している。
ゴクリ、と喉が鳴る。
消化不良?
それとも、やっぱり毒に負けて……?
その時。
カッッッ!!!!
黒い球体の中心から、目が潰れるほど強烈な閃光が走った。
「うわあっ!?」
私は腕で顔を覆い、後ずさる。
光はどんどん強くなる。
まるで地下室に太陽が生まれたみたいだ。
そして、私の『精密洗浄』スキルが、無意識のうちにその現象を実況し始めた。
(――分離完了。毒素構成要素の分解を確認。魔力構造の再構築(リビルド)を開始。不純物除去率、99.99%……100%到達!)
な、なんですってー!?
私でも数時間かかるレベルの精密分離を、体内オート機能で一瞬でやっちゃったの!?
バシュウゥゥゥゥンッ……!
蒸気が噴き出すような音と共に、黒い色が急速に薄れていく。
漆黒から灰色へ。
灰色から白へ。
そして――。
ポワンッ。
地下室が、柔らかく、甘美な光に包まれた。
そこにいたのは、もはや「スライム」という種族名で呼んでいいのか分からない存在だった。
透き通るような、淡く上品な桜色(ロイヤル・ピンク)。
内側から発光するその体は、最高級のローズクォーツのようであり、春の朝焼けのようでもある。
大きさは元のバスケットボールサイズに戻っているが、その密度、その存在感は、以前とは比べ物にならない。
「……き、きれい……」
思わず呟いてしまった。
さっきまでの腐臭はどこへやら。
今の地下室には、満開の花畑のような、芳醇で甘い香りが充満している。
「ぷるんちゃん……生きてるの……?」
私が問いかけると、桜色の球体は、ゆっくりと私の方を向いた。
そして。
プルンッ!
元気よく弾んで、空中で一回転。
着地と同時に、「どうよ!」と言わんばかりにポーズを決めた(形は変わらないけど、雰囲気で分かる)。
「よかったぁぁぁぁ……ッ!!」
私はへなへなと床に崩れ落ちた。
腰が抜けた。もう立てない。
心臓がバクバクいってる。寿命が五年は縮んだ気がする。
「もう! バカ! 食いしん坊! 心配させないでよ!」
私が涙目で怒鳴ると、ぷるんは「てへぺろ」といった感じで体を揺らし、私に近寄ってきた。
スリスリ……。
桜色の体が、私の頬に押し付けられる。
「……ん?」
いつものヒンヤリ感とは少し違う。
人肌のような、ほんのりとした温かさ。
そして何より、触れた瞬間、私の体の中に力が湧いてくるような感覚がある。
「なんか……すごいエネルギー感じるんだけど……」
昨日の「スベスベ感」の比じゃない。
触れているだけで、昨日の徹夜作業の肩こりが消えていく。
目の疲れが取れて、視界がクリアになっていく。
これは一体……?
困惑する私の前で、ぷるんが突然、お腹(?)に力を入れ始めた。
んぐぐぐぐ……!
小刻みに震え、何やらきばっている様子。
「え、なに? まだ何かあるの?」
ポンッ!
軽い音と共に、ぷるんの体が二つに分かれた。
いや、正確には「分裂」して、片方が固形化した?
ぷるんの本体はそのままに、横にコロリと転がった「何か」。
それは、ぷるんと同じ美しい桜色をしているが、もっと色が濃く、そしてゼリーのようにプルプルと震える、半固形の物体だった。
大きさは拳大ほど。
まるで巨大な宝石か、あるいは極上のスイーツのようだ。
「……なにこれ?」
私は這いつくばったまま、その物体に顔を近づけた。
香りが強い。
甘く、濃厚で、脳がとろけそうになるほどの芳香。
これ、食べ物?
それとも宝石?
「キュウッ!(訳:あげる!)」
ぷるんが体を伸ばして、そのゼリーを私の手元に押しやってくる。
プレゼントしてくれるらしい。
「ありがとう……でも、これ何?」
私はおそるおそる、防護手袋を外した素手で、そのゼリーに触れてみた。
ピチャッ。
指先が触れた瞬間。
電撃が走ったような衝撃――ではなく、極上の絹に包まれたような快感が指先から全身へ駆け抜けた。
そして、信じられないことが起きた。
私の指先。
さっきまでスラグ処理用の強力な洗剤で荒れ、ささくれ立っていた親指の皮膚が。
目に見える速度で、ツヤツヤのピンク色に再生したのだ。
「は……?」
私は自分の指を二度見、いや三度見した。
ささくれが消えている。
乾燥して粉を吹いていた爪の甘皮が、サロンでケアした直後のように潤っている。
たった一瞬触れただけで?
(ま、待って。冷静になろう、私)
私は震える手で、そのゼリーを持ち上げた。
ずっしりと重い。
そして、その中には渦巻くような魔力の光が見える。
これはただのスライムの分裂体じゃない。
あの特級有害廃棄物『ヴォイド・ブラック・スラグ』の膨大なエネルギーを、ぷるんという超高性能な生体フィルターで濾過し、毒素を完全に排除して、純粋な「効能」だけを凝縮結晶化させたものだ。
元のスラグの効果は「腐敗と崩壊」。
つまり、細胞を強制的に変化させる力。
そのベクトルを「破壊」から「再生」へ反転させたとしたら……?
(……鑑定スキル、起動)
私は普段、汚れの成分分析にしか使わない生活魔法の応用技術を、この未知の物体に向けた。
アリア・アイ(勝手に命名)が、その構造を丸裸にする。
【鑑定結果】
名称:ロイヤル・ゼリー・スライムコア(未発表変異種)
属性:生命・再生・美
純度:EX(測定不能)
効果:
1.超高速細胞修復(傷、火傷、肌荒れの完全再生)
2.魔力回路の浄化と再構築(デトックス)
3.アンチエイジング(細胞年齢の逆行)
副作用:なし
市場推定価格:測定不能(国家予算レベル)
「…………」
私は静かに鑑定を終了した。
そして、そっとゼリーを床に置いた。
深呼吸を一つ。
スゥー……ハァー……。
「やっべぇもん出来ちゃった」
冷や汗がドッと吹き出した。
これ、知られたら戦争起きるやつだ。
特に、美容に命をかけている貴族の奥様方が知ったら、血で血を洗う争奪戦が始まる。
エルザ様なんて、これ一つのために公爵家の財産半分くらい投げ出してもおかしくない。
でも。
私はプルプルと震える桜色のゼリーを見つめ、次に自分の荒れた手を見た。
そして、頭上の天上――その遥か上にある、華やかな学園の食堂や教室を思い浮かべる。
厚化粧で肌荒れを隠し、私をゴミ扱いして嘲笑う彼女たち。
彼女たちが喉から手が出るほど欲しがる「美」の結晶が、今、ゴミ捨て場の底辺である私の手の中にある。
「……ふふ」
笑いが込み上げてきた。
「あはは……これ、私が全部使っちゃっていいんだよね?」
だって、これはゴミ処理の成果物だもの。
ゴミの所有権は、拾った人にあるって法律で決まってる(決まってないけど)。
「ぷるんちゃん、ありがとう。これ、すごいよ」
私は宝物を抱きしめるように、そのコアをポーチにしまい込んだ。
心臓の鼓動が早鐘を打っている。
恐怖? いいえ、興奮だ。
明日からの学園生活が、今までとは全く違うものになる予感がした。
汚物係のアリアはもう終わり。
これからは、この地下帝国で、私だけが美しくなるんだ。
だが、その時の私はまだ気づいていなかった。
この「奇跡のゼリー」の輝きが強すぎて、どんなに隠しても、闇夜の蛍のように人を引き寄せてしまうことに。
地下室の扉の向こうで、誰かの足音が近づいていることにも気づかずに――。
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