第2話 公爵令嬢の八つ当たりと「最高のご馳走」
翌日の午後。
王立魔法学園、第3演習場には、今日も今日とて爆音と罵声が飛び交っていた。
「あーもうっ! なんなのよ、この湿気は! 髪がまとまらないじゃない!」
演習場のど真ん中で、金切り声が響き渡る。
声の主は、我らが学園の女王様、エルザ・フォン・ローゼンバーグ公爵令嬢だ。
彼女は今、杖を地面に叩きつけんばかりの勢いでイライラしていた。
原因は明白だ。昨日の特大魔法の反動で、自慢の縦ロール髪が静電気を帯びたみたいにボサボサになり、肌の乾燥がピークに達しているからである。
「おい、そこの平民! 湿度調整の魔道具、出力が弱いんじゃないの!?」
「ひぃっ! も、申し訳ありません! 最大出力ですぅ!」
「役立たずね! さっさと新しいのに取り替えなさいよ!」
エルザ様は近くにいた下級生の男子を怒鳴り散らし、そのあおりで発生した熱波を周囲に撒き散らしている。
いやいや、エルザ様。それ湿気のせいじゃありませんから。
貴女が体温調節できてないだけですから。
魔力回路がオーバーヒートして、自分自身が歩く暖房器具になってることに気づいてください。
そんな理不尽な光景を、私は演習場の隅っこ、通称「汚物待機所」から眺めていた。
もちろん、今日も今日とて全身を覆うゴム製の防護服スタイルだ。
(うわぁ……今日のエルザ様、昨日よりさらに仕上がってるなぁ)
私は防護マスクの曇りを指で拭いながら、エルザ様の顔面コンディションをズームアップで解析する。
昨日は「ファンデーションの地割れ」程度だったが、今日はもっと深刻だ。
まず、Tゾーンのテカリが異常。あれは過剰な魔力放出によって皮脂腺がバグを起こしている証拠だ。
そして何より、頬の赤みがチークによるものじゃない。毛細血管が拡張して、炎症を起こしている「魔力火傷」の一歩手前だ。
(あれ、絶対ヒリヒリしてるでしょ。風が吹くだけで痛いやつだわ。なのに、さらに上から厚塗りのパウダー叩いて……傷口に塩塗るような真似を……)
アーメン。
私は心の中で十字を切った。
まあ、自業自得なんだけどね。
「――おい、汚物係」
不意に、ドスの効いた声がかかった。
ビクッと肩を震わせて(0.1秒で演技モードに移行)、私はその場にへたり込む。
「は、はいぃっ!? ご、ご用でしょうかぁ……!?」
見上げると、エルザ様の取り巻き連中が三人、ニヤニヤしながら立っていた。
その手には、通常の演習では使わないような、分厚い鉛色の金属タンクが抱えられている。
タンクの表面には、ドクロマークと『危険・取扱厳重注意』の赤いステッカー。
「お前、昨日なんかブツブツ言いながら掃除してただろ? エルザ様がな、お前の働きぶりを評価してくださったんだよ」
「えっ……ひょ、評価、ですかぁ……?」
「ああ。だから、特別に『ボーナス』をやるってさ」
男子生徒の一人が、タンクの蓋に手をかける。
プシューッ、という嫌な音がして、毒々しい紫色の煙が漏れ出した。
(……ん?)
私の鼻がピクリと動く。
この匂い。
硫黄と、腐った卵と、焦げた砂糖を煮詰めたような、強烈な刺激臭。
「ほらよ、受け取れゴミムシ!」
バシャアアアアッ!!
「ひゃあああああっ!?」
私は悲鳴を上げて飛び退く(フリをして、絶妙な角度で直撃を避ける)。
ドロリとした赤黒い液体が、私の足元の地面を埋め尽くし、ジュワジュワと音を立てて土を溶かし始めた。
防護服の裾に少し飛沫がかかっただけで、ゴムが変色して煙を上げている。
「あはははは! 見ろよあの無様な逃げ方!」
「きったねー! 何その色、ヘドロ?」
「これ、実験棟の地下から出てきた『廃棄魔力液』だろ? 劇薬指定のやつじゃん」
「いいんだよ、ゴミにはゴミがお似合いだろ?」
取り巻きたちは腹を抱えて爆笑している。
騒ぎを聞きつけたエルザ様も、優雅に扇子を仰ぎながら近づいてきた。
「あらあら、随分と派手にこぼしたわねぇ」
「あ、エルザ様ぁ……! こ、これは……!」
「ごめんなさいね? 実験で出た失敗作なんだけど、処分に困っていたの。貴女なら喜んで処理してくれるかと思って」
エルザ様は口元を歪めて笑った。その目は、ストレス発散の道具を見つけたサディストのそれだ。
「それ、高濃度の火属性魔力が凝縮された『変異スラグ』よ。普通の洗浄魔法じゃ中和できないし、触れれば皮膚が焼け爛れるわ。……ふふっ、頑張って綺麗にしなさいな。もし一滴でも残したら、校庭の土を全部舐めさせるから」
「そ、そんなぁ……! 無理ですぅ、こんなのぉ……!」
「殺す気ですかぁ!」
「規則違反ですよぉ……!」
私は涙目で訴える。
周囲の生徒たちも、さすがに少し引いているようだ。
だが、公爵令嬢に逆らえる者はいない。誰もが「可哀想に」「関わらないでおこう」と目を逸らす。
エルザ様は満足げに鼻を鳴らした。
「行くわよ。ああ、せいせいした。少しは気が晴れたわ」
「さすがエルザ様! 慈悲深い!」
「ゴミに仕事を与えてやるなんて、ノブレス・オブリージュですわね!」
高笑いを残し、彼らは演習場を去っていく。
……
…………
………………。
静寂が戻った演習場の片隅。
私は地面に這いつくばったまま、震えていた。
恐怖で?
絶望で?
――いいえ。
(…………キ、キタアアアアアアアアアアアアッ!!!)
歓喜で、だ。
私はガバッと顔を上げ、誰もいないことを確認してから、目の前の「汚物」を凝視した。
赤黒く脈動する粘液。
鼻が曲がりそうな悪臭。
そして、空間を歪めるほどの高密度な魔力波。
(これ……マジで!? 本当にいいの!? これ、市場に出回ったらグラム単価で金貨一枚はくだらない、幻の『紅蓮スラグ』の上澄み液じゃないっすかーーーッ!?)
私は心の中で絶叫し、思わずガッツポーズを決めた。
エルザ様は「実験の失敗作」と言った。
確かに、魔法薬としては失敗作だろう。不純物が多すぎて、人間が摂取すれば内臓が溶ける猛毒だ。
だが、それはあくまで「人間基準」の話。
魔力を食べるスライム、特に火属性への進化を控えている個体にとっては、これ以上ない栄養ドリンクなのだ!
人間で言えば、最高級のヴィンテージワインに、A5ランクのステーキをミキサーにかけて混ぜ込んだような、超・高カロリーエネルギー爆弾!
「うわぁ、ありがとうございますぅ! 一生ついていきますぅ!」
私は誰に聞かせるでもなく感謝の言葉を口にしながら、ゴム手袋をはめ直した。
さあ、仕事の時間だ。
こんなご馳走、一秒たりとも放置して鮮度を落とすわけにはいかない。
「――『精密洗浄(マイクロ・クリーン)』、出力全開、対象限定『毒性・物理不純物』!」
ブォンッ……!
私の指先から、普段の倍以上の密度の魔力光が放たれる。
対象は液体だ。固形物よりも分離の難易度は遥かに高い。
液体の中に溶け込んだ微細な「毒素」の分子だけを特定し、魔力の結合を解いて引き剥がさなければならない。
イメージしろ。
泥水の中から、水分子だけを残して泥の粒子を全て取り除く。
コーヒーの中から、カフェインだけを抽出してノンカフェインにする。
それを、魔力レベルで行うのだ。
(成分解析……完了。有機溶剤系毒素45%、重金属10%、魔力変異体45%……よし、イケる!)
私の脳内で、物質の構造式が展開され、パズルのように組み替えられていく。
幼い頃から家の手伝いで、換気扇の油汚れを分子レベルで分解してきた経験が、ここで生きる。
あの頑固な油汚れに比べれば、貴族様の作った失敗作なんて可愛いものだ!
「分離、抽出、凝縮ッ!」
シュルルルルッ……!
足元に広がっていた赤黒い液体が、生き物のように渦を巻いた。
そして次の瞬間。
バシュッ! という音と共に、毒々しい色が消え失せる。
地面に残ったのは、無害な透明の水たまり。
そして私の手の中にある専用の密閉ボトルには、ルビーのように透き通った、美しい深紅の液体が満たされていた。
不純物ゼロ。
純度100%の『紅蓮エキス』の完成だ。
「……ふぅ」
私は額の汗を拭い、ボトルを光にかざしてうっとりと見つめる。
キラキラと輝くその液体は、もはや芸術品と言っても過言ではない。
「エルザ様……あなたのイライラ、私が全て美味しくいただきました」
あの肌荒れと引き換えに生成されたこのエネルギー。
これをうちの子に与えれば、間違いなくレベルアップする。
そして、その恩恵として生み出されるであろう「何か」は、きっと私の肌をさらにスベスベにしてくれるはずだ。
これぞ、究極の食物連鎖。
貴族がストレスを溜め、汚物を出し、私がそれを回収し、美しくなる。
なんというサステナブルな社会だろうか!
「くっくっく……笑いが止まらないわね」
私はボトルを大切にポーチにしまい、周囲を見回した。
他の生徒たちはもう帰り支度を始めている。
誰も、私がここで錬金術師も真っ青の神業を行っていたことなど気づいていない。
「おい、そこの汚物係! いつまでサボってるんだ! 片付け終わったならさっさと消えろ!」
遠くから教師の怒鳴り声が聞こえた。
「ひぃッ! すみませんぅ! すぐ帰りますぅ!」
私はいつものようにペコペコと頭を下げ、逃げるように演習場を後にする。
だが、その足取りは軽い。
スキップを我慢するのが辛いくらいだ。
(待っててね、ぷるんちゃん! 今日は特上カルビだよー!)
地下へと続く階段を降りる私の顔は、きっと防護マスクの下で、誰よりも邪悪で、そして誰よりも幸せそうに歪んでいたに違いない。
しかし、この時の私は、浮かれすぎていた。
手に入れた「最高のご馳走」の威力が、私の想像を遥かに超えていることに気づいていなかったのだ。
そして、地下室の扉を開けた先に待っている「小さな異変」にも――。
「――ただいまー! ごはんだよー!」
私は勢いよく地下室の重い鉄扉を開け放った。
そこには、いつも通りポヨンと佇む、半透明の愛らしいスライムがいるはずだった。
……ん?
「……え?」
私の動きが止まる。
地下室の暗がりの中。
いつもの場所に、いつものスライムがいない。
代わりにそこにいたのは、昨日よりも明らかにサイズが一回り大きくなり、そして――なぜか全身を激しく明滅させている、発光体だった。
「ぷ、ぷるんちゃん……?」
私が恐る恐る声をかけた瞬間。
その発光体は、私の方を振り向き(目はないけれど)、何とも言えない切迫した音を立てた。
キュウゥゥゥゥ…………!!
それはまるで、「お腹空きすぎて暴走しそうです!」という悲痛な叫びのように聞こえた。
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