第41話 奇跡 2
校門だ!
サヤカを見送り私は校庭に駆け戻る。
「真弓!?」
「ごめん! 梓さんがいるの!! サヤカは逃げてっ!」
サヤカの声を背に、逃げる皆を援護している梓さんの元に駆け寄る。
「梓さん!」
次の瞬間、私の足元にも黒い感触が絡みついた。
ぬるり。
冷たくて、生ぬるくて、最悪の感触。
足首から、這い上がってくる。
逃げなきゃ。
そう思った瞬間、光が走った。
梓さんの矢が、影を撃ち抜く。
影が弾けるように消える。
「真弓さん、私から離れないで!」
梓さんが、私の隣に立った。
弓を構えたまま、周囲を睨みつけている。
矢が放たれるたび、影が消える。
でも――。
「ハァ……ハァ……ッ!」
梓さんの額に、汗が滲んでいた。
呼吸が、荒い。
さっき、矢継ぎ早に力を使ってドームを壊してくれた。
捕らわれそうになってる人たちを助けた。
きっとその代償だ。
影は、それを理解しているみたいに、さらに増えていく。
地面から。
校舎から。
壁から。
あちこちから湧き出して、生徒たちを飲み込んでいく。
悲鳴が、ひとつ、またひとつと途切れていく。
私は、立ち尽くすことしかできなかった。
――その時。
梓さんが、弓をつがえた。
光の矢が収束してゆく。
「あれが……影の焦点ッ!」
狙いの先は、校庭に溢れる影ではなかった。
校庭を覆い尽くすように蠢く、黒い影の塊。その向こう側。
影が幾重にも重なり、壁みたいに立ち上がっている。
その奥に、人影があった。
影に遮られて、輪郭が歪んで見える。
長い髪。さっきよりも更に膨れ上がった体躯。
既に人とは思えない肉色と影色にまみれたシルエット。
四本の腕、そして全身から生えてうねる触手。
肌色が見える場所には、不自然に幾つもの目や口が生えている。
でも、その異形は先生の顔をしていた。
いつも夢中になって少年同士の恋愛を語っていたあの顔が。
「先生っ!……柳田先生っ!!」
思わず、叫んでしまう。
その瞬間、影がざわりと波打つ。
まるで、名前に反応したみたいに。
梓さんが先生に向かって弓を引き絞る。
光が集束してゆく。
輝いているのに熱くない不思議な白い光。
その手がまさに離れようとしたその時――
「止めてくれ!!」
怒鳴るような声が割り込んだ。
久我さんっ!?
人の波をかき分けるようにして、校庭の中央へ飛び出してくる。
肩で息をし、顔色は真っ青だった。
「撃たないでくれっ!!」
久我さんは、影に向かって叫んだ。
梓さんと、そしてその向こうにいる誰かに。
「はるかさんは……被害者なんだ!!」
柳田先生。
でも――。
「はるかさん……」
久我さんが、一歩前に出る。
影が足元に絡みつく。
それでも、止まらない。
「僕だよ。樹だ」
声が、震えている。
「分かるだろ……? 君のこと、ずっと……」
柳田先生の無数の目が、久我さんを捉えた。
ぎょろり、と。
一斉に、視線が集まる。
でも、反応はなかった。
人を見る目じゃない。
「……帰ろう」
久我さんが、必死に声を絞り出す。
「一緒に帰ろう、はるかさん。もう、こんなところ……」
言葉の途中で、声が詰まった。
「……愛してる」
その瞬間。
影の奥で、何かが変わった。
無数にあった目のうち、ひとつが、瞬いた。
人間の、まばたきだった。
柳田先生の顔が、ゆっくりと持ち上がる。
虚ろだった瞳に、かすかな光が宿る。
「いつ……き……」
口が、動いた。
化け物の口じゃない。
先生の、元の口が。
「……樹、さん……?」
掠れた声。
でも、確かに、柳田先生の声だった。
校庭が、静まり返る。
影の動きが、一瞬だけ止まった。
梓さんが、息を呑む。
「……そんな……」
信じられない、という声だった。
「神性と同化した人間が……意識を……」
柳田先生の頬を、涙が伝った。
人間の目から流れる、本物の涙。
「……逃げて……」
先生の声は、震えていた。
「私……もう……戻れない……」
「大丈夫だ」
久我さんが、影を踏み越えてゆく。
影たちは戸惑ったように動かない。
触手が、足首に絡みつく直前で止まる。
これは――先生が、止めているの?
「はるかさん……、今行くから」
久我さんが先生に、手を伸ばす。
「戻れる。僕が連れて帰る」
先生の、人の姿を留めている腕が、そっと持ち上がり、久我さんに差し出されてゆく。
「……樹さん……」
先生が、微笑んだ。
あまりにも、優しい笑顔で。
そして、二人の手が、結ばれた。
あたりはシンとして、影は動こうとしない。
「はるかさん……はるかさん……さぁ、帰ろう」
久我さんは優しく微笑み、異形の腕に頬ずりした。
「奇跡だわ……こんなことがあるなんて……」
梓さんがその光景を見て呆然と呟く。
手にした弓は、いつの間にか下を向いていた。
「うん、久我さんの愛が……通じたんだ……」
――でも。
次の瞬間。
先生の笑顔が、消えた。
消えてしまった。
目の光が、すっと消える。
人間の気配が、引き剥がされるみたいに。
「はるかさんっ!!」
無数の口が、一斉に開いた。
「「「――キテッ!」」」
声が、重なる。
影が、爆発した。
地面から、校舎から、無数の触手が噴き上がる。
黒くて、ぬるぬるした、肉の塊。
「久我さん!!」
叫んだ瞬間、遅かった。
触手が、久我さんを掴む。
腕を。
胴を。
そして――私も。
足首に、冷たい感触。
引きずられる。
バランスを崩して、地面に倒れる。
「真弓さん!」
梓さんが、必死に手を伸ばす。
でも、そういう梓さんにも影が絡みつく。
絡みついた影は一瞬で弾かれるが、数が多くて梓さんも身動きがとれない!
触手が、さらに増えていく。
久我さんも、地面を引きずられていた。
「くっ……!」
抵抗しても、離れない。
その時。
校舎が、うねった。
違う。
校舎が、変質している。
壁が歪み、窓が溶け、柱が肉みたいに膨れ上がる。
建物という形が、崩れていく。
学校が、飲み込まれていく。
どくん。
巨大な鼓動。
――どくん、どくん。
校舎全体が、ひとつの肉の塊になった。
巨大な生物の一部。
脈打つ音が、耳の奥まで響く。
触手が、私をさらに引きずる。
地面が、柔らかくなる。
足が、沈む。
視界が、暗くなっていく。
息が、苦しい。
もう、終わり……でも、不思議と絶望感はなかった。
何故だろう。
きっと私には聞こえていたんだ。
ポキリと、お菓子をかみ砕くその音が。
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