第22話 名前

 リビングのテーブルに案内すると、梓さんは緊張した面持ちで座った。

 母が冷たい麦茶を持ってきてくれる。


「はい、まず飲んで。外、暑かったでしょう」


「ありがとうございます……」


 梓さんが麦茶を一口飲むと、ほっと息をついた。


「ご飯、すぐ温め直すわね。真弓、お風呂沸いてるから、先に入ってきたら?」


「え、でも……」


「あなたも、よかったらお風呂どうぞ。タオルも用意するわ」


 母の優しさに、梓さんが少し戸惑っている。


「あ、あの……本当に、大丈夫なんですか?」


「もちろんよ。真弓の友達なんでしょう? 遠慮しないで」


 母はにこにこしながら、キッチンへ戻っていった。


 私と梓さん、二人きりになる。


「……ごめんね、お母さん、ああいう人だから」


「ううん……嬉しい」


 梓さんが、小さく笑った。


「随分久しぶりなの、こういうの」


「こういうの?」


「家族の、空気」


 その言葉に、胸がきゅっとなった。


「梓さん、お母さん……」


「数年前に、亡くなったの。父は……いるようないないような……」


 梓さんは複雑な笑顔を浮かべて言葉を濁した。

 何か事情があるんだろうな。


「そっか……」


 だから一人で、ホテルで。

 だから、ちゃんとご飯も食べないで。

 村の事情だか神様だか知らないけど、女子高生に背負わせすぎじゃない?


「でも、大丈夫」


 梓さんは、笑顔を作った。


「慣れてるから」


 その笑顔が、少し寂しく見えた。



 お風呂から上がって、ご飯の準備ができた頃。

 梓さんも髪を乾かして、リビングに戻ってきた。


 私の部屋着を貸したから、いつもの制服じゃない梓さん。

 ちょっと新鮮で、可愛い。


「さ、座って座って」


 母が、テーブルに料理を並べていく。

 ご飯、味噌汁、焼き魚、煮物、サラダ。


「わあ……」


 梓さんが、目を見開いた。


「すごい……」


「そう? 普通よ、普通。さ、遠慮しないで食べてね」


「いただきます……」


 梓さんが箸を取る。

 その手が、少し震えている。


 一口、ご飯を食べた瞬間。


「……ん」


 梓さんの目が、潤んだ。


「おいしい……」


「よかった」


 母が嬉しそうに笑う。


「たくさん食べてね。おかわりもあるから」


「はい……」


 梓さんは、ゆっくりと食べ始めた。

 一口一口、大切に噛みしめるように。


 その姿を見て、私も胸が温かくなった。


「梓さん、村ではちゃんと食べてたの?」


「ええ。吉川先生の奥さんが、よく作ってくれた」


「吉川先生!」


 私は思わず声を上げた。


「私も、吉川先生にお世話になったんだよ!」


「え……そうなの?」


「うん。病気で、村で療養してたの。中学の時」


 梓さんが、箸を止めた。


「……そうだったんだ」


「梓さんは、いつ村に?」


「私が行ったのは……真弓さんが戻った後、かな」


「じゃあ、すれ違ってたんだ」


 母が、横から口を挟んだ。


「ねえ、失礼だけどお名前、まだ伺ってなかったわ?」


「あ、失礼しました。矢野です、矢野梓」


「矢野? そう言えばさっきからお話してる村って――」


「虚木村ですか?」


「虚木村……主人の故郷なの」


「あ……そうだったんですね?」


 梓さん少し驚いたように目を開いた。

 どんな表情をしても美人は美人だ。羨ましい。


「あの村は私の母の、故郷なんです」


「まあ!」


 母が驚いた顔をした。


「お母様も、虚木村の方なの?」


「はい……矢野弓子といいます」


 その瞬間。

 母の手が、止まった。


「……え?」


「母は……もう、亡くなってますけど」


「ゆ、弓子さん……?」


 母の声が、震えている。


「矢野弓子さん……って、もしかして……」


 母は、立ち上がった。


「ちょっと待ってて」


 リビングを出ていく母。

 私と梓さん、顔を見合わせる。


「……どうしたんだろう」


「わからない……」


 すぐに母が戻ってきた。

 手には、古いアルバム。


「これ……見てもらっていい?」


 母がアルバムを開く。


 アルバムの紙は、思ったよりも分厚くて、少し黄ばんでいた。

 古い写真特有の、インクと紙が混ざったような匂いが、ふわりと鼻に届く。


 母の指先が、写真の端を押さえている。

 震えているわけじゃない。

 でも、ぎゅっと力が入っているのが分かった。


 時間が、逆流しているみたいだった。

 今ここにあるはずのない過去が、写真の中から這い出してきて、

 私たちの足元にそっと座り込んだような感覚。


 これは、知らなかった話じゃない。

 知らされていなかっただけの、私の過去だ。


 そこには、大きなお腹をさすっている若い頃の母の写真。


 そして――

 お腹の大きな、もう一人の女性。


「この人……」


 梓さんが、息を呑んだ。


「……母、です」


「やっぱり……」


 母の目にも、涙が浮かんでいた。


「弓子さん……あなたの、お母様だったのね」


「……え?」


 私も、思わず声が出た。


「お母さん、どういうこと?」


 母は、ゆっくりと語り始めた。


「真弓がお腹にいた時、私、大変だったの……原因不明の、妊娠中毒症でね、母子ともに生死もわからないような状況で」


 母は、写真を指差した。


「でも、この人、弓子さんが……私を、助けてくれたの」


「……っ」


 梓さんの手が、震えた。


「輸血をしてくれて。それで、症状が治まって」


「輸血……」


「不思議な話なんだけどね。医学的には説明がつかないって、先生も言ってた」


 母は、優しく微笑んだ。


「でも、確かに助かったの。弓子さんのおかげで」


「弓子さんも、妊娠中だったのよ。同じ産婦人科に通ってて」


 母が、もう一枚の写真を取り出す。

 二人の女性が、並んで笑っている。


「梓ちゃんって女の子を産むって、言ってた」


「…………」


 梓さんは、言葉を失っていた。


「真弓って名前も、弓子さんから一字もらったの」


「え……」


 私も、驚いた。


「だって、弓子さんがいなかったら、真弓は生まれてなかったから」


 母の言葉に、胸がいっぱいになる。

 胸の奥が、静かに鳴った。

 心臓が強く打ったわけでもないのに、

 確かに何かが一度、区切りをつけた音がした。


 私は生きている。

 それは当たり前の事実のはずなのに、

 その理由を、初めて正面から突きつけられた気がした。


 誰かの善意と、誰かの血と、

 そして名前に込められた願いの上に、

 私は立っている。


 真弓という名前が、

 急に、重くて、あたたかくて、

 少しだけ怖いものに変わった。


「弓子さんはね、こう言ってくれたの」


 母は、遠い目をした。


「『もしよろしければ、子供たちが生まれたら、会わせてあげたいです』って」


「『真弓ちゃんと梓が、お友達になれたら素敵だなって思うんです』って」


 その言葉に、梓さんの目から涙が溢れた。

 母も涙を浮かべている。


「出産が終って手紙を書いたの。でも、返事もなくて、お伺いした住所からは転居されてて……」


 ぽろぽろと涙を流す母。こんな表情は初めて見た。


「そんな……もう亡くなっていたなんて……いつ頃のお話?」


「つい最近、一年ほど前の話です」


「ご冥福を……お祈りします……」


「ありがとうございます」


「もう一度……もう一度だけでもお会いして、大きくなった真弓をお見せしたかった……っ!」


 顔を覆って嗚咽を漏らす母。

 そんな母に、梓さんは椅子から立ち上がり、そっと肩に手をかけた。


「……母が……」


「ええ」


「母が、真弓さんを……」


 梓さんは、震える手で母の肩をさする。


「母は……私に、言ってたんです」


 掠れた声。


「『あなたには、幸せになってほしい』って」


「『大切な人を、守れる人になってほしい』って」


 涙が、ぽろぽろとこぼれる。


「でも、私……守れなかった……」


「梓さん……」


 私も、立ち上がり思わず梓さんを抱きしめていた。


「大丈夫……大丈夫だから……」


「……うん」


 梓さんは、私の肩に顔を埋めた。


「ありがとう……真弓さん」


 母が、優しく私たちを見守っている。

 長い沈黙の後、梓さんがゆっくりと顔を上げ、ちいさく私に囁いた。


「……お話、してもいい?」


「うん」


「村のこと。母のこと。そして……清音のこと」


 梓さんは、深く息を吸った。


「そして、私が、どうしてここにいるのか」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る