終焉の探偵

カクナ ノゾム

一章

第1話 終焉世界

 ――息を吸った瞬間、甘い匂いが鼻を刺した。


 ここは池袋のはずだった。

 いつもの駅前の雑踏、いつものビルの看板、いつもの人の流れ――

 その全部が、溶けていた。


 ビルの外壁は赤黒い粘膜みたいに脈打ち、東口のロータリーを覆うアスファルトが、胎内の水面のようにふるふると震えている。

 甘い匂いに包まれた地面から立ち上る湯気の奥で、道行く人がゆっくりと形を失っていく。


「……え……?」


 誰かの腕が溶けた。

 誰かの足が、音もなく液体になって崩れた。

 笑顔のまま溶けていく人もいる。

 泣きながら溶ける人もいる。

 でも最後は皆、柔らかな肉の塊となって、地面に吸い込まれていった。


「お母さん……? お母さんどこ……?」


 震える声でスマホを耳に当てる。

 コール音は鳴らない。画面がどろりと歪む。

 アプリのアイコンが、知らない"眼"の形に染まっていく。


「ミサキ? 聞こえる? ねぇ返事してよ!」


 LINEの履歴をタップする。

 そこに写る友人たちの顔が、ゆっくりと"笑ったまま溶けて"いった。

 画像も動画も、すべて赤黒い水に飲まれ、見たこともない音が鳴る。


 ごぼ、ごぼ、ごぼ……


 街全体から響いてくる胎内の水音。

 地面も、建物も、空気すらも、ひとつの巨大な生物になったみたいだった。


「いや……いやだ……!」


 走った。

 でも走るほど、足が地面に沈んでいく。

 柔らかい。脈打っている。

 池袋の街そのものが、何か巨大な生物の胎内になっていた。


 次の瞬間――景色が歪んだ。


 池袋がひとつの膜のように破れ、別の都市が重なり、さらに別の街が重なっていく。

 渋谷、名古屋、上海、ニューヨーク、知らない海辺の街、知らない村。

 世界中の境界が溶け、すべてがひとつに繋がる。


 これはこの街の終わりじゃなかった。

 ――これは、世界の終焉そのものだった。


 そのときだった。 どこからともなく――黒衣を纏った影が現れた。

 その周りから、火が――原初の火が生まれる。


 ぼうっ。


 最初は小さな炎だった。

 赤黒い海の表面に、蝋燭のような青白い炎が灯る。

 それがひとつ、ふたつ、みっつ――


 気づけば、世界中が燃え盛る炎に包まれていた。


 渋谷のスクランブル交差点は劫火に包まれている。

 ニューヨークの高層ビルは紅蓮の炎を上げて天を焦がす。

 名古屋の街路樹は、炎の柱になって立ち上がる。


 けれど――誰も逃げなかった。


 溶けかけた人々は、まるで祝福を受けるように、火炎の中に歩いていく。

 母親が子供の手を引いて、烈火に飲まれる。

 恋人同士が抱き合ったまま、紅蓮の渦に溶けていく。

 老人がひとり、杖をついたまま、静かに燃え尽きていく。


 ――それは奇妙な残虐劇グランギニョール


 泣いている人はいない。 叫んでいる人もいない。


 ただ、みんな――笑っていた。

 まるで「ようやく帰れる」とでも言いたげに。 まるで「これが正しい」とでも言いたげに。


 炎は優しかった。 痛みはなかった。 熱さもなかった。

 ただ、平等に――すべてを灰にしていった。


 池袋のサンシャインビルが轟音を立てて崩れ落ちる。

 その瓦礫が空中で燃え尽き、灰になって舞い上がる。

 東京タワーが、スカイツリーが、皇居が、国会議事堂が、次々と炎の塊に包まれ、赤く輝きながら崩壊していく。


 世界が――劫火に焼かれている。


 でもその炎の中で、誰ひとりとして苦しんでいない。

 みんな、安らかに消えていく。


 それがあまりにも美しくて、それがあまりにも恐ろしくて、私は声も出なかった。


 炎は、ついに私の足元にまで迫ってきた。

 紅蓮の炎が、私の靴を舐める。


 熱くない。 痛くない。


 ああ――これが、終焉なんだ。

 諦めかけたそのとき。

 炎の中心に――彼方にあった黒い影がふわりと目の前に舞い降りた。


 黒いロングコートをはためかせ、静かに劫火の海の中に立つ。

 その姿はまるで歌劇オペラの舞台に立つ俳優のよう。

 燃えさかる炎が万雷の拍手の如くに鳴り響く。


 影に照らされてその表情は見えない、ただ、全身が業火に照らされて赤く光っている。

 男は炎の中を歩いてくる。


 コートの襟元からは、銀色の鎖が、炎の熱にも溶けず、冷たい輝きを放っているのが微かに見えた。

 そして、炎が男の顔を照らし出した。その鋭く開いた黒い瞳は、周囲の紅蓮の炎を映すのではなく、まるで遥か遠い何処かの氷の結晶を映しているかのように透徹していた。


 燃えない。

 溶けない。


 炎が男を避けるように、道を作る。

 男はこちらを見て、ゆっくりと口を開いた。


 けれど――音は、存在しなかった。

 まるでその男だけが、この世界から切り離されているように。


 炎の轟音も、崩れ落ちる建物の音も、人々の最期の吐息も、

 すべてが響き渡っているのに、

 男の声だけが、どこにも届かない。


 唇が言葉を形づくっている。

 確かに何かを言った。

 でもその音だけは、炎にも、溶けた世界にも、どこにも響かない。


 私は手を伸ばした。


「た……す……け……」


 声が震えた。

 炎が私の手を舐める。

 もう、足が溶け始めている。


「助けて……!」


 男に届かないまま、泣き叫ぶ声だけが紅蓮の空に吸い込まれていった。


 炎がすべてを包む。

 世界が、人が、街が、記憶が、

 すべて平等に――灰になっていく。


 最期に見たのは、男の黒いコートの裾が、炎の中で揺れる姿だった。

 黒衣の男が口を開き、何かを語ろうとする。


 だが炎は既にわたしの全身に纏わり付いていた。

 熱い、熱い、でも痛くない! それが怖い! ああ、もう――。

 熱によって筋肉が勝手に動き、わたしの身体は拗くれてゆく。


「あ、ああああああーーーーッ!」


 不意に耳に入ってくる叫び声。

 その叫びが、自分の声だと気づいた瞬間――


 ――世界が破裂した。


 真っ白な閃光。

 炎も、液体も、世界の重なりも、全部が弾け飛んで――

 私は布団の中で跳ね起きた。


 心臓が痛い。

 喉が焼けるほど乾いている。

 耳にはまだごぼ、ごぼ、ごぼ……という胎動が残っていた。

 そして――


 鼻の奥に、灰の匂いが残っていた。

 溶けて燃え上がる世界の中で見た男の口。

 その口は、こう動いていた。


「大丈夫。きっと助けるよ、この終焉世界を」


 その言葉だけが、夢と現実の境界を越えて、私の耳の奥に残っていた。

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