第2話 異界の森、落ちる影

 落ちている──そう気づいたのは、風の感触が戻った瞬間だった。


 白一色の世界が裂け、赤い光が差す。

 次の瞬間、俺は闇の穴へ放り出されるように落ちていた。


「……湊!!」


 叫んでも返事はない。

 掴んでいた手も、もうどこにもなかった。


 胸が裂けそうだ。

 守るって言ったのに。絶対に離さないって誓ったのに──。


 視界が暗転し、そして。

 ドサッ。

 背中が地面に叩きつけられ、肺から息が抜けた。


 湿った草の匂い。

 夜なのに淡く光を放つ木々。

 空には、紫に揺らめく二つの月。


「どこだよ……ここ……」


 頭の痛みを押し込むように立ち上がったそのとき──。


 ガルルル……ッ。


 木々の陰から巨大な影が浮かび上がった。

 狼に似ているが、明らかに違う。

 青い紋様が脈打ち、尻尾は霧のように揺れる。


 紫の瞳が俺を射抜き、喉奥から低い唸りが響いた。


「な……なんだよ……これ……!」


 獣──。

 逃げられない。

 獣が爪を振りかぶり──。


 その瞬間。


「……動くな、坊主」


 風が鳴いた。


 次に気づいたとき、獣の首は地に転がっていた。

 何が起きた?


 俺の前に立つのは、外套を羽織った黒髪の男。

 いつ剣を抜いたのかすら分からなかった。


「生きておるか?」


 落ち着いた声。だが鋭さを帯びている。


「……あんた、誰だよ……」

「宗真(そうま)と名乗っている。立てるか」


 宗真は俺を支えながら言った。


「ここは〈エン=リュウ〉の森。魔獣の縄張りだ。坊主ひとりでは一刻も保たん」

 森の名も魔獣も、まるで現実味がない。

 だけど確かに、俺はもう“どこか別の場所”にいた。


「……弟を……湊を探さないと……!」

「探すには、この森を抜けねばならんだろう。お前にあの魔獣を倒せるか?」


 その一言が刺さり、言い返せなくなる。


「来い。住処が近い」


 ふらつく足で、必死にその背中を追う。


 ***


 森の奥──岩壁に寄り添うように建つ小屋が現れた。


 木の骨組みに金属の装飾。

 屋根には淡く光る石。

 和でも洋でもない、不思議な建物。


 扉が勢いよく開いた。


「ししょー! って、誰そのボロボロの子!?」

 

 俺と同じ年頃の少女が飛び出してくる。

 紅の瞳、黒髪。

 腕を組み、俺を睨みつけた。


「絶対トラブルの匂いしかしないんだけど! また結界が壊れたらどうするの!」

「灯莉(あかり)、文句より先に客人に水を出しなさい」

「はぁ!? なんで私が!」


 ぶつぶつ言いながら、でも視線は何度も俺のほうに漂う。


(なんだよ……こいつ……)


 宗真に案内され、中の部屋で布団に倒れ込む。

 灯莉は不満顔のまま水を置いた。


「傷は浅い。数日は休め」

「……でも、湊を……探さないと……!」


 立ち上がろうとした瞬間、宗真の手が肩を押さえた。


「さっきも言ったが、今のおまえでは魔獣に勝てぬ。外へ出れば死ぬ」

「ちなみにさっきのはランクCだ」

「この森を抜けるには、最低でもランクAを倒せるようにならねばならん」


 さっきの獣が魔獣。

 ランク──なんだよ、それ。


「手を見せてみろ」


 宗真が俺の手を包み、静かに言った。


「この手……守りたいものがある手だ」


 胸に響く。


「おまえは何を守りたい?」


 その問いが、俺の中で深く刺さった。

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