第17話 火付盗賊改

「江戸の鍼治療といえば、按摩の杉山流が有名ですが、白川さんが雨祓いに使われる雨(う)と呼ばれる鍼は、そこの鍼よりも随分と大きいと感じるのですが、やはり唐鍼は和鍼よりも大きいのでしょうか?」


 先程から杉田玄白の質問責めにあっているというのに、どこか嬉しそうな白川涼雨が、茶をゆっくりと飲みながら、丁寧な受け答えをしている。


「今、江戸に出回っている黄帝内経は王冰(おうひょう)という方が、鍼治療の箇所だけを抜粋して編纂した物ですが、白川家が受け継いできた黄帝内経の原本は、霊枢九巻と素問九巻の合わせて十八巻から成る膨大な医学書で、鍼治療についても記されていますが、それは、ほんの一部なのです。

もちろん、白川流霊枢治療でも鍼を用いますが、雨祓いと鍼治療は全く別の分野として捉えているので、唐鍼と和鍼の違いというよりも、別の治療道具だと考えて頂ければと思います。

雨(う)は元々、瀉血(しゃけつ)治療に使われていた道具なのですが、そこから派生して、血ではなく邪気を抜く道具として使われるようになりました」


 感心したように、何度も頷く杉田玄白が、「為になるお話を、色々とお聞かせ頂き感謝しております。次回の学びの会は是非、当家にお越し頂き、現在、和解の最中である蘭語の医学書もご覧になってください」と言った。


 それを聞いた白川涼雨は杉田玄白に、「かたじけない」と頭を下げてから、私の方に笑顔を向ける。


「おなつも一緒にどうだい?

将来は医者になりたいのだろう。

それなら是非、杉田さんの蘭方医学も学んでおかなければならないよ」


 以前に白川涼雨から、「おなつは将来、何になりたいのだい?」と聞かれた時は、何のことか全く理解が出来なかった。


 何故なら、子供の将来は親が決めるものであって、自分で将来を考えるという概念がなかったからだ。


 私が咄嗟に、「お医者様になりたいのです」と言ったことを覚えていたのだろう。

 しかし、それは私にとって白川涼雨に憧れているという意思表示であって、決して生業にしたいという意味ではなかった。


 私は、白川涼雨に「ありがとうございます」と礼を述べてから、杉田玄白の前に両手をついて「よろしくお願い致します」と丁寧に懇願する。


 すると、杉田玄白も私の真似をして「こちらこそ、よろしくお願い致します」と戯けてみせたので、三人が同時に笑い声を弾けさせた。


 その楽しい時間を切り裂くように、老中間の切迫した声が聞こえてくる。


「お、お待ちください。今、白川先生にお取り継ぎしますので、しばらくお待ちください」


 白川涼雨が何事かと外に顔を向けると、「無用じゃあ、そこを退け!」と怒鳴り声がして、いきなり診療室の木戸が開かれた。


 木戸の外には二人の厳しい侍が立っていて、木戸を引いた若い侍の方が大声で名乗りをあげる。


「火付盗賊改方である。白川涼雨という鍼医者はおるか」


 この声に、落ち着いた表情の白川涼雨が、「ここは養生所です。病人や怪我人がいるので大声を出さないでください」と苦情を訴えた。


 すると、その言葉に己れが軽く見られたと思い込んだのか、若い侍が更に大声を出す。


「どこであろうと関係ない!白川涼雨はどこかと聞いておるのだ!」


 白川涼雨は押し問答を諦めて、「私が白川ですが…」と応える。


 この返答に大きく頷いた若い侍が、「ついてまいれ」と吐き捨てたので、白川涼雨は座ったままで「ご用件は何なのです」と切り返した。


 この言葉に激昂した若い侍が、「黙れ!黙ってついて来ればよいのだ!」と吐き捨てるが、白川涼雨は全く動く気配を見せない。


 それを見て、更に激昂した若い侍は、白川涼雨に掴み掛かろうとしたが、その肩を大きな手ががっちりと掴んでいた。


「お待ちください」と低い声を掛けたのは樋口慎之介だ。


 診療室の内廊下にはもう一人、養生所見廻り与力の三好次郎左衛門が控えている。


「矢部様、これは一体何の真似ですか。

養生所のお医師に用があるのなら、我らを通すのが筋ではありませんか」


 三好は、若い侍にではなく外に控えていた年嵩の侍に話しかけている。


 矢部と呼ばれた侍は、「お頭がお呼びなのだ。御家人ごときにお伺いを立てる必要などない」と吐き捨てた。


 すると、さっきまで大人しく成り行きを見守っていた白川涼雨が不適な笑みを浮かべたのだ。


「では、私も旗本ごときの命令には従いません」


 その言葉に、若い侍が「貴様!」と叫びながら刀の鯉口を切ったが、その刀の柄(つか)を樋口の刀の柄が上から押さえ込んだ。


 六尺以上もある大男の樋口に、刀の柄を押さえ込まれては微動だに出来ない。


「私は白川王家の嫡男です。

旗本ごときに命令される謂れは有りません。

文句が有るのなら、北町奉行の曲淵殿か老中の田沼様に話を通してください」


 この言葉に矢部が目を剥く。


「白川王家とはどういうことなのです。

私はただ、お頭から白川という鍼医者を連れてまいれと言われただけで、細かい事情は聞き及んでおりません」


「これが細かいことですか?」と笑顔で問い掛ける三好に、歯切れの悪い言い訳を二三言並べてはみたものの、最後は小さな声で「申し訳ござらん」と謝罪を述べる。


「とはいえ、加役の長谷川様に白川さんを推挙したのはお奉行なので、行かぬという訳にも参りますまい。

白川さんには、お手間を掛けさせて申し訳ありませんが、我らもお供させて頂きますので、長谷川様の役宅までご同行願えんでしょうか?」


 深々と頭を下げる三好に、笑顔を向けた白川涼雨が「かしこまりました」と言って立ち上がる。


 すると、三好が己れの隣に立つ年嵩の侍を紹介した。


「こちらは、火付盗賊改方で与力を務めておられる矢部様です。

まあ与力といっても、町奉行所の与力と違ってご身分は直参旗本ですが…」


 この言葉に矢部は軽く頭を下げた。

白川涼雨もそれに応えるように頭を下げる。


「先ほどは、旗本ごときなどと生意気な口を利いて申し訳ありませんでした。

しかし私は、人をごときなどと軽く見る言葉があまり好きではありません。

本当は、親の身分を口にするのも嫌なのですが、江戸に来て様々な問題を解決するには、親の身分を名乗る方が手っ取り早いと知りました。

しかし、医者の立場からすると、人は役割や身分は違えど、その命の尊さに上も下もないのです」


 この言葉に、与力の矢部は驚いた表情を浮かべながら、白川涼雨を不思議な生き物でも見るように見詰めている。


 私は、白川先生らしいと危うく微笑んでしまいそうになったが、隣に座る杉田玄白は素直な性格なのか、その顔に微かな笑みを浮かべていた。

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