第12話 魂魄の痼り
明るい座敷で目を覚ますと、布団の上に仰向けで寝かされている。
生まれて初めて感じる爽やかな目覚めだった。
今まで、その身に抱えていた粘着質な業(ごう)が、身体からすっぽりと抜け落ちたみたいだ。
布団の上に上半身を起こすと、身体まで軽くなっている。
月代(さかやき)に手をやって、「一体どうなったのだ…」と呟くと、それに応えるように「お加減はいかがですか?」と優しい声が掛けられた。
声がした方に目を向けると、廊下に座っている男が目に入る。
逆光になっているが、その人物が養生所の白川涼雨だと直ぐに分かった。
お高くとまったイケ好かぬ男だと思っていたが、こんなにも優しい顔で笑うのだなと感心してしまう。
「私は、どうしてこんな所で寝ているのだ?」
白川涼雨に訊ねたつもりだが、答えは、意外にも座敷の奥から聞こえてきた。
座敷の奥には、養生所見廻り与力の三好次郎左衛門と三人の男が控えている。
そういえば昨日、「明日は腑分けがあるので、医師の世話役で小塚原に駆り出されるのだ」と愚痴をこぼしていた。
三人の男に見覚えがないのは、この三人が医師だからだろう。
「白川殿が、乱心したおぬしを命懸けで守ってくれたのだ。
白川殿が盾にならねば、おぬしは牢屋敷見廻り同心の乾(いぬい)に斬られていたのだぞ」
三好の言葉で全てを思い出した。
私は、罪人の首を打つことに怯えて、四年前に切腹して果てた父を思い出していたのだ。
しかし、その途端、強い怒りに支配された。
そして、検視役の与力を斬ってやろうと、刀を抜いたところまでは覚えているが、それからのことが全く思い出せない。
混乱している私に、白川涼雨が丁寧な説明を加えてくれる。
「この世界は、全てが陰(雨)と陽(晴)で出来ています。
これは、人の身体に流れる気も同じなのです。
身体には、陽(晴)にあたる聖気と陰(雨)にあたる邪気が有って、どちらも人間には必要な気ですが、毒気である邪気が増え過ぎると、薬気である聖気を駆逐して魂が病んでしまいます。
それを、私達は雨が宿ると呼んでいますが、今回は、樋口さんの身体に雨が宿って、魂が病んでしまったのです。
だから、応急処置として樋口さんの雨を抜き、一旦、この身に取り込んでおきました」
私は、訳が分からないという風に首を左右に振った。
「どうして、危険を冒してまで私を助けたのです。
私は、白川殿にとって敵(かたき)のような存在でしょう?」
私の言葉に、白川涼雨は不思議そうな表情を浮かべながら、こう言い切ったのだ。
「患者に、敵も味方もありません。
病を得た者があれば治すのが医師の務めです」
私は、何の衒いもないその言葉に感動していた。
私が深く頭を下げながら、「かたじけない」と礼を言うと、白川涼雨が笑いながら「礼を申されるのは、まだ早いと思います」と、前置きしてから、「実は、まだ治療の途中なのですよ」と恥ずかしそうに打ち明ける。
しかし、私は「いや、もう十分に良くなりました」と固辞するが、白川涼雨は静かに首を左右に振った。
「私が、樋口さんに施した治療は白川流霊枢治療の雨祓いといって、宿った雨を身体から抜き出して焼き祓うものです。
しかし、それだけでは根本的な治療にはなりません。
何故なら、雨は魂魄の痼りから生まれのです。
魂魄の痼りは心の傷です。
これは肉体の傷と同様に、その傷口が大きければ大きいほど自然には治りません。
治療を施さなければ、いずれ傷が腫れて傷の中から膿が生じます。
この膿が、雨(あめ)なのです。
ですから、傷の腫れや発熱も膿を抜けば一時的に良くなったと勘違いしますが、傷自体が治ったわけではありません。
放っておくと、いずれ死に至ります。
だから、雨を抜くというのは対症療法でしかないのです」
その説明に、納得した私は大きく頷いた。
「今の状態は雨を抜いただけで、心の傷口は塞がっていないというわけですね。
どうすれば、心の傷を治すことが出来るのでしょう?」
私が、素朴な疑問を投げ掛けると、白川涼雨がまた優しく笑う。
武士は、無闇に笑ってはならぬと教育されているが、公家は自由に笑っても良いのだろうか。
「心の傷を治す前に、いくつか樋口さんにお断りせねばなりません」
私が頷くのを確認してから、白川涼雨が説明を始める。
「まず、魂魄の痼りを治療するのは白川流で、雨祓いの邪道にあたり、邪法だと禁じられています。
それを理解した上で、私の治療を受けて欲しいのです。
邪道だと言われる理由は二つ。
一つ目は、邪気(雨)をその身に取り込むと治療師に危険が及ぶからです。
ただ、患者に害はありませんので、そこはご心配なく」
この言葉に三好が素早く反応して、会話に無理やり入ってくる。
「では、邪法が原因で白川家を追われたという噂は、誠なのですね。
どうして、そこまでして邪道だと言われる治療にこだわるのです?
正道の雨祓いだけを施しておけば、自らの身を危険に晒すことも、白川家を追われることもなかったろうに…」
白川涼雨は、溜息を吐き出すようにこう言った。
「最初は、妹の小雨を助けたい一心でした。
小雨も、その身に雨を宿して何年も苦しんでいたのです。
しかし、通常の雨祓いでは小雨を救うことが出来ませんでした。
そこで、黄帝内経に記されている雨祓いの邪法を試したのです。
そして、小雨を救うことは叶いましたが、父からは破門を言い渡されました。
一旦は、破門になりましたが母の取りなしもあって、一回限りであれば目を瞑ると譲歩してくれたのです。
しかし、私はその言葉に従いませんでした。
何故なら、他の患者も救いたいと思ったからです。
それで、家を出されました」
私は、その言葉に驚きを隠せなかった。
いや、驚きというよりも羞恥心だろう。
私は、自らの家門に胡座をかき、その家門を失ったことで何年も忸怩たる思いを抱えてきたのに、目の前の男は、自らの道が正しと思えば、あっさりと家門を捨ててしまえるのだ。
この違いは何だろう。
生まれ持った器の大きさだろうか?
しかし、私の悔恨などお構い無しに、白川涼雨の話は続いていた。
「そして、二つ目の理由とは、この治療を受けると患者の秘密が、治療師に筒抜けになってしまうということです。
白川流霊枢治療を受けられるのは、朝廷でもごく一部の限られた名家だけ…
そんな方々の秘密を知ってしまえば、その治療師は長く生きられません。
この二つが、この治療が邪道だといわれる理由です。
これでも、樋口さんは私の治療を受けたいと思われますか?」
私は、少し躊躇ってから、「秘密が知られるというのは、どの辺りまでの秘密でしょう?」と聞いてみると、白川涼雨がその質問を遮るように、「全ての秘密だと思ってください」と断言した。
それでも、侍の矜持が邪魔をして迷っていると、「ただ、この治療以外に樋口さんの心の傷を治すことは出来ません」と優しく背中を押してくれる。
その言葉に、私が頷いたことを確認した白川涼雨が、心の中で誰かと意思疎通をするかのように、しばらく瞑想していたが、急に目を開くと、私の目を真っ直ぐに見つめながら、「少し話をしましょう」と言ったのだ。
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