第2話 白川涼雨

 まだ明け切らない町中を少女は必死に走っている。


 焼け野原となった神田の裏長屋から和泉橋を渡り、そのまま神田川沿いを走って、焼け落ちた神田明神の前を通り過ぎてから本郷に入ると、町家は極端に少なくなって広大な武家屋敷が点々と続いていた。


 その辺りで力尽きた少女は、荒い息を整えながら、一旦立ち止まって自分の居る場所を確かめる。

 大火事による被害で、すっかり町の風景が変わってしまったのだ。


 既に、駒込追分に入っているので目指す小石川は、もう目と鼻の先だった。

 この辺りの町は、所々に焼け跡が残る斑模様だが、少女がやって来た神田や日本橋界隈は一面が焼け野原で、黒い墨を流し込んだように水墨画の荒野が広がっている。


 少女は、焦げ臭い空気を何度も吸い込みながら息を整えると、自らに気合を入れるように大きく息を吐き出して、膝頭に当てていた手を使い、勢いよく上半身を起こした。

 そして、明け始めた空を睨みつけると再び力強く走り始める。


 駒込追分を右手に見ながら、左に進むと小石川白山権現社が正面にあらわれ始めた。

 ここは焼け落ちることもなく、御救小屋が設置されるまでの間、焼け出された人々の受け入れ先になっていると聞いたが、屋内は、比較的裕福な武士や商人の家族に占領されているので、少女のような裏長屋に暮らす貧乏人は、屋外のあちらこちらに筵を敷いて、まるで物乞いみたいに暮らしているのだ。


 ここまで来ると、町家もまばらになって武家屋敷も広大な伊予今治藩邸が目に入るくらいで、その先には、こんもりとした森が広がっている。

 その森の前に出ると、木々の隙間から朝の木漏れ日が差し込み、森の奥に続く幅一間(一・八メートル)ほどの石畳を照らしていた。


 入口の右手に、木製の立札が立て掛けられているが、少女には何が書かれているのか分からない。

 この森は、幕府が管理する小石川御薬園の入口に当たるはずだが、仰々しい門や塀は設けられておらず、道の向かいに御薬園奉行の屋敷がひっそりと佇んでいるだけだ。


 先に進むと石畳の道は二手に分かれていて、真っ直ぐの道は、途中で石畳が途切れていて両側に畑が見える。

 そして、左に折れ曲がった石畳の先を見ると、木々が切り開かれた空地に、将棋盤を置いたように板塀が張り巡らされており、その右端には無骨な冠木門が設置されていた。


 冠木門の右側には、小石川養生所という墨書き看板が掲げられ、左側の柱には簡易な門番所が設けられている。

 今は門が開かれており、その門前を中間とおぼしき老人が箒で掃き清めていた。


 すると、朝靄の中から少女が急に現れて、何かを告げようと必死に息を整えているので、中間は掃き掃除の手を止めて、まだ息の荒い少女に目を向ける。


 不思議な少女だった。


 八つくらいだろうか、継ぎの当たった粗末な着物は町家に暮らす人々にとって、それほど珍しいものではないが、少女は今しがた焼け出されたように真っ黒に煤けているのだ。


 目黒辺りから出火した大火事が三日も続いて、鎮火したのが十日前、鎮火後の二日間ほどなら、こんな形(なり)の子供を見かけることもあったが、流石に十日も経てば皆落ち着いている。


 孤児だろうか?


 小石川養生所を管轄する町奉行所からは、「大火による被災者や怪我人を無下に扱うべからず」という御触れが出ているので、邪険にするわけにもいかず、中間は少女に歩み寄って「どうしたのかね?」と優しく訊ねた。

 すると少女は、「白川先生にお取り継ぎください」とまるで武家が話すように、丁寧な言葉を口にしたのだ。


 中間は考える。


 先生というからには医師なのだろうが、白川という名に覚えがない。

しばらく考えてから、「ああ」と思い出した。

二ヶ月前に都からやって来た鍼医師が、確か白川涼雨(りょうう)とかいう変わった名前だった。


 小石川養生所の管轄は町奉行所だが、医師の派遣は若年寄りが担当しており、通常は寄合医師や小普請医師などの幕府医師から選ばれるのだが、今回は、北町奉行の曲淵景漸(まがりぶち かげつぐ)が推挙したと聞いている。


 何でも、曲淵が大阪西町奉行だった頃に懇意にしていた公家の長男で、江戸御遊学という名目で押し込んできたらしい。

 しかも、小石川養生所の医師は、そのほとんどが本道、即ち内科の医師で、最近になって傷科(外科)と眼科が新設されたものの、鍼科は開設する予定が無かったにも関わらず、「曲淵が公家のご機嫌伺いで無理やり新設した」と医師の間でも不満が渦巻いている。


 しかし、そんな評判の悪かった白川先生も、他の医師が、幕府医師の家柄であることを鼻にかけて横柄なのに、お公家様でも粗末な作務衣を身にまとい、中間や小物にまで、分け隔てなく接する人柄に好感が持てると、養生所内での評判は上々であった。


 そんな人物なので、中間も普段から親しみを込めて「鍼の先生」と呼んでいたから、咄嗟に名前が出てこなかったのだ。

 小石川養生所では、診察は基本的に受け付けておらず、普段は貧しい民の入院施設として使われているが、今回の大火事で診察や火傷の手当なども行なっており、依頼が有れば白山権現社へ往診にも行っている。


 それでも、養生所の同心を通さずに中間が勝手に医師に取り継ぐと、色々と煩く言われるので、一旦は断ろうかとも考えたが、あの先生なら大丈夫だろうと、少女の願いを聞き入れることにしたのだ。

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