霊枢治療師白川涼雨「雨供養」

井野匠(いのたくみ)

第1話 プロローグ

 雨戸を閉め切った薄暗い座敷に、奇妙な格好の女が座っている。

女は、まっすぐな黒髪を右肩から前に垂らしており、袿(うちき)の合わせを大きく開いて、白いうなじを露わにしていた。


 それだけなら、だらしのない格好というだけだが、女は、丸めた布団を膝の上に乗せ、それを抱えるように頭(こうべ)を垂れているのだ。

その姿は、まるで土壇場の罪人が首を差し出しているように見える。


 そして薄暗い座敷には、むせかえるほどのお香が焚かれており、その部屋をより一層異様な雰囲気に変えていた。

 すると、闇の中から濃紺の作務衣を着た男が現れて、「小雨(さよ)、今から雨(う)を通すよ」と囁いたのだ。


 作務衣の男は、右手の人差し指と親指に三寸(九センチ)ほどの鍼を摘んでいた。

見た目は、治療用の鍼に似ているが、一般的な鍼の長さが一寸六分(五センチ)なのに対して、二倍近くもの長さがあって、よく見れば中が筒状になっている。


 小雨と呼ばれた女が、大きく頷くのを確認した作務衣の男は、「雨(う)」と呼ばれる鍼を素早く刺入した。

 通常の鍼治療では、筒状の鍼管に鍼を入れて、人差し指でトントンと叩いて刺入する菅鍼法(かんしんほう)という技法が用いられるが、作務衣の男は、親指と人差し指で摘んだだけの「雨(う)」を、何の迷いもなく女の白いうなじに突き刺したのだ。


 雨を通し終えた作務衣の男が、何やらブツブツと呪い詞(まじないことば)を唱え始めると、雨(う)の尻、雨柄(うへい)から煙よりも液体に近い霧が吹き出してきた。

 これが、この特殊な鍼を「雨(う)」と呼ぶ理由だろうか。


 部屋を暗くしているので、雨柄から噴き出した白っぽい霧が、逃げ場を探す生き物のように、空中をくるくると舞っているのが見える。

 その霧を、躊躇うようにしばらく見つめていた作務衣の男が、自らの決意を固めるように大きく頷くと、深呼吸をする要領でその霧を口から深く吸い込んでいく。


 全ての霧を吸い込み終えた作務衣の男は、内側から込み上げてくる鋭い痛みに、歯を食い縛ってしばらく耐えていたが、苦痛に歪む顔を天に向けて、大きな身震いを一つすると、急に目を開いて不適な笑みを浮かべたのだ。


 そして、ため息を吐きながらこう呟いた。

「これほど大量の邪気を吸い込むのは初めてだが、何とか抑え込むことができた。

それにしても、人間の邪気とはいろんな味がするものだな…

憎しみの味は辛いし、後悔の味は苦い。

そして、深い悲しみを帯びた小雨の邪気は、酸っぱい味がする。

さあ小雨の邪気よ、その悲しみの理由を私に聞かせてくれ」


 作務衣の男の呟きに、袿の女が何の反応も示さないところをみると、女は意識を失っているのだろう。

すると、作務衣の男が吸い込んだ邪気から、若い男の悲痛な叫び声が聞こえてきた。

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