21 鷹晴ほど信頼している相手はいないというのに


 びぃん、びぃん……、と雨音に混じり一定の間隔を置いて聞こえてくる音に、朱鷺の意識がゆっくりと覚醒する。


 ぼんやりと開けた視界に最初に入ったのは、真っ暗な天井だ。


 一瞬、自分がどこにいるのかわからず混乱に陥った朱鷺の脳裏に、気を失う前のことが甦る。


 船の様子を確認したあと、鷹晴と一緒に奈江の家に鷹晴の兄の想い人について話を聞きに行き、『継晴』という名前を聞いた途端、割れるように頭が痛くなって……。


 いや、痛くなったのは頭だけではない。


 昨日、物の怪に巻きつかれた両足が、突然、燃えるような熱を持って――。


 まるで両足が骨ごと砕かれたのではないかと思うほどの痛みに、立っていることさえできず、崩れ落ちて気を失ったのだ。


 意識が遠のく寸前、あわてふためく鷹晴の声を聞いた気がする。きっと鷹晴が村長の家まで運んでくれたのだろう。


 ゆうべに引き続き、また鷹晴に迷惑をかけてしまった。


 朱鷺が誰よりも迷惑をかけたくないのは鷹晴だというのに、どうしてうまくいかないのだろう。


 唇を噛みしめた朱鷺の耳に、びぃん、びぃんと何かが鳴る音が途切れることなく入ってくる。


 いったい何の音だろうかと不思議に思い、朱鷺はそっと身を起こした。気を失っている間にとうに陽が沈んだらしい。


 暗闇の中、周りで寝ている奥方や雑仕女達の姿がぼんやりと見える。


 朱鷺はかぶっていた衣を脇にやり、両足をぺたぺたとさわってみる。


 ふれた感じでは何ともなさそうだ。あれほど感じていた痛みもすっかり消えている。


 ゆっくりと立ち上がると、足音を忍ばせて簀子と部屋とを遮る簾へと歩み寄った。音はずっと外から聞こえている。


 昨日、簀子で物の怪に襲われた記憶が甦り、足が震える。だが、音の正体を確かめないほうがもっと怖い。


 あと少しで簾に手が届きそうなところで。


「誰だ?」


 低く鋭く誰何する鷹晴の声に、朱鷺は息を呑んだ。


 同時に、勝手に身体が動き、簾をめくって外に出る。


「鷹晴様っ⁉ こんな夜更けにいったい何を……っ⁉」


 突然、簀子に飛び出してきた朱鷺に、鷹晴が目を丸くする。


 その手に弓が握られているのを見て、朱鷺は鷹晴が弦打ちをしていたのだと気がついた。物の怪を近寄らせないために違いない。


「朱鷺……」


 まるで幽霊でも見たかのように、鷹晴が目を瞠ったままかすれた声で朱鷺の名を紡いだ。


 かと思うと、ずいっと身を乗り出す。


「起き出しても大丈夫なのか⁉ 足の痛みは……っ⁉」


「いまは何ともありません。申し訳ございませんでした。鷹晴様にご迷惑を――、っ⁉」


 謝罪が最後まで紡ぐ前に途切れてしまう。


 腕を引かれ、思いきり鷹晴に抱きしめられて。


「よかった……っ! お前が青い顔のまま目を覚まさなかったら、この身を貫いても詫びきれんと……っ!」


「ぶ、物騒なことをおっしゃらないでくださいっ!」


 とんでもないことを言う鷹晴に、夜更けだということも忘れて、すっとんきょうな声が出る。


「私こそ、ご迷惑をおかけして誠に申し訳ございませんでした。きっと、ひどいお手間をおかけして……」


「そんなこと思うはずがないだろう⁉」


 言葉を遮った鷹晴が、朱鷺の身体に回した腕に力をこめる。


「あ、あの……っ」


 鷹晴に限らず、いままでこんな風に誰かに抱きしめられた経験なんてない。


 朱鷺を包み込む鷹晴の身体は大きくて、水干越しでも、鍛えられて引き締まっているのが嫌でもわかる。


 初めてのことへの戸惑いと驚きで、勝手に鼓動が速くなる。


「お前に痛みが残っていなくて、本当によかった……っ」


 心の底から心配していたとわかる声音に、胸の奥が締めつけられる。


 突然、痛みで気を失ってしまうなんて、優しい鷹晴にどれほど心配をかけてしまったのだろう。


 だが、これほど強く抱きしめられる理由なんてない。


「お、お放しくださいっ! もう、何ともありませんから……っ!」


 何だか変だ。足の痛みは消えたはずなのに、今度は胸が痛い。


 心臓が騒ぎすぎて口から飛び出しそうだ。顔だけでなく、身体中に熱がこもっていく。


「あの……っ」


 鷹晴ほど信頼している相手はいないというのに。


 なのに、いまは鷹晴の腕の中にいるのが、ひどく怖い。


 知ってはいけないものにふれてしまいそうで……。


 いますぐ逃げ出してしまいたくなる。


 震える声で懇願すると、鷹晴が我に返ったように息を呑んだ。


「す、すまん……っ! その、安堵のあまり……っ」


 ぱっと手をほどいた鷹晴からそそくさと数歩下がる。


 気まずげに咳払いした鷹晴が気を取り直したように矢をつがえていない弓を構えて弦を鳴らすと、雨音を穿うがつように、湿った夜気に弦の音が響いた。


「もしかして、ずっと鷹晴様が弦を鳴らされていたのですか?」


 簀子には朱鷺と鷹晴のほかには誰もいない。


 心配になって問うと、鷹晴が穏やかにかぶりを振った。


「大丈夫だ。そんなことはない。夕方までは別の者が交代で鳴らしていたし、俺もちゃんとひと眠りした」


「だとしても、まさか、おひとりで朝まで鳴らされるおつもりではないですよね⁉」


 雨雲のせいで月が見えないので、いまが何の刻なのかはわからないが、ひとりで朝までなんて無茶すぎる。


 だが、朱鷺の指摘は図星だったらしい。


 鷹晴が気まずげに顔を背ける。


 夜目でも凛々しいとわかる横顔に浮かんでいるのは、思いつめたような表情だ。 


 その顔を見た途端、思わず朱鷺は口を開いていた。


「代わってください! 私が代わりに弦を鳴らします!」


「な……っ⁉ お前の力で長い間、弦を引けるるわけがないだろう⁉」


 振り向いた鷹晴が目を吊り上げる。朱鷺は黒瑪瑙の瞳を真っ向から見返した。


「やってみなければわからないではありませんか! 鷹晴様は物の怪が近づかないように弦打ちをなさっているんでしょう⁉ だったら、一緒に呪われている私だって、したほうがいいはずです!」


 物の怪に引きずり込まれそうになった朱鷺を助けようとして、鷹晴は巻き込まれたのだ。そんな鷹晴だけに負担をかけるなんて、許せるはずがない。


「自分の面倒はちゃんと自分で見られます! 鷹晴様はただ巻き込まれただけなんですから――」


「違うっ!」


「っ⁉」


 叩き伏せるような鋭い声に息を呑む。


「違う……っ!」


「鷹晴様……?」


 鷹晴が何を言いたいのかわからない。戸惑った声を上げた朱鷺に、鷹晴が口元を歪ませた。



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