2 突然の嵐


 弟分として気さくに接してくれていたのに、ときどき思いつめたような顔で朱鷺を見つめていることが多くなった。なのに、朱鷺と視線があうと、気まずげにふいと顔を逸らしてしまう。


 かと思えば、いまのようにやけに過保護に接してくるのだから、いったい鷹晴が何を考えているのか、さっぱりわからない。


 その戸惑いで、いけないとわかっているのについつい鷹晴に反発してしまう。


 と、すぐ隣からこらえきれないと言わんばかりの笑い声が聞こえてきて、朱鷺と鷹晴は二人そろってそちらを振り向いた。


「けんかするほど仲がよいというが……。お前達はまさにそれだね」


「伯父上! べつに俺は朱鷺とけんかなど……っ!」


「そうです! けんかなんて……っ!」


 貫之に向き直り、同時に口を開いた朱鷺と鷹晴に、貫之がふたたび笑う。二人を見る目は柔らかな弧を描いていた。


「そうか。けんかでないのならばよい。元気があるのはよいことだ」


 まるで孫を見る好々爺のような笑みで貫之が頷く。


「伯父上、俺はもう、元気を褒められる子どもではないのですから……」


 困り顔で言う鷹晴は、まるでしっぽを垂らした大きな犬のようだ。朱鷺もこくこくと頷いて同意をあらわすと、貫之の笑みが深くなった。


「もちろん、わかっておる。おぬしはわしの頼りになる随身だからな。さあ朱鷺、そろそろ中へ戻ろうか。わしのことはよいゆえ、奥方の相手を頼む。……外へ出て、少しは気晴らしになればよいのだがのう……」


「はい……」


 貫之につられたように、朱鷺の声も沈む。貫之と、二回り近く若い奥方は、土佐を出る少し前に、愛娘を亡くしたばかりだ。


 亡くなったお嬢様は天真爛漫な笑顔が本当に愛らしくて、朱鷺にもよく懐いてくれていた。あの笑顔や鞠のように飛びついてくる小さな身体をもう二度と目にすることができないのだと思うと、子守り役だった朱鷺ですら哀しさで胸が張り裂けそうなのだ。親である貫之や奥方の哀しみはいかほどだろう。


 少しでも気がまぎれないかと朱鷺も奥方に言われた時はできるだけ話し相手を務めるようにしているが、簡単に哀しみが癒えるものではないということは、家族を持たない朱鷺でも承知している。


「私からも奥方様を外へお誘いしてみます! こんなにいいお天気で綺麗な景色なのです。少しは奥方様のお気持ちも晴れるかもしれません。……貫之様?」


 船屋形の扉に手をかけようとした朱鷺は、不意に立ち止まった貫之を振り返り、首をかしげる。貫之の向こうには、揺れる甲板の上でも危なげなく立つ鷹晴の姿も見えた。


「どうかなさったのですか?」


 二歩戻り、主の顔を見上げると、貫之は険しい表情で空を見つめていた。


「どうやら、景色を楽しむどころではないらしい。……何やら、よくないモノが近づいてきておる」


「え……っ⁉」


 驚いて貫之の視線を追えば、行く手から、こちらへとものすごい速さで近づく黒雲が見えた。青い空に墨が落ちたかのように、胸騒ぎのする黒雲がどんどん近づいてくる。


「貫之様、あれは……?」


 目の前のものを歌いながらも、そこにはない景色まで幻想させるような奥深さを感じる和歌を詠む貫之だ。


 深い知性と穏やかさをたたえた貫之の目が、常人には見えぬ『ナニカ』まで見ることができるのを、朱鷺は知っている。


 実際にこの三年の間、貫之が託宣めいたことを告げるのを、朱鷺は何度も聞いてきた。


「貫之様、ひとまず中へ入りましょう!」


 あの雲がどんな風によくないのか、朱鷺にはさっぱりわからないが、雨が降り出して老齢の貫之が濡れて風邪を引いたりしては大変だ。


 朱鷺が板戸を大きく上げて促すと、貫之が頷いて板戸をくぐった。


「あら。だんな様、もうお戻りになられたのですか。朱鷺も、まだ外で羽を伸ばしてきてよいのよ?」


 入ってきた貫之と朱鷺を見て、船屋形の奥でわらで編んだ円座わろうだに座る奥方が優しげに話しかける。


「はい、いいお天気だったのですが、雲が――」


 答えようとした朱鷺の声を遮るかのように。


 開けたままだった窓の向こうで真っ白な稲光が閃いたかと思うと、天地を割るかのような雷鳴が轟いた。


「っ⁉」


 朱鷺が小さくこぼした悲鳴をかき消すように、下女達がさらにけたたましい悲鳴を上げる。


 さほど広くもない船屋形に高い声が響き渡り、轟音にやられてしまった耳の中で反響した。


 わぁんと鳴る耳に次いで飛び込んできたのは、まるで桶をひっくり返したように激しく屋根を叩く雨音だ。


 何千もの鼓を叩くかのような雨音は、屋根を突き破るのではないかと思えるほど激しい。


 窓から大粒の雨が降り込み、朱鷺はあわてて窓へ駆け寄るとつっかえ棒で上げていた窓の板を閉めた。


 つい先ほどまであれほど晴れていたというのに、なんという急変なのか。


 いや、驚いている暇はない。


「鷹晴様!」


 甲板に出たままの鷹晴のことを思い出し、朱鷺は入り口近くの壁にかけられているみのと笠を引っ掴むと、板戸を押し開け、外へ飛び出そうとした。


 だが、同時に外側から板戸を引かれ、体勢を崩しそうになる。


「わっ!」


「朱鷺⁉」


 よろめいた身体を鷹晴のたくましい腕に抱きとめられる。雨が降り出したばかりだというのに、頬がふれた水干はすでに湿っており、降り込んだ大粒の雨が朱鷺の顔を濡らした。


「何しに出てきた⁉」


 責めるような鷹晴の口調に、朱鷺はむっと唇を引き結んで、長身の鷹晴を睨み上げる。


「蓑と笠をお持ちしようとしただけですっ!」


 身を離し、手に持った蓑をぐいと押しつける。


 荒天でも、鷹晴は屋形に入らないことが多い。船のことは楫取かじとりである忠持に任せるほかないが、土佐から京へ戻るこの船には、朝廷に献上するための荷が大量に載せられている。


 荷を運ぶにはこの船だけでは足らず、後ろにあと二隻、荷と水主達を載せた船が続いているほどだ。


 波が荒れた時に水主達が船を軽くしようとして勝手に荷を捨てたりしないよう、また、いざという時は貫之が正しい判断を下せるように状況を知らせるべく、六十歳を超えている伯父の代わりに、鷹晴が監督の役目を担っているのだ。


「あ、ああ。すまん」


 朱鷺の勢いに驚いたかのように、鷹晴がぎこちなく頷く。


 だが、二、三言交わす間にも大粒の雨が容赦なく降りそそぎ、大柄な身体を包む水干や小袴をどんどん濡らしていく。


 朱鷺がさほど濡れずにすんでいるのは、鷹晴の長身が雨風を遮ってくれているからだ。


 だが、それでもすべての雨が防げるわけではない。


 横殴りの強い風が吹き、顔にかかった雨の冷たさに、朱鷺は思わず片目をつむる。


 途端、鷹晴が我に返ったように朱鷺の手から蓑と笠を奪い取った。


「礼を言う。だが、お前は中でおとなしくしていろ!」


 鷹晴がもう片方の手で朱鷺の肩を掴み、強引に屋形の中へ押し戻す。一方的な物言いに朱鷺が言い返すより早く、目の前で乱暴に扉が閉められた。


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