記憶を失くした男装の少女は彼女を想う青年貴族とともに物の怪の呪いに立ち向かう ~土佐日記異聞~

綾束 乙@8/18『期待外れ聖女』発売

第一章 和泉灘での嵐

1 記憶を失くした男装の少女


 拍子をあわせて水主かこ達がかいを漕ぐたび、飛沫しぶきが初春のうららかな陽光を跳ね返してきらめく。


 甲板に立ち、白珠を連想させるような飛沫と、その向こうに見える和泉いずみなだの景色を眺める老齢の主・紀貫之きのつらゆきを見上げ、朱鷺ときは気遣わしげに問いかけた。


「貫之様、お寒くはございませんか?」


 暦の上では春を迎え、日に日にあたたかくなってきているとはいえ、海の上を渡る風は湿り気を含んでひんやりと冷たい。


 うなじのところで束ねた朱鷺の長い髪や着物をはためかせて過ぎてゆく。


「心配ありがとう。だが、寒くはないよ」


 孫みたいな年の朱鷺の言葉に、貫之が穏やかに微笑む。


 土佐の国司くにづかさを四年間務めた貫之は、土佐の国衙こくがからみやこへと帰る途上だ。出立してから早ひと月以上たった昨日、ようやく昨日海峡を渡って畿内きないの和泉の国まで辿り着くことができた。


 今日は天気にも恵まれ、朝からずっと和泉国の沿岸を北上している。


「何がご用事がございましたら、何なりとお申しつけください!」


 真摯しんしな思いをまなざしに込め、小柄な朱鷺は貫之を見上げる。


 朱鷺は貫之に返せないほどの大恩がある。


 土佐の国の役所である国衙で使い走りに過ぎなかった身寄りのない朱鷺を、娘がよく懐いているからと幼い娘の子守に取り立ててくれたばかりか、土佐を発つ少し前に彼女が不慮の病で儚くなってからも、変わらず朱鷺を可愛がってくれている。


 亡き娘をしのぶよすがだとしても、引き取ってこうして連れて来てくれるなんて、破格の待遇と言っていい。


 しかも、本当は娘だというのに、水干すいかんに小袴を着て、男童おのわらわの格好をしているわけありの朱鷺を。


「和歌を詠まれるのでしたら、紙と筆をお持ちいたしましょうか?」


 紀家は高い家柄というわけではないが、貫之自身は京でも指折りの歌人だそうだ。天皇の勅命で歌集の選集までした経験があるのだという。


 土佐を発ってからのこれまでの旅路の間も、折にふれては和歌を詠み、何やら書きつけていた。


 尋ねながら、朱鷺は自分の胸がつきりときしむのを感じる。


 昨日、和泉国へ着いた際、貫之からは和泉の灘は白砂青松が美しいと教えてもらっていた。


 波が穏やかな日には、海面が鏡のようにきらめき、砂浜に散る蘇芳色の貝は、松の青さと砂浜の白さをさらに引き立てるのだと。


 貫之が言うとおりの素晴らしい景色に、貫之の奥方やおつきの従者達も、海峡を無事に超えて畿内まで戻れた喜びもあって歓声を上げていたが、朱鷺の胸にあふれ出したのは、喜びではなく胸騒ぎだった。


 不安に慄くあまり、黒崎という名の浜辺を通り過ぎた際に貫之が、


『黒崎は名前のとおり黒く見え、松は青い。磯に寄せる波は雪のように白く、貝の色は蘇芳色だが、黄色だけが欠けていて如来の五色にはひとつ足りないね』


 と残念そうに話した時には、危うく声を上げそうになったほどだ。


 ――朱鷺に欠けているのは、五色の一色どころか、もっともっとたくさんなのだから。


 朱鷺には、子どもの頃の記憶が、まったくない。わかっているのは、生まれ故郷がこの和泉国のどこからしいことと、『とき』という名前しか覚えていなかったこと。


 そして、着物の懐に庶民にはもったいないような丁寧な作りのつげ櫛が入っていたということだけだ。


「朱鷺、どうかしたのかい?」


 船の揺れよりも激しく心を揺さぶる不安に、無意識に懐に入れた櫛を水干の上から握りしめると、貫之に穏やかな声で問われた。


 しわが刻まれた顔に浮かぶ気遣わしげな表情に、朱鷺は弾かれたようにかぶりを振る。大切な主人である貫之に、心配なんてかけたくない。


「いえっ、何でもありません。やっぱり紙と筆をお持ちいたしましょうか? すぐに――」


 できるだけ明るい声を上げてきびすを返そうとした瞬間、ぐいっと強い力で肩を引かれた。


「ひゃっ⁉」


 船の揺れと相まってよろめいた身体が、とすりと引き締まった胸板にぶつかる。体勢を立て直すより早く、精悍せいかんな面輪が朱鷺の視界に大写しになった。


「何かあったのか⁉ 調子が優れないとか、そういう……」


「っ⁉」


 言葉と同時に、身を屈めた鷹晴にこつんを額を合わされ、熱を測られる。


「た、鷹晴たかはる様っ! 大丈夫ですっ!」


 あわてて力いっぱい押し返すも、たくましい長身はびくともしない。逆に朱鷺のほうが後ろへふらついてしまう。


 途端、背中に大きな手のひらが回り、ぐいと引き寄せられた。 


「ほら、ふらついているではないか」


「それは、鷹晴様が急に驚かせるからですっ!」


 貫之の甥であり、随身ずいしんとして補佐を務めている二十歳の鷹晴は、男童にすぎない朱鷺とは身分が違い過ぎる。


 だが、土佐にいたときに弟分として可愛がってもらった気安さで反射的に睨み上げると、黒瑪瑙くろめのうの瞳が真っ直ぐに朱鷺を見下ろしていた。


 まるで心の奥まで見通そうとするかのようなまなざしに、気圧けおされそうになる。


 が、自分から目を逸らすのは悔しくて、唇を引き結んで見つめ続ける。


「ご心配いただくのはありがたいことですが、私はいたって元気です!」


 強い声できっぱりと告げた途端、鷹晴の目が細くなった。


「嘘をつくな。昨日から、物憂げな顔をしているだろう」


「っ」


 できる限り隠していたはずのことを指摘され、言葉に詰まる。


 確かに、昨日土佐の泊(とまり)から海を渡って和泉の灘へ来て以来、どうも調子が悪い。頭が鈍く痛み、吐き気がする。


 この不調は、失われた記憶が何かを訴えようとしているのか、それとも別の理由からなのか……。


 朱鷺には、判断がつかない。


 寄る辺のないこの身は、風と波に揺れる船よりもなお頼りなく、じっとしていると心の奥から湧き出した不安で、勝手にため息が出そうになる。


 それゆえ、こんな調子では朱鷺を可愛がってくれる貫之や奥方に心配をかけてしまうと、海風に当たれば少しは気持ちもまぎれるだろうと、貫之について甲板に出てきたというのに。


 なぜ、鷹晴に見抜かれてしまったのだろう。


「だ、大丈夫ですっ! 別に……っ」


 朱鷺が本当は男童ではなく娘であること、十年前、五、六歳の頃に土佐に流れ着く前の記憶を失っていることは、引き取られると決まった時に、貫之と奥方には話しているが、その場に鷹晴はいなかった。


 だが……。


 もともと、三つほど年上の鷹晴とは、貫之が土佐に赴任した四年前からのつきあいだ。


 当時すでに男装して男童としてふるまっていた朱鷺にとって、気さくで下の者にも分け隔てなく接してくれる鷹晴は、身分の違いはあるものの、頼もしい兄貴分のような存在だった。


 うまがあったからか、貫之の随身として他の役所や村に行く時はいつも朱鷺を供として連れていってくれたばかりか、公務以外の時も何かとかまってくれ、朱鷺も貫之や奥方以上に鷹晴になついていた。


 なのに……。


 土佐を出る少し前から、鷹晴は急に変わってしまった。



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