第8話
エアロックで宇宙服に着替える。まずは冷却下着を先に着て、その上からタイツのよな伸縮性のある服を着る。体にフィットしているが、決して締め付ける感覚じゃない。
次に宇宙服本体に手を伸ばし、体を上からするりと入り込ませた。一分ほど苦戦したがガチャガチャと鳴らしながらやっと完成。グローブに手を通し手を開いては閉めてみる。
少しきついが、0.5気圧に維持されるからちょうどよくなるはずだ。
隣のしのめさんも装着を済ませ、あとはヘルメットをかぶるだけになった。俺たちはヘルメットをかぶり、完全に固定する。腕を上げて動かしてみたがどうやっても取れそうにはなかった。
いったんバイザーを下げると視界はしっかりと暗くなる。ヘルメットに表示されている計器類も問題はなさそうだ。すべて正常値に納まっている。
「しのめさん、聞こえてますか?」
耳元のマイクから彼女の声が聞こえてきた。
「大丈夫です。そちらも聞こえていますね」
「はい」
――「こちらコックピットから。こちらからも宇宙服の状態は見えている。すべて正常値だが、そちら側はどうだ?」
「正常値です」
宇宙服の気圧が下がっていく。1気圧から0.5気圧に。きつかった宇宙服は膨らんでいき、ちょうどよくなってきた。あとはエアロックを真空状態にするだけだ。あと少し……
エアロック内の空気は通気口から宇宙船の中に吸い込まれる。だんだんと音は聞こえなくなり、ただ俺だけがそこに存在するように感じた。
しのめさんの「一緒に」という声だけがここに存在感を生み出してくれる。
「エアロックを真空にした。いつでもハッチを開けてくれ」
俺は着ぐるみのような体を動かしハッチを回した。段々と軽くなり、隙間から少しだけ残った空気が抜けだしていく。ハッチは少しづつ外に向かって開きだしていった。俺たちの体は宇宙に浮かんでいる。
――「宇宙だ」
俺の目前には暗闇が広がっていた。真っ黒な海が広がる中、自然のの核融合炉が永遠とも思える炎を燃やし、俺たちに光を与えていた。
ああ、きれいだ。綺麗。それ以外なんて形容すればいいんだ。俺は思わず手を伸ばしていた。体を前に向かって。
「待って!」
しのめさんに体をつかまれた。
「馬鹿なの!?」
彼女の切迫した声でやっと理解した。俺はハーネスもつけずに宇宙に向かおうとしていたんだ。ただの自殺志願者――何ら変わらない。はあ、あんなにかっこつけて一緒に行きますなんて言ったのにな。
「すみません……」
俺はエアロックのハッチにハーネスを固定した。ガッチリとロックがかかり、俺がどこに行っても支えてくれる。まるで蜘蛛の糸だな。
俺は先に体を出して船の上部に向かって梯子を上った。カツカツと聞こえるはずのない音が耳元から聞こえてくる。マイクの制度が良すぎるせいでしのめさんの息遣いも聞こえてきた。
短く吸って吐く。
彼女でも緊張しているのか……「絶対に成功させましょ」と自分としのめさんに声をかけた。
彼女は「ありがとう」と返す。
しかしそうは言っても怖いものは怖い。俺たちの息だけが聞こえ、周りを見れば俺たちの宇宙船と小さくなった冥王星と点のような冥王星基地。そして球体をなぞるように回っている三基の球体監視衛星。
たったこれだけが近くに見える物体だ。
ふう、落ち着いて対処すればいい。
百メートルの超長距離ハーネス。腰に掛けてある工具一式はしっかりと宇宙服につながれている。
そして一番大切な電波発信機。とりあえず数えきれないほどの周波数を試すとして、あと今までになかった人の声やら鳥のさえずりも入れてみた。空気はないから伝わらないが、AD変換をしてあるので送れるはずだ。
しのめさんが機器を抱えてひょっこりと頭を出した。バイザーが閉じているので顔は全く見えないが、足取りから彼女の興奮は伝わってくる。
俺と彼女は宇宙船の表面を伝いながら球体に向かって進む。
真っ白い球体にパネルがびっしりと敷き詰められ、一寸の隙もなくぴったり接合されているようだ。
俺は超長距離の百メートルハーネスを宇宙船と自分にロックした。
落ち着けよ、俺。成功させるんだろ。
「いっけッぇぇ!」
年甲斐もなく叫ぶ。俺は宇宙船を蹴って真っ暗な宙に浮かんでいた。足元になにもないせいで上下感覚がおかしくなってくる……しっかりディスプレイを見ろよ。俺はディスプレイに表示される平行線に体を合わせる。手動でスラスターを操作して完了した。
――俺の間の前にはパネルが一枚ある。
白いパネルは太陽の光を淡く反射し、まるで夢のようにそこにあった。首を振り向けるとどこまで続いているようなパネルは、宇宙の闇ときれいな境界線を作っていた。
手を伸ばす。
やっと捕らえた。
長い長い旅路は始まりに立った。
ゆっくりと、そして確実に。グローブに込められた手のひらはしっかりとした感触を脳に送ってきた。
冷や冷やとした鉄の感触。サーっと動かしてみたが、すべて同じように構成され、かろうじてある接合面には滑らかな筋があるだけだった。
ああ、来たのか。
もっとこの感慨に浸りたかったが、もちろんそんな時間はなかった。俺は体を球体に固定した。ガッチリと溝に挟まり俺の体を固定してくれる。
「大丈夫です!」
じれったいグローブの親指を立てた。
「わかった」
彼女は俺のハーネスを伝ってやってくる。規則的な振動がハーネスをつながり、彼女の腰につけた機器が重そうにゆらゆらと引っ張られていた。
俺は彼女の手を取って引き寄せる。彼女の体を球体につけ、機器を回収して俺の腰にもハーネスで固定した。
しのめさんも俺と同じように手を伸ばし、ただ声を漏らすだけ。顔を見上げ何度も自分のグローブを見つめなおす。
しばらくしてから彼女は言った。
「機器を作動させましょう」
「分かりました」
俺は機器をパネルに押し付けスイッチを入れた。
「こちらコックピット、起動を確認した。これから送る」
機器は動き始めた。こうなれば俺たちのすることは少ない。不可能なことは判明しているが、これまた念のためパネルに工具を当てた。刃物のようなとがったものは使えないから、あくまでスパナ。
スパナを思いっきり振りかぶり、パネルに向かって叩きつける。
――ガツンッ!
そんな効果音の幻聴が耳を震わせるが、パネルに傷がつきそうにはない。しのめさんに頼んでみたが、これまた空振り。まあ性別なんてものは関係ないよな。
しかしこんなとこでさっさとあきらめるわけにはいかない。俺は何度も繰り返し叩きつける。
カンカンと音が鳴り、空ぶって掠めていく。
てこの原理で外してみようとしてみたが、一切変化なし。
空振りがパネルを揺らし、少しづつ表面の秘密が見えてきた。どうして分からなかったのか分からない。だけどもこれはどこか関係があるのだろう――オーバーテクノロジーというものか。
俺は空ぶっている腕を下した。これ以上やっても仕方ないな、きっと永遠に不毛な攻防が続くだけだ。結局、一グラムも試料を採取することができなかった。
「こちらコックピット、その機器で出せる電波はすべて出し終えた。重ね合わせなどのパターンはまだまだできていないが、今のところ反応はなしだ」
しのめさんが答える。
「それじゃあ人間の声を試してください。きっとこれならできると思います。きっとやってくれると」
「分かった」
機器の小さなLEDは緑から青に変わった。正常に動作している証拠だ。さっきのはただの電波、しかしこっちは複合的な音の波。もっと複雑なものにどんな反応を示すのか確かめてやらないと。
俺たちはただ待った。じっと祈りをささげるしかない自分が疎ましい。しのめさんはこの間もパターンを構築し、次の一手を考え続けていた。
その間もただ淡々と指示されたまま機器は声を届ける。
――「こんにちは、Hello、你好、Hola、السلام عليكم、Здравствуйте、안녕하세요……」
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