進路指導室
翌日から、硝子島の中学校では進路指導が始まった。
いつも通り窓の外の海を眺めていたら、美保さんから声をかけられた。
「谷崎くんって、海が好きなの?」
「どちらかといえば」
どちらでもいいけれど。
希子さんなら、何と答えるだろう?
「ねえ、今日進路指導終わったら一緒に帰ろうよ!」
「……構わないよ」
ぼんやり希子さんについて考えていたせいで、うっかり下校を承諾してしまった。
美保さんは鼻歌を歌いながら自習に戻ってしまった。
進路指導の順番が回ってきて、二者面談のために空き教室に入った。
中では波多が待ち構えていた。
ブルドックを思わせる小太りの体を机に無理やり押し込めている。
ポロシャツからはみ出た腕毛が、何となく汚らしい。
空き教室にぽつんと向かい合わせで置かれた机。
波多は天板を力強く叩き、ここに座れと示す。
「谷崎。昨日海岸で貝を拾っとったらしいな」
もう広まっている。
ぼくは短い肯定とともに頷いた。
「オマエは硝子島前高校に行けよ。成績に関しては、特に言うこともないけんな。じゃあ、教室に帰って次の生徒を呼んで……」
「あ、の」
喉が詰まる。
手が汗ばむ。
「……前から決まっていた進路を変えて、島外の……和歌山の高校に進学したいんです」
言葉にした瞬間、空気が凍った。
開け放たれた窓から、ぬるい風がぼくたちの間を吹き抜ける。
教室の外からは、下級生の部活の賑やかな声が聞こえてきた。
波多先生は、机の端を太い指でこすりながら答えた。
「親父さんに話すがいいか?」
閉口してしまう。
そうなるのも当然の理屈だ。
だって高校進学費用はぼくじゃなくて親が出すんだから。
結局のところ、進路とは大人の意向で決まるものであり、子どもの意思は無視される。
教室の空気が重く濁って淀み、どこかで海鳥が鳴く。
窓の外、遠くで鳴る波の音が、放課後の喧騒をかき消し、まるで島全体が息を潜めているようだ。
「ぼく、硝子島から出たいんです」
「あせらんでもいい。どうせ島には大学がないんだけん、本土に行くのは高校卒業まで待ってもいいんじゃないか?」
机の天板の木目をぼんやりと見つめて、渦巻き模様を目で追う。
「ワシも若い頃は本土に出たもんだ。でも本土は冷たいけんね。都会じゃあ隣に誰が住んどるかも分からん、島なら皆が支えてくれる」
だめだ。
波多に従ったままじゃ、島の歪んだ秩序を変えることなんてできない。
しびれをきらして、恥を忍んで目を伏せて切り出す。
打ち明けること自体が怖い。
「その……父に……、殴られていて」
「どうせ、親父さんに余計なこと言ったんだろ? オマエはプライドが高いけんな」
波多は、決死の告白を軽く笑い飛ばして、心底どうでもよさそうに言った。
「オマエは偉い親父さんの息子だけんね。大げさなこと言って、親父さんに恥をかかせちゃイカンよ」
確かに拳で子どもを躾ける親など珍しくない。
しかし、谷崎雄真はそこらの拳骨親父とは訳が違うのだ。
「……波多先生は、父親に熱したメスで腕を切られて、その傷を自分で縫合するように言われたことがありますか?」
すると、先ほどまで机を叩いていた太い指がぴたりと止まった。
窓の外から下級生が騒ぐ声が聞こえる。
「波多先生も聞いたことがあるはずだ。診療所で亡くなった遺体はいったん父に引き取られて、数日後に火葬されたお骨の状態で遺族に渡される。その間、父が遺体に何をしているか、知ってますか?」
禿げた額にじわりと汗が滲んでいた。
波多はぎこちなく目を逸らしながら答える。
「……真理くんの親父さんがやっと作ってくれた診療所なんだけん。真理くんが変なことを言って、島で一つの診療所がダメになったら、皆が困る。そういうのは、言っちゃいけん」
表面上は優しげな言い回しだが、つまりは完全な否定だ。
個人の悪というより、恐怖と利害による権力への服従。
波多は太い腕で汗を拭いながら、
「真理くんは物分かりのええ子だけん、辛抱してごしない」
頭の中で期待の糸がぷつんと切れた。
希子さんに出会って、行動すれば人生が何か変わるかもしれないと錯覚してしまった。
行動した結果がこれだ。
硝子島にとって『わたつみの坊ちゃん』の苦しみなど、取るに足らない。
島にいる限り自分は助からない。
島は生まれた場所ではあっても、生きていける場所ではない。
視界が暗くなり、波多の声が遠ざかる。
まるで自分が教室から切り離された感覚だ。
感情を殺せ。
「……流石、先生は生徒の味方ですね」
短く皮肉を返した。
声が掠れ、喉から出た言葉が自分のものではないように思われた。
さて、担任との進路指導の結果は、県外進学の否定と、死体解剖の黙殺にすぎなかった。
母や担任に訴えても無駄。
駐在の繁浪さんに話せば何か変わるだろうか?
余命わずかな希子さんを、雄真の解剖台から逃すためには、一体どうすればいいのか。
教室に戻ると美保さんが待ち構えていた。
「谷崎くん、終わった? 一緒に帰ろう! ダビドもいるけどいい?」
駄目とは言えない聞き方。
とはいえ、美保さんの民宿は学校からすぐ近くの港沿いにあるから、少しならいいか。
校舎を出て、長い坂を並んで歩いた。
こうして隣を歩いていると、やはり美保さんは綺麗だと思う。
女子にしては長身のシルエット。
確かソフトボールクラブに入っているから肩の作りもしっかりしていて、下半身も引き締まっていて、お手本のような健康体だ。
きっと臓器も綺麗なんだろう。
坂道を下れば一気に視界が開けて金靄港が見えてくる。
遠くに見える貨物船、波止場で話し込む老人。
どこまでも灰色に広がる水平線が出口のない迷路に思えた。
美保さんが振り向くと、長い三つ編みもそれを追って揺れた。
「風が気持ちいいね! 休憩していこうよ」
ダビドはぼくをちらりと見てから、わざとらしく声を張り上げる。
「いいな。三人でいこうぜ」
ほら、帰りたいなんて言えなくなった。
別に構わないけれど。
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