粘ついた視線
さざなみの音がする。
帰路にて海岸が目に入った。
その場で立ち止まり、海辺の方へと足を伸ばしてみる。
金靄港周辺は、田舎の漁港といった印象だ。
波打ち際に漂うゴミ、錆びた漁具。あちこちに油まみれのゴミやプラスチック片が散乱していた。潮の匂いよりも錆びた金属の臭いの方が強く感じる。
寂れた海で貝殻を拾うなんて馬鹿らしい。けれど希子さんなら笑うかな。
考えながらしゃがみ込み、貝殻を拾った。
海水でまだしっとりしている。綺麗に洗って乾燥させてから、希子さんに持って行ってあげよう。
ふと顔を上げれば、海女たちが海産物をとっていた。
時折響く水音が逆に静寂を際立たせる。
しかし彼女たちは作業の手をぴたりと止めて、ぼくをじっと見つめてきた。
ただ貝殻を拾いに来ただけなのに、なぜか見つめられている。
敵意というよりは、どう扱えばいいか観察されている、という雰囲気だ。
ため息をつく。いつもこうだ。もう帰ろう。
すると、はきはきした声で背後から呼び止められた。
「おい。海辺で何をしてる」
今度は誰だろう。
振り返ると、駐在さんが堤防の上の道路からぼくを見下ろしていた。
街灯の灯りに照らされて、白い自転車に乗っている。
「あれま、わたつみの坊ちゃんだわね。何しとーかね?」
「
繁浪は、硝子島の駐在さん。
まだ三十代ながら青年会の幹部で、確かわたつみ落成祝賀会にも参加していたはずだ。
黒い髪を角刈りに切り揃え、日本男児らしく凛々しい顔立ちをしている。
彼は自転車を止めて、コンクリートの階段を降りてぼくのほうへと降りてくる。
ぼくが手元に貝殻を持ってることに気づくと、怪訝な顔をした。
「どげんした、その貝は」
しまった。
島でのぼくの一挙手一投足は全て『わたつみの坊ちゃん』の行動としてたちまち共有される。
そう思ったら、貝を拾いに来た……と話すのが躊躇われ、適当な理由をつけて誤魔化した。
「理科の生態観察に使います」
「ほう。坊ちゃんは利口だわ」
繁浪は納得したように微笑んでくれた。
「でも暗くなったら、海辺を一人で歩いちゃいけん」
繁浪はちらっと波止場の方を見て、誰もいないか確かめてから低く声をひそめて囁いた。
「……最近、港でガイジンの船がうろついとる。三日前も、ガイジンの男が子どもに話しかけとった。海女の婆さんが追い払ったら、船も急に去ったわ」
彼は、制帽の下の丸い瞳を細め、海の向こうに視線を向ける。
水平線を睨みつけているようにも見えた。
「島の連中は、北の奴らの誘拐じゃないかって怪しんどる。漁協も目を光らせとるけど……坊ちゃんも気をつけな」
「……わかりました。ぼく、もう帰ります」
端的に返す。
島民にとって、外部からの来訪者は常に不穏な異物だ。
それは『わたつみの坊ちゃん』にも当てはまる。だからこそ、ぼくの行動は何気ないものでも注目され、警戒される。
・
「ただいま」
玄関に人気があろうがなかろうが、帰宅時は必ず挨拶をしないと叱られてしまう。
ドアを閉めると、母・
しかし足音の主がぼくだと身留めるとすぐにほっと肩を落とす。
彼女は、細い指の関節が白くなるほどに力を込めて、玄関の鏡を磨いていた。
「雄真さんが帰る前に完璧にしなきゃ……」
血色の悪い唇から、掠れた呟きが漏れる。
谷崎家の床には埃一つ落ちていない。
雄真は鏡に指紋がついているだけで詰り、掃除が不完全であれば理江を殴るからだ。
管理の行き届いた潔癖なまでの清潔。
理江は雑巾から滴り落ちる水に気づいていない様子だ。
「床が濡れてるよ」
ぽつりと指摘するが無視された。拭き掃除に夢中らしい。
だからぼくはそのまま手洗いに向かった。
夕食は相も変わらず静かだった。
理江の手料理は食材にこだわっていて、見た目も完璧だ。だが味がしない。
無味の料理に味付けしようと醤油差しを手に取ったら、母に遮られた。
「真理ちゃん、塩分は健康に悪いよ」
目鼻のパーツが小さく、線の細い美人。
しかしその細い瞳の奥は歪んでいる。
「少しくらい……」
「お母さんは真理ちゃんのためを思って言っているの。それとも、お母さんのご飯、美味しくない?」
醤油差しからそろりと手を離す。
俯いてただ真っ白な皿を見つめていた。
欧州から輸入した高級品のはずだが、目を凝らせば細かい傷がたくさんついている。
一口食べるごとに母の粘ついた視線を感じ、喉が締め付けられるような感覚を覚える。
皿にのった無味の食事を、ろくに咀嚼せずそそくさと口に詰め込んでしまった。そもそも、あまり食欲が湧かないのだ。
真っ白な食卓に咀嚼音だけが響く。
時計の針の音がやけに大きく聞こえた。
父が箸を置いた瞬間、母の手が止まる。
父は食器を持ち上げたと思えばそのままひっくり返して、テーブルクロスの上に料理をたたきつけた。
茶色い煮汁がレースに染みを作る。
またか。これは理江への躾であり、馬鹿げたパフォーマンスの一環だ。
案の定、隣に座る母は身をすくめて固まってしまい、何が気に入らなかったのかと視線を右往左往させている。
ぐちゃぐちゃに散らばった煮物を見下ろして、薄い唇が笑みに歪められる。
「俺はわたつみに戻る。もうすぐ峠の婆さんがいるからな。まずい飯より、死体の解剖が楽しみだ」
父は倫理観が完全に麻痺している。
生命への侮蔑、家庭への無関心、そして支配への陶酔。
母はなおも視線を落とし、皿の下で潰れた魚を生気のない瞳で見つめ続けていた。
煮汁の汚れが白いテーブルクロスをじわじわと浸食し続けている。
・
翌朝になって朝食を食べようと階下に降りると、キッチンには母のほっそりした背中があった。
白タイル張りのアイランドキッチンの真ん中で、神経質そうに肩をすぼめて林檎を切っていた。
声をかけると、彼女はきゃっと小さく叫んで振り向いた。
「ああ驚いた。起きたの、真理ちゃん」
「うん、さっきね」
無味の朝食を無理やり口に押し込みながら、
「……母さん、ぼくが中学校を卒業したら、離婚して和歌山に行こうよ」
「できるわけがないでしょう。仲人のおじさんに何て言えばいいの」
母は唇を捻じ曲げて冷笑する。
「それなら……母さんはずっと、硝子島で生きるつもりなのか」
「和歌山の家には兄さんが同居しているのよ。兄さんの名義に書き換えられているから、私たちを引き取ることなんてできないの」
「でも、連絡すれば……」
「……お母さんね、もう十年以上和歌山と連絡をとっていないの。昔年賀状を書いたら、雄真さんに見つかって、捨てられて……」
くぼんだ小さな瞳が伏せられた。
過去の記憶が駆け巡る。
初めて『解剖実習』に参加した小学一年生の時、恐ろしさに逃げようとしたけれど、足がすくんで動けなかった。
理屈では逃げられるはずなのに、実際には足を動かせないのだ。
今の理江も、金銭的にも精神的にも身動きが取れない。
だが雄真に従っていれば、少なくとも夫婦という体裁があるし、最低限の生活は保証される。雄真もそれをわかっているから妻を蔑ろにする。
だったらせめて、ぼくを巻き込むな。
「デザートに林檎はどう? 今日も暑いんだから、たくさん食べて精をつけなくちゃ」
「……ううん、いらない。ぼく、もう行くよ」
林檎を押し付けられたが遠慮した。
空きっ腹にはご飯で十分だった。
それにもともと、甘いものは好きじゃない。
「そうそう真理ちゃん。今日の夜も地下室に来てって、お父さんが」
理江は傷だらけの微笑みを作った。
「帰ったら、お父さんにちゃんと謝って、仲直りするんだよ」
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