19.赤鴉と白雅
外気は涼しいくらいに冷えていて、興奮して火照った肌には心地よい。城下町の明かりが、まるで夜空をひっくり返したみたいに瞬いている。胸の高鳴りに、冷えた風が心地よかった。
遠くでは屋台を片づける音や、人々の笑い声が、風にちぎれて漂ってきた。
眠らない町、帝仁。そんな言葉が、ふと頭に浮かんで、自分はそんなに詩的な人間だったかと、白雅は可笑しく思った。
長くも短くもない時が過ぎた頃、背後で衣擦れの気配がひとつ、夜気に揺れた。白雅は背後から声を掛けられた。
「あまり涼み過ぎると身体が冷えるぞ。女が身体を冷やすもんじゃない」
「赤鴉」
声だけでわかる。振り向けば、間違いなく赤鴉だった。手には肩掛けを持っている。上から羽織らせられた。
「……ありがと。なんだか赤鴉に気遣われるなんて、違和感がすごいな」
冷えた空気の中、その布だけがひどく温かかった。
「失礼なヤツだな。お前はひと言多いんだよ」
「それは間違いなく赤鴉の影響だと思う」
白雅の返答は、どうやら赤鴉の痛いところを突いたらしい。赤鴉はグッと言葉に詰まった。
白雅は笑った。昔と変わっていないことに安心する。もちろん変わった部分もたくさんあるだろう。だが、赤鴉という人間の根幹部分は変わっていない。口は悪いが根は優しい人なのだ。いや、口は悪すぎるかもしれないが。
「未だに信じられないよ。赤鴉が王様だなんて。もともと王子様だったのか?」
「まぁな。王位継承権は下から数えたほうが早かった。だから気楽に旅もできた。継ぐ気はさらさらなかったんだが、ままならんものだ」
白雅は、その声音の奥に淡い影を感じ取った。赤鴉の言葉にはどこか諦観の響きがあった。旅に出ていたからこそ、醜い王位争いに巻き込まれずに済んだのだが、そのため一人生き残ってしまった。こうなれば、王子に生まれついた宿命だと諦めざるを得なかったのだ。
「どうして名前を変えたんだ?」
「あー、それな。ちぃっとばっかし赤鴉として有名になり過ぎたんだよなー。俺の命やら名声やらを狙っているヤツらが国内外にウジャウジャいやがってな。国政の邪魔をされるのも面倒なんで、即位のときに『紅煇』って自分で名付けたんだ。紫闇が自分で自分の名前を付けたの思い出してよ」
聞きながら、白雅の胸はわずかに締めつけられた。赤鴉は肩を竦めた。得意でも照れでもない、不思議な表情だった。白雅には、それがほんの少しだけ、寂しげにも見えた。
「そうなんだ。まぁ、どっちも似合っていると思う。私の中では赤鴉の印象が強すぎるけどな」
「そうか。緋煉の前では構わないが、それ以外の前では紅煇と呼べ。面倒事は御免だ」
白雅は素直に頷いた。
「わかった。それにしても、緋煉か。ずいぶんと信用しているみたいだな」
赤鴉の横顔に、白雅はどこか誇らしげなものを見た。
「あぁ。あいつは筋の通った信念を持つ男だからな。一定以上は信頼している。だがな、あいつは相当な狸野郎だぞ。丁寧なのは口調だけだ。俺への態度を見ただろ?」
「見た。仮にも自分の仕える国王をアンタ呼ばわりって凄いよな。赤鴉に忠誠を誓っているわけじゃないのか?」
赤鴉は苦笑するしかなかった。王ではなく国と百姓(ひゃくせい)に仕える緋煉にとって、王はただの管理者だ。気に入らなければ首を挿げ替えるだけ。それを実行できるだけの地位と権力を与えたのは他ならぬ赤鴉自身だ。緋煉がそういう人間だと知ったうえで登用した。もし不適格と見做されるようならば、それは赤鴉の責任だった。
「あいつは王ではなく国と民に仕える。それこそが本来の政治家のあるべき姿だと俺は思う。だからいいんだ」
そう言う赤鴉に、白雅はニマニマとした笑みを返した。
「……なんだよ」
「いや、ちゃんと王様やっているんだなーって思っただけ。凄いよ、赤鴉。やっぱり尊敬する」
「……そうか」
てっきり、当然だろ、とか、もっと言え、とか、そんな言葉が返ってくるものと思っていた白雅は不思議に思って赤鴉を覗き込んだ。暗がりでわかりにくいが、そっぽを向いて頬を掻いている。どうやら柄にもなく照れているようだった。
赤鴉の横顔は、いつもよりわずかに硬い。言葉を選んでいる──そんな気配が白雅にもわかった。
「なぁ、白雅」
「?」
白雅は小首をかしげる。赤鴉はなにかを決意したように、わずかに息を整えた。いつもの軽口とは違う、慎重な沈黙が夜気に落ちる。
「お前、俺の嫁に来いよ」
「は?」
赤鴉の言葉に、白雅は混乱した。嫁? 誰が、誰の? どう考えてみても答えはひとつしかない。赤鴉は白雅に求婚しているのだ。
「って……えぇっ!?」
「なんだよ、その反応は。この俺の嫁だぞ? 泣いて喜べ」
「いやいやいやいや、なにその俺様対応。ちょっと待て。頭混乱してなに言っているのかわかんなくなってきた……」
混乱しまくっている白雅に、赤鴉は苦笑すると、そっと白雅を引き寄せた。赤鴉の腕の中に、白雅の華奢な身体がすっぽりと納まってしまう。
「落ち着けって。今すぐ返事をしろなんて言わねぇ。王太子を送り届けて、それからでも……」
白雅の胸がぎゅっと縮んだ。呼吸が浅くなる。
「いや、本当に待ってくれ。そういう問題じゃないんだ」
本当になにを言ったらいいのかわからない。嬉しい。恥ずかしい。だが、それ以上に。
「赤鴉、どうしよう。私、そんなことを言われるなんて、思ってもみなかった。嬉しい。だけど──駄目なんだ」
「白雅?」
言葉にする前から、胸の奥がひどく痛んだ。泣きそうな声で、必死に言い募る白雅に、赤鴉は訝しげに眉根を寄せた。
「駄目なんだ、赤鴉。私は……私の生は、もう竜神のものなんだ──。あの日、竜神に願いを叶えてもらったときから、ずっと」
「!」
それが、白雅の支払うべき対価だった。竜神とともに生きる。その意味を、白雅は本質から理解していた。
「ごめん、赤鴉……私は、赤鴉の妻にはなれない。赤鴉に恋することも、許されない。私は、私は──」
「……もう、いい。全部わかった。わかったから、もういいんだ。自分を責めるな、白雅」
ギュッと赤鴉に抱き竦められた。その温もりに涙がこぼれそうになる。赤鴉の衣からはほのかに日向の匂いがした。白雅は手を伸ばして、赤鴉の身体に縋りつく。
これで最後だ。きっと、もう二度と、こんな時は訪れない。赤鴉に甘えることも、赤鴉に一人の女性として見てもらえることも、もう、ない。白雅が全部自分で手放してしまったのだ。
「ごめん、赤鴉。赤鴉のこと、大好きだよ。だから……」
どうか、幸せに。それだけを願った。身体が離れる。赤鴉と至近距離で見つめ合った。髪を梳き払われる。
「最後だから許せ、竜神」
「え?」
唇が、柔らかく重なった。
*
気づけば、白雅は与えられた自室にいた。どうやって帰ってきたのか、まるで覚えていない。寝台に突っ伏す。竜神は沈黙を守っていた。
ふと、部屋の扉が叩かれた。
「白雅、起きてるかい?」
紫闇だった。もう起きあがって、扉を開ける元気もなかった。
「開いている」
それだけ答えると、紫闇は勝手に部屋に入ってきた。寝台に突っ伏している白雅を見て、ため息をついた。
「こんなこったろうと思ったよ。様子を見にきて正解だったねぇ」
「……どういう意味だ」
紫闇は寝台に近づくと、白雅の頭の近くに腰をおろした。そのまま手を白雅の頭に伸ばす。その手は、いい子、いい子とでもいうように白雅の頭を撫でた。
「赤鴉となんかあったんだろう? それくらいわかるよ。だいたい予想はつくけど……なにがあったか話しておくれよ」
「俺の嫁に来い、と言われて……」
それだけで紫闇はすべてを察した。
「そうかい。つらかったわねぇ。アンタは自分の感情よりも竜神との約束を優先した。偉かったじゃないか」
「当然だ。それが対価なのだから……」
「だけどねぇ、そんなふうに自分を抑えられる人間は、そう多くないよ。人ってのは、目の前の幸せにすぐフラッと行くもんさ。アンタは──よく耐えたよ。さすが、アタシの自慢の娘だ」
紫闇の言葉を聞いた瞬間、胸の奥がぎゅっと縮んだ。こらえていた涙が、堰を切ったように頬を伝った。
白雅は泣いた。もう戻らない時を思って、子供のように泣きじゃくった。紫闇は、そんな白雅の傍にずっといてくれたのだった。そして、二人で一緒に眠った。
次の日、白雅たち四人は帝仁の王宮を辞した。忉李と景葵を桜花国に送り届けるためだ。紅煇王は気前よく、ポンと馬車を一台貸し与えてくれた。
「ちゃんと返しに来いよ。そうすりゃ、また会う口実ができる」
「アンタ、気前よさを発揮するなら、馬車くらい一台贈呈したらどうです。まったく、そんなに自信がないんですか?」
「うるさい」
白雅は二人の言い合いを聞きながら、胸の奥が少しだけ温かくなった。昨夜とは違う温もり──優しい気配だ。
「あぁ、ちゃんと返しに来るよ。また土産話を持ってな。そうだ、成人したから酒も飲めるようになったんだ。今度は一緒に飲もう」
「そうか。楽しみにしている……そうだ、白雅。お前にこれをくれてやる。世界でひとつだからな。大事にしろよ」
手渡されたものは佩玉と呼ばれる、腰帯に付ける飾り玉だった。表面には紅煇王を表す個人の紋が大きく刻まれており、背面には韋煌国王家の紋まで刻まれていた。
「これ……」
「まぁ、一種のお守りだな。俺は傍で守ってやれないから。困ったときは遠慮なく使え。少しは役に立つ」
少しどころか、これでは紅煇王が白雅の後見人についたと世間に知らしめるようなものだった。しかし、赤鴉のその気持ちが嬉しかったので、白雅は礼を言って受け取ったのであった。
「ありがとう。大切にする」
大切なものが、またひとつ増えた、と白雅は思った。
*
馬車での旅は快適とは言い難かったが、馬で駆け続けるよりも何倍もマシだった。砂利道を進むたび、車輪がきしむ低い音が車内に長く響いた。
交代で御者を務めた白雅と紫闇が、あまり揺れないような道を選んでいたことを、忉李はあとで知った。
そして、長旅を経てついに、忉李と景葵は桜花国に帰還した。見慣れた国境の桜紋が風にはためき、四人の胸に静かな安堵が広がった。ここまで来れば、玉蓮の王宮まであと少しだ。
「それで……王になんと言い訳をするつもりだ?」
「僕は湯治を兼ねて静養に向かったことになっているからな。旅に出た白雅と紫闇に帰る途中で偶然会ったことにしよう」
「……そんな偶然、あるのか?」
胡乱気な視線を向ける白雅に、忉李は何故か胸を張った。
「いいんだ。あるということにする」
その仕草に、かつてよく見た面影がよみがえり、景葵は思わず目を細めた。誰かに似てきた、と景葵は思った。その誰かは自分のことを棚にあげて苦笑している。白雅が景葵の視線に気づいた。
「ん? なんだ、景葵」
「いや、なんでもない」
白雅は首をかしげつつも、自分たちの姿を見直した。砂埃にまみれた衣は、乾いた土の匂いを強く吸っていた。御者を務める二人が砂埃で汚れていることは言うまでもないが、忉李と景葵も見るからに煤けていた。
「じゃあ、王宮に戻る前に、忉李と景葵はどこかで着替えたほうがいいな。長旅感丸出しのくたびれ具合だ」
「そうか。じゃあ、そうする」
白雅は馬車の揺れの中、ふと昨夜の出来事を思い返した。わずかに胸元へ手を添える。胸の奥に、まだ熱のような余韻がかすかに残っていた。
赤鴉のことを考えると、今も息が詰まるようだった。だが今は、忉李と景葵を無事に帰すことだけを考えよう。そう思って、白雅は軽く息をついた。
途中の町で二人を清潔な衣服に着替えさせると、顔や手足も丁寧に拭わせた。湯で絞った布巾から立つ蒸気が、二人のこわばった表情を緩めていった。
御者を景葵に代わり王宮を目指す。城門の前には武官たちの視線が静かに集まり、空気がわずかに引き締まった。城門で止められたが、景葵の顔を見た武官はすぐさま敬礼した。
「これは、景葵殿。お戻りでございましたか。どうぞ、お通りください」
王宮の門をくぐった韋煌国の紋の入った馬車に、重臣たちは何事かとゾロゾロ姿を現し、炉橘王までも姿を見せた。忉李が歓声をあげて、馬車からおりた。
「父上!」
「おぉ、王太子よ……」
父の炉橘王を目がけて、忉李が元気に駆けていった。そのあとを慌てて景葵が追う。
「見よ、王太子が駆けておる……これは夢か……」
「夢ではございませんぞ、陛下。白雅の大手柄ですな」
炉橘王付きの近衛隊長である千梨が、豪快に笑いながら大きな身体を揺すった。忉李は老齢の父親を慮って直前で立ち止まった。両腕を父親の前に差し出す。
「ご覧ください、父上。病が完全に癒えたのです」
「おぉ、おぉ、忉李よ。これほど、嬉しいことはない。今日はなんと佳き日だ」
互いに抱き合う父子の姿に、見守っていた重臣たちから、ほっとしたような吐息が一斉に漏れた。それを遠目から眺めていた白雅と紫闇は顔を見合せて笑った。
長い旅路の終わりを告げる穏やかな風が、二人の間をそっと通り抜けた。
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