09.それぞれの思惑
御前仕合からしばらく経ったある日のこと。白雅は景葵とともに忉李に呼びだされた。
「改めて呼び出すなんて、珍しいな。たいがい、用がなくても忉李の傍にいるってのに」
「そうだな。最近、我々の仕事が山積していて隊首室に籠っていたということもあるだろうが……」
いったいなんの用事で呼び出されたのやら。白雅と景葵は二人して首をかしげる羽目になっていた。
太子宮の廊下を進むにつれ、張りつめた静けさが肌にまとわりついた。外の喧噪とは隔絶されたような静寂に、白雅は無意識に背筋を伸ばした。
太子宮に到着すると、中では忉李が二人を待っていた。
「殿下」
「来たか」
「お呼びと伺いましたので」
最初だけ跪いて一礼すると、白雅は外面を作るのをやめた。
「そういえば、軍が物凄く盛りあがっているらしいな」
忉李の何気ない言葉に、白雅は乾いた笑いを漏らした。
「はは……あれは盛りあがっているというか、気炎を吐いているというか」
「白雅に対する怨嗟の声が募りに募って、一周回ったらどうにも違う方向を向いてしまったようで……」
「わっ、こら、景葵!」
忉李が訝しげに目を瞬いた。
「どういう意味だ?」
白雅は視線を逸らした。目が完全に泳いでいる。最近、練武場に入ると決まって熱っぽい視線を感じ、白雅は妙な居心地の悪さを覚えていた。だがまさか原因がこれだとは思っていなかった。
「つまり、白雅に惚れた武官が続出したようです」
「はぁ?」
忉李が素っ頓狂な声をあげた。忉李の眉間がぴくりと跳ね、手にしていた文書がわずかに震えた。
当たり前だ。白雅とて信じたくない。だが、それは何度確認してみても悲しいことに事実だった。練武場へ殴り込みに行くたびに感じる、自分に向けられる熱い視線に鳥肌が立ってしまう。
「しかも、自分が白雅と一緒にいることで、変な誤解を与えてしまったといいますか」
「誤解?」
「いわく、白雅に勝てば逢瀬の約束ができるらしい、と」
忉李の目が思わず点になった。誰が、誰と逢瀬の約束だと?
「それじゃあ……」
「逢瀬の約束を我が物にするべく、奮闘中というわけです」
一瞬、空気が固まった。景葵の淡々とした声音とは裏腹に、忉李の頬がびくりと痙攣する。
「……許せん。白雅にそんな不埒な目を向けるとは、見る目のない連中だな」
「いや、そんな年頃の娘を持つ父親のような反応をされても……」
呆れる白雅を放っておいて、忉李は景葵をキッと睨みつけると同意を求めた。
「お前はわかるよな、景葵。お前なら僕の気持ちをわかってくれるよな?」
詰め寄る忉李に、景葵は若干引き気味ながらも、主の望む通りの答えを返した。
「もちろんです、殿下」
「お前まで馬鹿なことを言うか、景葵」
「馬鹿なこととはなんだ。大事なことだぞ、白雅」
熱弁する忉李に、白雅は肩の力を抜いた。もうなにを言っても無駄だと悟ったように、視線を床へ落とす。当分の間、景葵ナシでは練武場には近づかないでおこう。それが賢明だ。
しばし、三人の間には妙な沈黙が落ちた。だが、その空気を破ったのは白雅だった。
「そんなことよりも、話があったんじゃないのか? 忉李」
その言葉で、動揺していた忉李は我に返った。
「……そうだ。いかん、すっかり忘れていた」
忉李が咳払いをして居住まいを正す。なんとなく、白雅と景葵の背筋も自然と伸びた。
「……実はな、竜神と竜珠に関する伝承を、今、王宮の学者たちに調べさせている」
「は?」
唐突な言葉に、白雅は目を丸くした。だが、忉李はその反応が心外だったようで、抗議の声をあげた。
「白雅が言ったのではないか。忘れたとは言わせんぞ」
確かに言った。だが、それを王宮の学者たちに調べさせている、だと? 白雅はおそるおそる尋ねた。
「それで……なんと?」
「ありとあらゆる条件を鑑みた結果、竜神に祝福された島というのは、この島のことであって、竜神が存在しそうなのは、やはり霊王山である可能性が高いそうだ」
「だが、霊王山は……」
「あぁ、韋煌国の領土だ。それが問題なんだ。真偽を確かめようがない。竜神が本当に存在するかどうかもな」
白雅は顎に手を当てた。
「結局、入って確かめるしかないということか──他に、わかったことは?」
「伝承によると、人知れず姿を消した竜神だが、その後の目撃情報もないわけではないらしい。ただ、僕が気になるのは、竜神が人々の願いを叶える代わりに対価を要求した、という件だ。建国神話ではこの部分に触れていない。いったいなにを要求されるのかがわからないんだ」
だが、白雅は事もなげに答えた。
「差し出す対価なら予想くらいはできる。その願いの大きさに見合った分だけの対価を要求されるらしいからな。外国では有名な話だぞ」
「そうなのか? だが、竜神は、永き時を経るうちに人の邪悪な心に触れて悪神へと変化したのだという説もあるくらいだ。油断はできない」
忉李の言葉は厳しい。しかし、白雅は竜神に関して少し思うところもあった。そういう意味では、白雅はこの場にいる誰よりも事態を楽観視していると言ってよかった。あの友人がいれば、最悪でもどうにかなるはずだ。
「そうか、わかった。助かるよ……それにしても、忉李、どうしてそれを調べさせたんだ?」
「それは……白雅が行くと言っていたから、少しでも力になれたらと思って……」
「!」
頬を染めてゴニョゴニョと呟く忉李に、白雅は目を丸くした。とうに忘れていると思っていたのに。
「たったそれだけの理由で、わざわざ王宮の学者たちを動かしたのか?」
「たった、じゃない。お前は僕の大事な近衛だ。なにもわからないような危険な場所に行かせられるか。どうせ行くのならせめて万全の準備を整えてから行ってほしいと思うのは、いけないことなのか?」
言い終えたあと、忉李はわずかに拳を握った。自分の声が震えたのを悟ったのか、目線を逸らす。
「忉李……」
白雅は言葉に詰まってしまった。忉李はそれには気づかず心情を吐露する。
「本当は、どこにも行ってほしくない。でも、決心は固いのだろう? だったら僕は、僕にできることを、と……」
「うん、ありがとな。忉李の気持ち、嬉しいよ。だが、なんでそんなに忉李は私に懐いたかね。私は異形だぞ? 髪は白いし、目は紅いし……」
「そんなことはない! 白雅の瞳は紅玉みたいで凄く綺麗だ。髪だって、雪みたいじゃないか」
率直に綺麗だと言われて、白雅は思わず頬を染めた。この瞳と髪を褒められたのは初めてだ。
「あ……ありがと……」
柄にもなく照れている白雅に、褒めた忉李まで恥ずかしくなってきた。互いに照れている主従に、景葵はため息をつくと口を挟んだ。
「それで、殿下。自分へのお話はなんです?」
「あぁ、それなんだが……悪い、白雅、少し席を外してくれるか?」
「構わない。外で待っているから、話が終わったら呼んでくれ」
白雅はさっと外套を羽織って立ち上がると室の外に出た。温かな風が吹き抜けていく。いい天気だった。
外気に触れると、陽光に温められた草の匂いがふわりと漂った。その匂いが胸の奥のざらつきをひととき和らげてくれる。
白雅の旅支度はすでに整っていた。王宮に入ったその日から少しずつ準備を重ね、あとは出立するだけ──本来なら、誰にも告げずに姿を消すつもりでいた。だが、それはとうに見抜かれていた。白雅の小さな主はなかなかに鋭い。
本来なら、別れを惜しまれることなく去るほうが楽だった。誰にも心を寄せなければ失う痛みもない──それが白雅の流儀だった。
白雅は首を傾げた。忉李がどうしてこれほどまでに自分を気にかけるのか、それだけは終ぞわからないままだ。
白雅は他者の心の機微には敏いはずだが、自分に向けられる好意にはまったく気づく様子がなかった。それは、いつも景葵が横で呆れ顔を隠しもしないほどに、明らかだった。そもそも自分が人に好かれることがあるとは頭から思っていない。それが原因だった。
抜けるような青空を仰いだ。雲の切れ間の、さらに先に存在するはずの、霊王山の姿を幻視する。そこに竜神がいると信じている。
風が白い髪を揺らした。息をひとつ吐く。会わねばならない──胸の底に沈んだ願いが、静かに疼いた。
そのとき、内側から扉が開かれた。出てきたのは景葵だった。どこか不機嫌そうな顔をしている。
「どうした、景葵。殿下に我儘でも言われたか?」
「うるさい」
どうやら図星のようだと白雅は思った。景葵の不機嫌そうな表情の奥に、言えない苛立ちと焦燥がちらりと覗いた。本当に景葵はわかりやすい。だが、他の近衛たちは、隊長の考えなどわからない、と口を揃えて言うのだ。感想が真逆なのは、これ如何に。
「で、私は中に入ってもいいのか?」
「あぁ」
再び入室すると、景葵とは対照的に、忉李はご機嫌だった。
「白雅、僕は決めたぞ。景葵と、静養を兼ねて湯治に行ってくる」
唐突にそう言い出した忉李に、白雅はわずかに眉を寄せた。だが、その裏にある思惑に、まだ気づいていなかった。
「湯治? またどこかに行くのか? ……ずいぶんと急だな」
「そ……そうか? 人のあまりいないところでゆっくりと静養したいんだ」
我ながら良い言い訳を思いついたと忉李が思ったのも束の間、忉李の身体を心配する白雅の言葉に撃沈する羽目になる。
「だが、少しは身体を動かさないと体力と筋力が落ちる一方だぞ? 静養ばかりというのも身体によくない」
「だから、それは……」
ついにしどろもどろになってしまった忉李に、ため息とともに救いの手が差し伸べられた。
「あまり殿下を困らせるな、白雅」
「景葵」
「殿下は長期の静養にお出掛けになる。自分はその供をする。行き先は警護の都合上、非公開とする。以上だ。他に聞きたいことは?」
有無を言わさぬ景葵の声音に、白雅は胡乱気な眼差しを向けた。
「護衛は大勢連れて行くんだろうな?」
「いや、お忍びだからな。自分一人だ」
「はぁ? 温泉で痛い目見たのは誰だよ」
過去の傷を抉る言葉にも、景葵は動じない。
「今度は大丈夫だ。確信があって言っている」
「……本当だろうな?」
「本当だ」
どう考えても嘘をついているとしか思えなかった。怪しすぎる。白雅はため息をついた。
「なぁ、景葵。それって嘘だろ? なぜ私に嘘をつく」
「……それがお前のためだからだ」
景葵は言葉を絞り出すように告げた。胸の奥が冷たく疼いた。
「私のため? ……だったら見え透いた嘘などつくな。そっちのほうが心配だ。考えていることがあるのなら言え」
景葵は、白雅の目を真正面から見られなかった。白雅の瞳がかすかに冷える。胸の奥で、なにか小さなものがすっと冷えた。信じていた分だけ、その温度差が白雅にはこたえた。
白雅は嘘を嫌う。嘘は信頼を揺るがせるからだ。だからこそ景葵の沈黙は、彼女にとって裏切りにも似た感覚を呼び起こした。
「わかった。もういい……殿下、御前失礼します」
白雅は短く息を吐くと、冷えた声で言った。踵を返し、室を出ていく。扉が閉まる乾いた音が、室内に長く尾を引いた。景葵には、それがやけに大きく響いた。
室内に重い沈黙が満ちる。ややあって景葵は忉李に頭をさげた。
「……申し訳ありません、殿下」
「いや、謝るのはこちらのほうだ。お前に嘘までつかせて……結局、白雅を怒らせてしまったな」
どこかしょんぼりした様子の忉李に、景葵はなにも言えなかった。景葵とて、忉李の『提案』に納得したわけではないのである。見るに見かねて助け舟を出したつもりが、白雅には通用しなかったというだけのことだ。
「実行に移せば、おそらくもっと怒らせることになりますよ?」
「あぁ、そうだろうな。だが、それでも僕は……」
忉李の悲愴な面持ちに、景葵は黙り込むしかなかった。
そして、翌日、白雅は炉橘王に謁見を願い出て許された。旅立ちのときが近づいていた。
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