08.酒のせい

 白雅が景葵の助けを借りて起きあがると、周囲にどよめきが走り、空気がひやりと沈んだ。


 白雅の外套が捲れ、陽光を弾くような白髪と、血のように鮮烈な紅い瞳があらわになる。


「おい、嘘だろ……? あれ、『白い子供』じゃないか?」

「白い髪に真紅の瞳……間違いない……」


 ヒソヒソと囁き声が波紋のように広がっていく。景葵はわずかに眉根を寄せたが、その場に集まった視線の重さを感じていた。


 白雅は何事もなかったかのように簪を髪に挿すと外套を被り直した。心の奥でわずかにざらつきが走ったが、表情には出さなかった。落ちた剣を拾おうと一歩踏み出しただけで、近くの者が思わず身を引き、ヒッと小さな悲鳴があがった。


 ざわめきが渦のように広がりかけたその瞬間、審判の鶴の一声が場を鎮めた。


「静粛にせよ。陛下から褒詞を賜る」


 景葵と白雅はその場に跪くと頭を垂れた。敗者である白雅は心持ち一歩さがっている。


「勝った者も、負けた者も、皆、素晴らしい仕合であった。特に、勝者の景葵よ、そなたの技量、見事であった。そなたたちほどの強者が王太子を守護していることを心より頼もしく思う。これからも王太子のために尽くせ」

「は、ありがたきお言葉……」


 一層深く景葵が頭を垂れたときだった。


「ときに白雅よ」

「はい」


 白雅は呼ばれて顔をわずかにあげた。御簾越しに忉李の誇らしげな顔と、老王の感嘆に満ちた顔が見えた。


「女性(にょしょう)の身でありながら、此度の獅子奮迅の活躍、見事と言うしかない。王太子の目は確かだったと言うべきだな。益々精進せよ」

「畏れ入ります」


 その瞬間、場の空気が一瞬止まった。誰もが王の言葉を聞き間違えたのではないかと、思わず息を呑んだほどだ。だが彼らの王は、確かに言ったのだ。『女性』と。


 周囲では動揺が広がっていた。『白い子供』であることに王は触れなかった。その一点で、場にいた武官たちは、上層部がすでに事実を把握していたのだと悟った。


「嘘だろ……?」

「白雅が……女……?」


 顔を見合わせる武官たちの喉が、ごくりと鳴った。


「俺たち、女にあれだけしてやられていたってのか……?」


 事実を知って収まらないのが武官たちだった。口惜しいやら情けないやら、男の矜持が不満に変化する。


「なんで女が武官で、それも王太子付きの近衛なんだよ」

「おおかた色目でも使って取り入ったんだろ」


 武官たちの中に、怨嗟の声が渦巻き始めた、そのときだった。


「黙れ! 小童どもめ!」


 雷鳴のような大喝が轟いた。誰もが一瞬で声を失う。白雅は目を丸くした。この声は。


「千梨殿!?」

「貴様らの目は節穴か!? この王宮に、白雅ほどの腕を持つヤツがどれほどおるか! 負け犬の遠吠えもたいがいにせぇ!」


 そこまで叫んだところで、千梨の顔色が不意に変わった。大男の肩が小さく震え、先ほどまでの豪胆さが嘘のように消えた。


「……うぷっ」


 なんと気分が悪いというのに、担架で身柄を運ばせ無理を押して決勝戦を観戦していたらしい。


 なんとも見かけ通り豪胆なお人だ。白雅は思わず笑ってしまった。それを見て、また千梨がなにか怒鳴ろうとしたようだが、あまりの気持ち悪さに耐えきれず座り込んでしまったのだった。



 白雅はケラケラ笑いながら、千梨の見舞いに訪れていた。その明るい声が、静まり返った救護室には不釣り合いなくらいだった。


 救護室には薬草を煎じた匂いが漂い、格子窓から差し込む夕光が千梨の寝台を淡く照らしている。


 傍らの桶に身を預けながら、千梨はげんなりした顔で白雅を睨みあげた。


「千梨殿、無茶だよ。あの状態で怒鳴るなんて」

「まったく、貴様というヤツはヘラヘラしおってからに! もっと悔しがるとか、怒るとか、ないのか!? うぇっ……」

「ないな。事実を言われても別になんとも。事実でなければもっと問題外なんで」

「せっかく、平和に慣れ切った武官たちに新風を吹き込んでくれたと思っとったのに。うぷっ、おぇっ……」


 吐き気に眉をしかめながらも、文句だけは止まらない。桶を抱えてケロケロ大合唱しながら、千梨はぶつくさと文句を言った。その姿が可笑しくて、白雅は思わず肩を震わせた。


「まさか、女だったとは儂も思わなんだが、貴様の腕は本物だ。なにひとつ恥じることはない」

「……あぁ。ありがとう」


 白雅は一瞬だけ目を伏せたが、その顔にはどこかほっとした影が差した。


「ところで、どうやって王太子殿下と知りおうたのだ?」


 白雅が詳細を説明すると、千梨は腕を組んだ。


「そうだったか。確かに近頃、韋煌国の動きが怪しいという重臣たちの進言はあったようだが、すでに殿下にまで手が回っていたとは」

「王の判断かどうかはまだわからないがな。韋煌国の紅煇王は、三年前に即位したばかりだ。だが、若いながら武にも通じ、頭の切れる人物らしい。策謀家と評されるのも伊達ではない──そう聞いている」


 白雅が旅をして得た風聞を口にする。


「ふむ……覚えておこう。陛下には儂からも進言しておく……さて、今宵は宴だ。宴席に戻るとよい」

「戻っても仕方がないな。居場所がないのでね」

「では、殿下の元に戻るといい。退屈しておられるだろうからな」

「そうだな」


 白雅が千梨と別れ、太子宮に戻ると、外はもう深い夕闇で、王宮の灯りがゆらゆらと石畳を照らしていた。


 そこには何故か忉李がいた。


「どうした、忉李。今、宴の真っ最中ではないのか?」

「抜けてきた」


 どうやら忉李は拗ねているようである。白雅は忉李の近くに寄ると、その髪をクシャクシャと掻き回した。


「景葵が人気者でつまらないか?」


 忉李は視線を逸らし、机の端を指でなぞった。なぞる指先は、どこか落ち着きなく震えている。


「……それもある。だが、僕が気に食わないのはお前のことだ」

「は?」


 思わぬ話に白雅は目を丸くした。


「お前は一般枠から勝ちあがって、その実力で堂々と準勝者になったんだ。それなのに……」


 忉李が唇を噛み、視線を落とす。白雅はその反応を見て小さく微笑む。


「いいんだ。言っただろ? 慣れているってさ」

「お前はよくても僕が嫌だ。僕が大人ならとっくにヤケ酒している」

「……じゃあ、お言葉に甘えてヤケ酒といきますか」

「は?」


 カラリとした白雅の言葉に、忉李は目を点にした。


「お前、まさか、ここで飲むつもりか?」

「駄目か? 前に言っていただろう。一緒に酒を飲んでみたいと」

「言っていない。お前と景葵が酒を飲むところを見てみたいと言ったんだ」

「同じことさ。じゃあ、少し待っていろ」


 そう言うや否や、白雅は庖厨所(りょうりどころ)へと駆けていった。

 まもなく、彼女は酒と果汁飲料を手に戻ってくる。


「ほら、忉李。これは酒入ってないから」

「……ありがとう」


 しばらく二人で飲んで話をした。たいがいは忉李が白雅にねだった旅の話だった。静かな太子宮に、白雅の軽い語り口と忉李の笑い声だけが響いていた。


「……それで、どうしたんだ?」

「どうもこうもない。そのままとっとと逃げたよ」

「向こうもあっさり逃げられるとは思っていなかっただろうな」


 どの話も忉李には新鮮で面白かった。そのうち廊下から足音が近づき、景葵が戸口に姿を現した。


「殿下、こちらにいらしたのですか」

「悪いか」


 素っ気ない忉李の返答に、白雅が苦笑して景葵に事情を説明した。


「景葵。今、忉李はご機嫌斜め中だ。それより、ほら、酒杯だ。お前も飲め」


 酒の入った盃を渡されて、なんとなく景葵は忉李が不機嫌な理由を察する。確かに武官たちの酒席での白雅への暴言は目に余った。


「まさかとは思うが、殿下にも酒を……」

「心配するな。そっちはただの果汁飲料。酒は一滴も入っていない。毒味済みだ」

「そうか」


 それから三人で話をした。話が今日の仕合の内容に及ぶと、景葵が白雅に絡み始めた。


「無敵のお前の唯一の弱点だな。お前は俺たちに比べて力が弱く体重も軽い。並の男より遥かに強いからそこまで考えが及ばなかったが、考えれば自ら答えは出る。どんなに強いといっても力で真っ向勝負をして、お前が俺や千梨殿に敵うわけがなかったんだ」

「……あぁ、その通りだ」


 白雅が気のない風で同意する。だが、景葵はそこで止まらなかった。


「それをわかっていながらも、力尽くでお前を降参させた俺は、本来ならば卑怯者の誹りを受けるべきだろう。だが、結果はこれだ。納得がいくわけがない……」


 どこか悔しそうな景葵の言葉に、白雅は苦笑して宥めにかかった。灯火に照らされた景葵の横顔には、悔しさと誠実さが入り混じった影が落ちていた。


「結果は結果だろう。男も女も関係ない。お前が私よりも強かった。ただ、それだけだよ」

「だが……すまない、白雅。それだけは言わせてくれ」


 やや暴走しているな、と白雅は思った。よほどあの仕合に思うところがあったのだろう。だが、謝られる筋合いはない。


「……確かに饒舌だな」


 意外や意外、延々と止まらない景葵に、忉李はこらえきれずに苦笑を漏らした。その笑いにつられて、白雅も景葵もふっと表情を緩めたのであった。



 翌日。飲み過ぎたのか、景葵は珍しく二日酔いだった。


「ったく……ほら、これ飲んでおけ」


 白雅は丸薬を景葵に突き出した。


「……なんだ、これは」

「二日酔いを和らげる薬、とでも言っておくよ。あとで吐き気止めの薬湯も淹れてやる」

「……すまない」


 景葵は丸薬を受け取ると、一瞬だけ眉間に皺を寄せた。普段なら成分から効能まで確かめる几帳面さを見せるのに、今日は素直に飲み込んだ。その様子がなんだか可笑しくて、白雅は内心で肩をすくめた。


「昨日の記憶はあるのか?」

「ある」

「ふーん。酔ったら記憶をなくすとか、そういうわけでもないんだな」

「一度だけ、記憶をなくすほど飲んだことがある。だが、それだけだった」


 おそらく景葵のことだ。一人で飲んだのだろう。誰にも迷惑をかけていなければ、それはそれで問題ないのだが。昨日は景葵もヤケ酒気味で、やや暴走していたため、釘くらいは刺しておこうと白雅は思った。


「しっかし、景葵は酒に酔うと一気にヘタレになることが、よーくわかったよ」

「誰がヘタレだ。失敬なヤツめ」


 景葵は眉をひそめて抗議したが、傍でこの様子を見ていた忉李も白雅の言葉に頷いた。どうやら昨夜の景葵の暴走は、忉李にも相当印象に残っていたらしい。


「僕も白雅に同意見だ」

「……殿下まで」


 苦笑しつつではあったが、忉李にまでそんなことを言われて、景葵は結構な衝撃を受けた。


「ほら見ろ。昨日はそんなに飲んだのか?」

「飲んだと言っても、宴席での付き合い程度で……あ……」

「なんだ、思い当たる節でもあるのか?」


 顔を覗き込んでくる白雅の視線を直視できずに、景葵は目を泳がせた。


「……武官たちに乞われて飲み比べをした」

「いったい何人と飲み比べしたんだ?」


 景葵はしばし沈黙し、額に手を当てた。


「……覚えていない」


 脳裏に、酔った武官たちが「隊長殿、次だ!」「まだいけるだろう!」と囃し立てていた断片だけが、ぼんやりと浮かんだ。


 白雅は絶句した。つまり、覚えていないほどたくさん飲み比べをしたということに他ならない。このザルめ。


「もったいないなー。酒は嗜むものであって、競って飲むようなものじゃないぞ」

「……面目ない」


 これを機に、もう二度と醜態は晒すまいと、景葵は心の中で固く誓った。もっとも、その誓いが守られるかどうかは、誰にもわからないが。

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