10.旅立ちのとき
跪いた白雅は、御簾越しに炉橘王と対面していた。
「陛下におかれましては、このたびの拝謁をお許しいただき、まことにありがたく存じます」
「王太子がそなたを近衛に召して、もうみ月か……この前の仕合、余も見た。見事であった。軍の者どもが刺激を受けたと聞く。そなたの働きは、想像以上だ。それで、此度は何用で参ったのだ?」
「畏れながら、近衛の任を辞して旅に出るお許しをいただきに参りました」
炉橘王は驚いたように目を見開いた。
「一応、理由を聞こうか。王太子はそなたを非常に気に入っている。余が止めても聞かぬほどにな。これまでひとかたならぬ寵を受けていたはずだ。それが何故、そのように考えるに至ったのか、聞かせてもらおう」
王の言葉に、白雅は慎重に言葉を選んで口を開いた。
「畏れながら、陛下は竜神の伝説をご存じでしょうか」
一拍、息をためる。
「竜神は、対価と引き換えに願いを叶える竜珠を持つと──荒唐無稽と思われるかもしれませぬが」
「ふむ……そなたには、そうまでして叶えたい願いがある、ということか。存在するかもわからぬものになにを願う?」
白雅は答えをためらわなかった。
「王太子殿下の病の快癒を」
「!」
「畏れながら、わたくしの見立てでは、殿下の病は現在の医術では治せるものではございません。ですが、万に一つでも可能性があるのならば、それに縋りたく存じます。殿下には黙って出てゆきます由、陛下に申し上げた次第でございます」
炉橘王は難しい顔で腕を組んだ。典医からの報告はすでに受けている。息子の病は治らぬ──そう言われていた。だが今、眼下で膝をつく女武人の眼差しに、わずかな希望を見た。
「よかろう。許可する。首尾よく願いを叶えて戻った暁には、褒美は思いのままぞ」
「ご高配に感謝いたします、陛下」
白雅は再び頭を垂れた。
*
旅支度をすっかり調えて、白雅は忉李の室に生まれて初めて書いた手紙を置いた。近衛の隊首室にも顔を出し、景葵の室に手紙を置く。この自分に大事なものができたのが嘘みたいな気分だった。
白雅は王宮の匂いや空気を振り払うように歩き出した。
「よし。行くか」
見送りもなく、白雅は旅立つ。しばしの時を過ごした王宮に別れを告げて。
(まずは、韋煌国でアイツを捜すか……)
城下町の厩舎で馬を借り、一路、韋煌国との国境を目指した。
数日駆けて、国境近くの町の厩舎に馬を預け、関所を抜けて国境を越えた。通行手形は元々持っていた物を使った。韋煌国の王が桜花国の領土を狙っているのならば、桜花国発行の通行手形は不利になる可能性が高い。そう判断した結果だった。
(尾行(つけ)られているな……)
国境を抜ける少し前から、白雅はわずかな追手の気配を察知していた。追手の気配は二つ。片方は巧妙、片方は粗い。
巧妙なほうは、足音も呼吸も揺れない。風の中に溶けるような影だ。粗いほうは、気配の消し方が甘く、時々小石を踏む。
だが、仕掛けてくる気配はない。そのため余計に追手の意図を測りかねた。
(さて、どうするか……)
正体がわからないのであれば、おびきだしたほうが早い。白雅はあっさりそう決めると、最寄りの町を目指して歩き続けた。以前の記憶が正しければ、確か、この道の先に廃墟があったはずだ。そこで仕掛ける。
日暮れ前には廃墟に辿り着いた。廃墟の街は、壁の崩れた家々が影だけを残し、誰の気配もなかった。倒れた灯籠、子どもの玩具の欠片、風化した看板など、生活の痕跡が砂に埋もれてしまっている。踏みしめた瓦礫が乾いた音を立てるたび、静寂の底に沈んでいくようだった。
白雅は廃墟の街を奥へ奥へと進む。やがて、道が途切れ、突き当たりに出た。
廃墟の奥は、風の通らぬほど静かだった。砂の舞う音さえ聞こえない。風も止まったかのような静寂が、白雅の背を押した。
白雅は呼吸を整え、手のひらで剣の柄をなぞる。足を止めると、静かだがよく通る声で話しかけた。
「出てこいよ。尾行(つけ)ているんだろ?」
後ろを振り返るも、反応はない。仕方がない。
「出てこないのなら……こちらから行くぞ」
殺気を放った白雅が腰の二口の剣に手を掛けたときだった。
「待て。早まるな、白雅!」
「……は?」
聞き覚えのありすぎる声に、白雅は思わず呆気に取られた。馬鹿な。彼が、こんなところにいるはずがない。だが、この声は。まさか。
「忉李、か?」
呆然と呟くと、物陰からまろび出るように少年が姿を現した。
「白雅……」
予感は確信に変わった。白雅はツカツカと少年との距離を詰めると、声を潜めたまま、クワッと怒鳴った。
「気配、ダダ漏れなのはお前だな、忉李! 何故、こんなところにいる!? いや、お前が一人でいるわけがない。景葵、出てこい!」
声を抑えているというのに、物凄い迫力だった。声に呼応するように、物陰から、スッと男が姿を現した。紛れもなく景葵だった。
「お前というヤツは……!」
怒りにプルプルと震える白雅に、景葵は気まずそうに視線を逸らしたが、やがて、降参とでもいうように両手を軽くあげた。少年──忉李が白雅に縋りついてくる。
「待て、白雅! 景葵は最後まで反対したんだ。それを押し切ったのは僕だ!」
「えーえー、そうだろうとも。だがな……お前たち二人してこんなところまで来るなんて正気か!?」
わしっと忉李の頭を掴むと、両側から拳をグリグリと押し当てる。中指をわずかに押し出すと痛さ倍増だ。
「痛、痛い! 白雅、ごめん、ごめんってば!」
思わず悲鳴をあげた忉李に、景葵が目を剥いた。
「白雅、殿下になんということを!」
だが、白雅の反応は冷たかった。
「その呼び方は今すぐやめろ、景葵。ここはもう桜花国じゃない。韋煌国なんだ。別の呼び方を考えろ」
「む……すまない」
白雅の無礼を非難したつもりが、いつの間にか景葵が非難されているという状態に、景葵は戸惑った。
「だが、その前に……」
白雅はどかっとその場に腰をおろした。
「事情を説明してもらうぞ! 洗い浚いすべてな!」
怒れる白雅を宥めるには、二人は言われた通りにするしかなかった。おそるおそる忉李が口を開いた。
「最初は……ただ、白雅を一人で危険なところに行かせたくないって思いだけだったんだ。だけど、景葵は僕の護衛があるから動けないし、他の人間なら、白雅の足手まといになってしまうし」
「……」
忉李は、白雅が無言のままじっと自分を見つめているのに気づき、肩を強ばらせた。
「だったら、って思ったんだ。僕が白雅についていけば、景葵もついてくる。白雅と景葵なら、僕を守りながら旅もできるだろう。それはこの前の温泉での出来事が証明している」
「言っておくが、あれは桜花国内だったからこそできたんだ。ここをどこだと思っている……それで続きは?」
冷たい白雅の声に、忉李は泣きそうになりながら話を続けた。
「だから、景葵に『提案』した。長期の静養に見せかけて、二人で白雅を追いかけようって。景葵は反対したんだ。立場を考えろ、って。だけど、僕はどうしても白雅のことが心配で……」
白雅は目を半眼にすると、忉李を真っ直ぐに見据えた。
「自分の身の安全は二の次、三の次ってか? ご立派なことだ」
言いながら、白雅はわずかに息を詰めた。言いたくはない。だが、言わねばならない。
白雅は、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「だがな、忉李。お前のその小さな双肩にはなにが乗っていると思っている。それはとても大きなものだ。背負って立つのが難しいくらいにな。お前になにかあれば、悲しむのは父親だけじゃない。お前に仕える者、お前が守るべき民、皆が悲しむんだ。それを自覚しろ」
白雅の声は静かだった。だが、その奥に、震えるほどの痛みがあった。
忉李は拳を握りしめ、震える肩を押さえつけるように俯いた。思わず感情が爆発する。
「僕が望んだわけじゃない!」
その言葉が廃墟の空気を震わせた。しばしの沈黙が降りる。死んだ街の呼吸さえ止まったように、静かだった。
「だったら、白雅はどうなんだ!? お前が僕の安全や立場を慮ることと、僕がお前を心配すること、どこが違うというんだ! どうして僕が白雅を心配してはいけないんだ? 大切な者に無事でいてほしいと願うことのなにが間違っている!?」
「……願いは間違ってはいない。だが、取った方法が間違っている。致命的にな」
静かな声だった。静かすぎて激昂した感情が一気に冷めるほどに。
「心配するなとも、無事を願うなとも言わん。その優しさはお前の美質だ。ずっとそうあってほしいと願うくらいにはな。だが、お前が第一に優先すべきはお前の立場を貫くことだ。望んで生まれたわけじゃない? あぁ、誰だってそう言いたいだろうさ。だが、お前は望むと望まざるとに関わらず、そう生まれついたんだ。ならば、役目を果たせ。私には私の、景葵には景葵の、そして、お前にはお前の役目がある。そこから逃げることはできん。帰れ、忉李。帰ってお前の為すべきことを為せ」
忉李はついに、声を殺して泣きだしてしまった。それを目の当たりにした白雅は、わずかに眉根を寄せたが、それだけだった。
景葵が静かに抗議する。
「言葉が過ぎるぞ、白雅」
しかし、白雅は小さく鼻を鳴らすと、あえて冷たく言い放った。
「だが、途中で遮らなかったところをみると、お前は私の言葉が間違っていないことをわかっているんだろ? 景葵。だったら、忉李を連れて帰るのはお前の役目だ。無事に連れて帰れ」
だが、景葵は頷かなかった。
「間違ってはいないが、正しくもないな。明らかに言い過ぎだ。王族とて人間だ。想いが暴走することもある。忉李様は本気でお前を案じていた。俺も止めた。だが──その想いだけは、踏みにじれなかった。いつかはお前にもわかる。だから、今は黙って俺たちを連れて行ってくれないか? 足手まといにはならないようにする……頼む、白雅」
寡黙な男が、珍しく滔々とものを言う様を目の当たりにして、白雅は眉根を寄せた。
沈黙。そして──。
「……お前は狡いな、景葵。お前に頼むと言われて、私は断れた例がない。わかっていてやっているなら、反論する余地もあるものを……悪かったよ、忉李。確かに言い過ぎた。だが、私の言い分が間違っているとは思わない。帰る気は……ないんだな?」
泣いている忉李がコクンと頷く。それを見て、白雅は深いため息をついた。おもむろに立ち上がると忉李の隣に腰をおろす。
「確か、泣いているときは許す、だったよな?」
そう言うと、忉李の身体をそっと自分のほうに引き寄せた。忉李は抵抗しない。むしろ、手を伸ばして白雅に縋りついてきた。
「あーもう、本っ当に、なんでお前はそんなに私に懐いたかな……歳が近いからか?」
忉李を宥めながら、まるで見当違いのことを言っている白雅に、景葵は目を細めた。景葵は気づいている。幼い主の想いも、自分の想いも、全部。だから、説得することも、諦めることもできずに、ここまで来てしまった。だが、景葵は決めていた。自分の想いは、箱に入れて、しっかりと蓋をして、鍵をかけて心の奥底に沈めてしまおう、と。困らせるくらいなら、気づかないフリのほうがまだマシだ。
「おおかた子供同士、波長が合うのだろう」
「子供言うな!」
景葵に白雅が食ってかかる。このやりとりは結構定番だった。
(まったく……どうしてこうなる……)
そう思いながらも、手は自然と忉李の頭を撫でていた。
ふと吹き込んだ風が、三人の周りに積もった砂埃をそっと揺らした。激しいやり取りのあとで、廃墟の空気が少しだけ緩んだように感じられた。
「そうだ、『忉李』って名前も人前では呼ばないほうがいいな」
ふと、思いついたように白雅は景葵に尋ねた。景葵はやや考えた末に同意する。
「それもそうだな」
「なにがいいかな……『全(ゼン)』とか」
「どこから出てきたんだ、それは」
「『入』に『王』で『全』だ。本来の字義は違うが……『玉座への入口に立つ者』って意味にも読める。お前に似合ってる」
どうだ、と言わんばかりの白雅の笑顔に、景葵はわずかに顔を引き攣らせた。
「それは、知っている者が聞けば、素性がバレるのでは……」
「だが、名は体を表すというだろう? 仮の呼び名とて、適当につけるわけにはいかない」
「……確かに」
彼女の言い分には一理ある。景葵は頭を悩ませた。
「他にいい案があるなら出せ。なければ……」
「僕はそれでいい。今から僕は『全』だ」
白雅を遮ってそう言ったのは、他でもない、忉李だった。
景葵はわずかに目を細めた。その名が、これからの旅路の象徴になるような気がした。
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