推し活殺人事件⑧

◆第8章 「帰れなかった夜」



その日の収録を終えたあと、

空はスタッフに「お疲れ様でした」と微笑んだ。


歩き出す。

でも、気づいたら

自分の“帰るべき道”ではない方向へ歩いていた。


(家に帰りたくない……)


初めて、空はそう思った。


家に帰れば、

台本がある。

歌のチェックがある。

SNSの通知がある。


そして——

“天城 空としての役割”が待っている。


(……今日は、帰れない)



駅の近くのベンチに腰掛けると、

スマホが震えた。


リーダー・航からのメッセージだ。


《無事ついたか?

また連絡して。》


空は返事ができなかった。


「大丈夫。平気だよ」と言えばいい。

それだけなのに、指が動かない。


返信することで

“天城 空”を演じるスイッチが入ってしまう。

その瞬間に、自分が完全に壊れる気がした。


だから、スマホを伏せて

目を閉じた。


(ごめん……航)



人が多いはずの夜の駅前で、

空はひとりだけ別の世界にいるようだった。


・足音

・笑い声

・電車のアナウンス

・信号の音


全部、ガラス越しのように聞こえない。


(俺、なにやってるんだろ……)


自分でもわからない。

ただ、心が動かない。


冷たい風が吹くと、

やっと少しだけ「生きている」と実感できた。



空は泣かない。

人前ではもちろん、ひとりでも滅多に泣かないタイプだった。


しかしこの夜は違った。


涙は落ちないのに、

胸の奥だけがひどく締まって、

息が何度も詰まった。


(助けてほしい……

でも誰にも言えない……

言ったら全部終わるんだ……)


声を出せないまま、

空はゆっくり俯いた。


涙の代わりに、呼吸だけが震えていた。



ふと、空は思った。


(どうして俺、生きてるんだろう)


死にたいとは思っていない。

でも、生きたいとも思えない。


“天城 空”として生き続けることに、

もう疲れた。


人に優しくすること。

完璧であること。

愛されること。

愛を返すこと。


全部まとめて、疲れた。



空は帽子を深くかぶって、

人混みの中へ歩き出した。


立ち止まれば壊れそうで、

歩き続ければ自分がどこかへ消えてしまいそうで。


どちらにしても怖かった。


スマホは電源を切れなかった。

“天城 空が電源を切る”——

その行為すら許されていない気がした。


ただ通知だけが溜まっていく。


・航

・悠真

・理一

・奏多

・マネージャー


そして——

SNSの

“ファンの愛の言葉”も。



歩いていると、どこかで

EVEの曲が流れていた。


店内から、若いファンの声が聞こえる。


「空くんマジ天使!

最近の闇っぽい表情もヤバい!」


空は足を止められなかった。


逃げるように歩いた。


(俺の“闇”まで…

消費されてるんだ……)


胸がすっと冷えた



気づけば終電は過ぎていた。


タクシーに乗れば帰れる。

でも、空は乗れなかった。


帰ったらまた “天城 空” にならなきゃいけない。


ステージに立つ自分。

SNSに微笑む自分。

ファンの期待を背負う自分。

メンバーを支える自分。


その全部を背負うための“家”には、

この夜だけは戻れなかった。


(……帰れない。

帰ったら、終わる。)


空はひとりで夜を歩いた。

どこへ行くあてもなく。

ただ、天城 空という偶像から、

ほんの少しだけ離れたくて。



何も感じない空の胸で、

唯一、生き残っていた感情があった。


「怖い」


・ファンの愛が怖い

・期待が怖い

・偶像でいることが怖い

・壊れていく自分も怖い

・誰にも言えない自分が一番怖い


その“怖い”だけが、

空を街の暗闇へと押し出していた。



朝になる頃、空はようやく動いた。


家ではなく、

スタジオでもなく、

メンバーの所でもなく、


ただひとつ、“誰も自分を知らない場所”へ足が向いた。


それは

「逃げた」

というより

「戻れなかった」

という方が正しい。


その日、メンバーのLINEは

空からの未読で埋まった。


航は叫びたかった。

悠真は泣きそうだった。

理一は震える手でスマホを握りしめ、

奏多はずっと空を探していた。


でも空は、

誰にも何も言えなかった。


この夜が、

後戻りできない崩壊の第一歩だったことを

まだ誰も知らなかった。

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