4日目・庭園②

​***


 私の中には、不安を塗りつぶすほどの確信があった。

 アルジェや結城香澄が失敗し、命を散らしたのは、偏に準備不足ゆえだと。


 私は迷宮での長期戦を想定し、道中で確保した木の実と、湧き水を満たした瓶を携えている。瓶も縄も、物資の残骸から使えるものを選別した一級品だ。


 ​だから、私は大丈夫だ。その僅かな油断が、死の呼び水になるとも知らずに。

「キュルルルルルル……」

 空間を埋め尽くす絶望の羽音に、私は息を呑んだ。

 私の持つ【弓と矢】は、巨躯の敵を穿つには適している。だが、中型で俊敏な【蝗】の群れは、最悪の相性だ。

 狙いが定まらな――。


 ​ズシュッ。

「ぐ……っ、あぁ!」


 ​右腕に鋭い痛みが走る。

 勝てない。私の計算も、想定も、この暴力的なまでの物量の前では無力だった。

「うわあああああああ!」


 ​私はなりふり構わず走り出した。背後からは、肉を裂こうと迫る羽音が執拗につきまとう。


 そのとき、私は悟った。この遊戯は、私の努力も、積み上げた練習も、すべてを等しく無価値な塵として踏みにじっていく。


 意味など、最初からどこにもなかったのだ。

***

「はぁ……はぁ……っ、はぁ……」

 どれほど逃げ惑っただろうか。辿り着いた巨大な空洞に、【蝗】の姿はなかった。

 迷宮に入ってから数時間か、あるいは一日か。時間の感覚は麻痺し、湧き水も食料も底を突いた。すべてが、ぐちゃぐちゃだった。

「……情けないですね」


 ​背後の球体から、悠里がぬっと顔を出した。


​「あなたは、どうしてそこまで生に執着しているんですか?」

 不快そうに顔をしかめる彼に、私は乾いた声で答えた。


「生きていれば、生きたいと願うのは……当然の理法じゃない」

「そうですか?  僕は三大欲求――いえ、睡眠欲と食欲を満たせればそれでいいんですが」

 反論する気力もなかった。彼という存在には、言葉のすべてが虚空に消えるような虚無感がある。

「……父がね、言ったのよ。最期に『生きろ』って。ありがちでしょう?  でも、私に遺されたのはその呪いのような言葉だけ。だから、縋るしかないのよ」

「僕には、そんな感情、分かりません」

 悠里はあくびを噛み殺しながら、突き放すように言った。

 その瞬間、彼の本質の片鱗――人ならざる、絶対的な断絶が見えた気がした。


 ​ふと視線を空洞の奥へ向けると、そこには凄惨な血溜まりがあった。

「……結城、香澄……?」

 それは、辛うじて顔の判別ができる程度の肉塊だった。

 【蝗】に貪られた彼女の死体。その無残な死体を見ても、私は悲しみなど感じなかった。せいぜい、不運だったのだと、冷淡に評するだけだ。

 だが――文々悠里に指摘されるまで気づかなかった。

 私の思考は、常に乾いていて合理的だと思っていた。でも、本当は。

 誰よりも死を恐れ、誰よりも生に固執していたのは、この私だったのではないか。

 足元が崩れ去るような戦慄に、指先が震えた。


​「……先に、進まないと」

 目を逸らすように踵を返した、その瞬間。

「……っ、痛っ」

 脚に、焼けるような激痛が走った。

 それは、細く、鋭い――針のような感覚。


​「結城香澄……!」


 ​私が叫ぶと、死体だったはずの肉塊が、嘲笑うように口端を歪めた。

 彼女は息絶える寸前、最後の力を振り絞って投擲したのだ。

「これで……お揃いだね、百合坂」


 ​再び彼女が手を振り上げようとした、その時。

 シュッ。

 刃のような黒い髪が閃き、一瞬で結城香澄の首を跳ね飛ばした。

 文々悠里だった。

「油断しすぎです。……それにしても、こいつ、相当に質が悪い」

 悠里は死骸を見下ろし、忌々しげに吐き捨てた。


「自分の【毒針】を【能力】だと認識していながら、その毒自体は【能力】ではなく『参加者を殺すための【災い】』として定義し直している。システムの隙間を突いた、悪辣な攻撃です」

 そんなことが、あり得るのか。

 毒そのものを【災い】として認識させるなんて。

 思考を続けようとした瞬間、視界がぐらりと傾いた。

 言葉が出ない。顎が動かない。

 猛烈な麻痺が、全身の神経を瞬く間に侵食していく。

​ これが――死、なの?


「あ」


​***


 ​僕は、最期に小さな呟きを漏らしたきり、物言わぬ人形となった少女を見つめ、深いため息をついた。

「……帰りますか」


 ​そう思った。だが、ふと足が止まる。

 静寂に包まれた洞窟。ここで引き返しても、後味の悪さが残るだけだ。

「……本体だけ、片付けておきますか」


 ​仕方ない。このままでは、今夜の眠りが浅くなりそうだ。

「全く。睡眠妨害もいいところですよ」

 僕は黒い球体を解き、深淵の奥に潜む「本体」へと、静かに歩みを進めた。

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